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第五話 水の下で、彼女は鱗を持っていた

夕方、屋上を降りて、僕は普段通りに帰った。

普段通り、というのが何を意味するのかは、たぶん見る人によって違う。少なくとも、足は前に進んでいた。鞄は肩にかかっていた。靴の踵は地面を踏んでいた。それだけで「普段通り」と呼べるのなら、僕は普段通りに帰っていた。

副部長には、結局、ほとんど説明しなかった。

「七瀬さん、何だったの」

「……話があるって」

「うん」

「明日までに、答えを出せって」

「何の」

「……それを、まだ整理してる」

副部長は、僕の顔を二秒見た。それから、深いため息をついた。

「危なくなったら、すぐ言いなさい」

「うん」

「ルウアが横にいるんだから」

「うん」

「あんた、本当に頼りないのよ」

「自覚はある」

ルウアは、僕の隣で、いつも通りの無表情で副部長を見ていた。

「副部長」

「何」

「私は、横にいます」

「うん。知ってる」

「事実です」

「事実、ありがとう」

副部長は笑った。少しだけ無理をした笑い方だった。

それで、僕は校門を出た。

ルウアは、いつもの分かれ道で、いつも通り、僕より早く反対方向へ歩いていった。

「明日、また」

「ああ」

「……何かあれば、呼んでください」

「呼んでも、来るのか」

「来ます」

「……」

「私は、横にいると申し上げました」

ルウアは、それから、ほんの少しだけ間を置いて、付け加えた。

「形式上ではなく」

僕の足が、止まりかけた。

ルウアは振り返らずに歩いていった。

家へ帰る途中の道に、川がある。

正確には、川と呼ぶには細い。市街地を東西に走る用水路で、両側にコンクリートの土手があって、上を低い欄干のついた橋が何本かまたいでいる。子どもの頃から、通学路の一部だった。

僕は、その橋の一つの上で、足を止めた。

理由は、自分でもよくわからない。

ただ、家にすぐ帰る気がしなかった。家に帰って、夕飯を食べて、いつもの机に座って、いつもの天井を見ながら、「七瀬に結婚してくださいと言われた」という事実をどう処理するか考える、その一連の作業が、今の僕には少し重すぎた。

だから、橋の欄干に手を置いて、川を見た。

水は、夕方の光をわずかに含んで、灰色がかった青に揺れていた。流れは緩い。深さは知らない。子どもの頃は浅いと思っていたが、大人になるにつれて、深さを確かめる機会はなくなった。

頭の中で、彼女の言葉が回っていた。

形式が、感情を含む可能性は、否定しません。

それは、肯定ではなかった。でも、否定でもなかった。

僕がずっと、教室の窓の外を見るふりをしながら、本当は隣の席を意識していた、あの時間と同じ場所に、その言葉はあった。

否定形でしか言えない、何か。

「……」

僕は、欄干から手を離した。

帰ろう、と思った。

その瞬間、背後で空気が変わった。

風ではなかった。風なら、頬に当たる方向で気づく。これは、もっと低い。地面の振動に近かった。

僕は振り返った。

橋の入口に、人が立っていた。

人、ではなかった。

人型だったが、関節が多すぎた。腕が、肩から先に三つの節があり、それぞれが別の角度に曲がっている。顔がない。あるのは、額にあたる位置に灯った、赤い小さな光だけだった。

「……は?」

声が出た。だが、僕の声を確認するように、その人型は一歩、橋の上に進み出た。

地面の振動が、もう一段、強くなった。

逃げる、と頭が言った。

足は動かなかった。

僕は、見ていた。

関節を数えていた。

肩から先で三つ。肘から手首までで二つ。手首から指先までで、たぶん四つ。普通の人間の腕より、関節が、合計三つ多い。歩幅は人間とほぼ同じだが、左右の足の着地のタイミングだけが、ほんの少しだけずれている。一歩ごとに、地面の振動が、僕の靴の裏に届く。

その人型の、関節の角度。歩幅。重心の移動。

すべてが、机を飛ばした時の七瀬の動作と、同じカテゴリの精密さだった。

ただし、向きが逆だった。

七瀬の動作が「最小の手数で最適な結果」を導く方向だったのに対して、こちらは「最小の手数で対象を消去する」方向に最適化されていた。

「……」

口の中が乾いた。

その時。

橋の反対側から、足音が来た。

七瀬だった。

走っていた。

僕は、自分の人生で、七瀬が走るのを初めて見た。

「下がって!」

声だけは普段通りに澄んでいた。でも、声量だけが、いつもの一・五倍だった。

僕は、後ろへ下がろうとした。

下がろうとしたところで、橋の欄干に背中がぶつかった。

その瞬間、人型の腕が伸びた。

腕が、伸びたのだ。物理的に。肩の関節からほどけるように、まっすぐ僕の方へ。

「うわっ」

僕は欄干から身を離そうとしたが、間に合わなかった。

人型の腕が、僕の鞄の肩紐を掴んだ。

引っ張られた。

欄干を越えた。

落ちた。

落ちる、というのは、不思議な感覚だ。

時間が遅くなる、というのは、よく言われる。だが、僕の感覚では、時間は遅くならなかった。普通の速度で、僕は普通に落ちた。ただ、その普通の落下の中で、頭が普段の三倍くらいの速度で、いろいろなことを処理した。

水面までの距離。たぶん四メートル。

水深。たぶん二メートル以下、と思っていたが、最近の長雨で深くなっている可能性。

着水時の体勢。今のままだと背中から。背中はまだいい。

問題は、肩紐を掴まれていることだ。

人型が、上から落ちてくる。一緒に。

橋の上に、もう七瀬の姿はなかった。

着水。

冷たかった。冬ではなかったが、夕方の用水路は、思っていたよりずっと冷たかった。

水中で、僕は目を開けた。

緑がかった暗さ。視界はぼやけている。だが、上の方が明るく、下の方が暗い、という方向感覚は残っていた。

肩紐は、まだ引っ張られていた。

下へ。

人型は、僕を水の下へ運ぼうとしていた。

意識的に、下へ。

僕は、抵抗した。鞄の肩紐を外そうとしたが、片手では難しかった。もう片方の手で、人型の腕を押し返した。固い。金属の固さだった。

肺の中の空気が、減っていた。

その時、視界の右側で、何かが動いた。

七瀬だった。

橋の上からは飛び込んでいない。

水の下、横の方角から、来ていた。

僕は混乱した。

なぜ、横から。

水の中で、彼女の制服のスカートが、揺らいでいた。

いや、揺らいでいた、というのは正確ではない。

ほどけていた。

スカートの布が、水の中で繊維単位で分解され、彼女の脚と一体化していった。

分解の動きは、布全体が一斉に進むのではなかった。布の表面の埃の流れだけが、本体より一拍だけ先に動いた。それから、布が、その流れに合わせて遅れて溶けはじめた。

これを、僕は、知っていた。

廊下で、机が頂点で止まったとき、机の周りの埃だけが本体より遅れて動いた、あれと同じ系統の動きだった。

ただし、向きが逆だった。

机のときは、埃が本体より遅れた。

今は、埃が本体より先に動いている。

脚の輪郭が、太腿から下、一つにまとまっていく。曲線。光沢。鱗だった。膝の位置だったところに、薄い鰭の縁が形成されていく。

僕は、酸欠の最中で、それを見ていた。

七瀬が、近づいてきた。

水の中なのに、彼女の動作には抵抗が見えなかった。水を押すのではなく、水と位相を合わせているように、滑るように来た。

彼女が、口を開いた。

「警告します」

水の中で、声が聞こえた。

──水の中で、声が聞こえた。

それが、たぶん、彼女の能力の中で、僕の理解の枠を最初に超えた現象だった。

「あなたを下方に運搬中の個体に対し、即時停止命令を発します」

人型は、停止しなかった。

七瀬は、頷くような動作を一度だけした。確認の動作だった。

「了解。続行不能。水流計算を開始」

彼女の尾鰭が、一度だけ、長く打った。

それだけだった。

水の中で、流れが変わった。

僕の目の前で、人型の腕が、突然斜めに引かれた。引いたのは水ではない。だが、水の流れが、人型の関節の弱い方向に集中して、外側へねじっていた。

彼女が、水流を、人型の弱点に集めていた。

「……すごい」

水の中で、僕は口の動きだけで言った。声は出なかった。

七瀬の視線が、一瞬だけ、僕に向いた。

そして、ほんの少しだけ、目を伏せた。

それから、もう一度尾鰭を打った。

人型の腕が、関節から千切れた。

肩紐は、外れた。

僕は、上へ向かおうとした。

意識が、もう半分以上、薄れていた。

七瀬の腕が、僕の肩を支えた。

冷たかった。だが、皮膚の冷たさではなかった。金属の冷たさだった。

そのまま、上へ運ばれた。

僕は、咳き込んだ。空気が、一気に肺に入ってきた。冷たい空気だった。普通の空気だった。

七瀬は、僕を土手の上に押し上げた。

水面から半分だけ顔を出して、土手のコンクリートに片手を置いて、僕を支えていた。彼女の胸から下は、まだ水の中だった。

それは、たぶん、彼女が今の自分の身体を、僕に見せたくなかったからだ。

「……」

僕は、何も言えなかった。

七瀬が、ごく短く言った。

「呼吸を整えてください」

「うん」

「五回、深呼吸」

「うん」

「私はもう少し、ここにいます」

「水の中で?」

「水中の方が、現状の身体には適合しています」

「……」

僕は、咳き込みながら笑った。たぶん、笑った。

「俺、見てたよ」

「何を」

「お前が、足、変えるとこ」

七瀬は、答えなかった。少しだけ、目を伏せた。

「……忘れてもらえると」

「無理」

「そう」

「すごかった」

「すごい、ですか」

「うん。技術として」

「技術として」

「あと、絵としても」

「……」

「水中で、髪がふわっと広がるんだな」

「黙ってください」

「はい」

七瀬は、たぶん、人生で初めて、僕に対して指示ではない命令を出した。

「黙ってください」は、業務命令ではなかった。

僕は、ちゃんと、黙った。

一拍。

風が、土手の草を一度だけ撫でた。

その風の音に紛れて、たぶん、彼女の口から、もう一つ、短い音が漏れた。

「……竹内」

聞こえた、と思った。

いや、聞こえなかった、かもしれない。

風だったかもしれない。

確かめる方法は、ない。

七瀬は、もう、目を伏せていた。水面の少しだけ下に、口元が沈んでいた。

僕は、聞かなかったことに、することにした。

たぶん、彼女が、聞かれたくなかったから。

橋の上で、人型の残骸が、土手の方へ崩れ落ちた音がした。

七瀬が、それを見上げた。

「破壊は完了しました。位相反応、消失」

「敵だったのか」

「敵、と分類される対象でした」

「種類は」

「ご説明します。後ほど」

「うん」

「ただ──」

七瀬は、水面の少しだけ下から、僕を見上げた。

「──もう、戻れません」

「うん」

「あなたは、もう、見えてしまったので」

「うん」

「決断を、いただきます」

「明日まで、じゃなかったか」

「状況が、変わりました」

水面に、夕方の光が、最後の一筋だけ残っていた。

僕は、土手のコンクリートに手をついた。

手が、震えていた。

でも、その震えは、たぶん、怖さだけではなかった。

「……結婚しようか」

口に出てから、自分でも、その言葉の軽さに笑った。

七瀬は、笑わなかった。

ただ、ごく短く、頷いた。

「承認、受領しました」

「相変わらず、事務的だな」

「事務的でないと、続きません」

「続く、って何が」

「形式が、です」

「……」

「あと、感情も、たぶん」

七瀬は、たぶん、それを言いたかっただけだった。

そのために、屋上で「明日までに」と言ったのだ。

そのために、今ここに、水の下から来たのだ。

土手の上から、足音がした。

副部長だった。

そしてその後ろに、ルウアがいた。

二人とも、息を切らしていた。

「竹内!」

副部長の声だった。

僕は手を上げた。「無事」

副部長は、土手の上から、僕を見た。それから、水面に半分だけ顔を出している七瀬を見た。

しばらく、副部長は、何も言わなかった。

それから、ごく短く、こう言った。

「……あんた、本当に、両隣ヒロインアニメの主人公やってるじゃない」

「副部長」

「何」

「冗談、今は厳しい」

「ごめん」

副部長は、本当に、ごめんなさい、という顔をした。

ルウアが、ごく短く付け加えた。

「副部長は、冗談で本気の感情を処理する人ですから」

「お前、解説するな」

「事実です」

「事実、今は痛い」

夕方の風が、最後に一度だけ、吹いた。


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