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第四話 提案

放課後、写真部の部室で、僕は普段通り何もしていなかった。

何もしていない、というのは正確ではない。展示用の写真の並び順を、副部長と確認していた。確認、というのは、副部長が並べたものに僕が頷くだけの作業だ。

「これ、左から二番目」

「うん」

「やっぱり一番にした方がいいかな」

「うん」

「あんた、ちゃんと見てる?」

「見てる」

「同じ返事ばっかり」

ルウアは窓辺に立って、外の鳩を観察していた。実用ではないティーカップを手に持ったまま。これも、もう日常になっていた。

「ルウア、また演出してるだろ」

「演出です」

「壊すなよ」

「壊しません」

「事実です、って言わないのか」

「事実、まだ壊していません」

副部長が小さく笑った。

その時、部室のドアが、ノックされた。

僕らが返事をする前に、ドアが開いた。

入ってきたのは、七瀬だった。

部室の空気が、一段、温度を下げた。

ルウアがティーカップを置いた。音もなく、最小の動作で。

副部長が顔を上げた。眼鏡の奥で、ほんの一瞬だけ、目が細くなった。

「……お邪魔します」

普通の女子の声だった。机を飛ばしていた人物と同じ声、というのが、何度聞いても不思議だ。

「七瀬さん」副部長が言った。「写真部に何か」

「いいえ」

「じゃあ」

「竹内、いますか」

副部長は僕を見た。

僕は、固まっていた。

「……いますけど」副部長が言った。

「少し、話せますか」

「何の話」副部長が即座に聞いた。

「個人的なことです」

副部長が、もう一度僕を見た。今度は、目だけで「どうする」と聞いていた。

僕は答えられなかった。

ルウアが横から、ごく短く言った。

「竹内さん。意思決定の権利は、あなた側にあります」

「お前、なんか裁判みたいな言い方すんな」

「事実です」

七瀬は、ルウアを見た。短い視線だった。だが、その短さの中に、何か──同類を見たような、あるいは敵を見たような、その両方かもしれない何か──があった。

ルウアは、視線を返さなかった。

「いいよ」

僕は立ち上がった。

「行ってきます」

副部長は何も言わなかった。ただ、僕がドアを出るとき、低い声で短く言った。

「……気をつけて」

冗談ではなかった。

七瀬が向かったのは、屋上だった。

僕は彼女の三歩後ろを歩いた。彼女は一度も振り返らなかった。背中の方向だけで、僕がついてきていることを把握している、という歩き方だった。

屋上の鉄扉を抜けると、夕方の風が顔に当たった。空はまだ青かったが、端の方だけ、オレンジが滲み始めていた。

七瀬は屋上のフェンスのそばまで歩き、そこで立ち止まった。振り返らずに、街の方を見ていた。商店街の方角だった。

「……鳩、数えてるんでしょう」

僕の足が止まった。

「え」

「今日、いくつ?」

「……今のところ、十六」

「正確ね」

「……」

「他に気づいてることは」

僕は言葉を選んだ。彼女の質問は、雑談ではなかった。何かを確認している。

「コンロボの動きが、おかしい。先週から、月二、三回が、月六回くらいになってる。それと」

「それと?」

「壊れ方が、似てる」

七瀬が、ようやくこちらを向いた。

「似てる、というのは」

「全部、同じ円を描いて止まる。中心と縁の二点を結ぶ線の先に、必ずアンテナがある。アンテナの上に鳩がいる」

「気づいていたの」

「……たまたま」

「たまたま気づける配置じゃない」

夕方の風が、七瀬の髪を一度だけ揺らした。彼女は片手でそれを耳にかけた。前にも見た仕草だった。机を飛ばしたあと、廊下で。

「他には」

僕は、一拍だけ迷ってから言った。

「机が、頂点で、止まったように見えた」

七瀬の表情は、変わらなかった。

「机の周りの埃が、本体より、一拍遅れた」

彼女は、しばらく僕を見ていた。

それから、ごく短く頷いた。

「ありがとうございます」

「……」

「報告として、受け取りました」

「報告」

「あなたの、観測です」

僕は、そこでようやく気づいた。彼女は、僕が彼女の異常を見ていたことを、ここで初めて公式に承認した。叱責でもなく、否認でもなく、ただ受領した。

それは、たぶん、僕の人生で初めて、自分の観察が「報告」として受け取られた瞬間だった。

「竹内」

「はい」

「お願いがあります」

僕は身構えた。

「結婚してください」

時間が、止まった。

「……すみません」

これは、僕の口から出た。

「もう一度言ってもらえますか」

「結婚してください」

二回目の方が、一回目より落ち着いていた。彼女は、もう動揺していなかった。動揺していたのは僕の方だった。

「……あの」

「はい」

「冗談、ですか」

「冗談ではありません」

「告白、ですか」

「告白とは違います」

「違うんですか」

「結婚です」

「順番」

「同じです」

「同じじゃないだろ……」

頭の中で、何かが、五箇所くらい同時に故障した気がした。銀色の巨人が、もう完全に機能停止している。硬派の呪いがどうのこうのと言っている場合ではなかった。

僕は深呼吸した。

「あの」

「はい」

「もう少し、説明してもらえますか」

七瀬は、わずかに首をかしげた。本当にわずかに。だが、それでも僕には見えた。彼女が、僕が逆ギレせず、騒がず、ただ説明を求めたことを、計算していなかったことを。

彼女は、少しだけ目を伏せた。

「……意味は、複数あります」

「ですよね」

「私の側では、最短の表現でした」

「最短」

「あなたを保護対象として登録する場合、私の使える言語の中で最短の表記が、それでした」

「……」

「あなたの側の言語では、別の意味が一番強く出ると、知識としては理解していました。でも、最短を優先しました」

「優先したのか」

「時間が、ありません」

その「時間がない」が、彼女の口から、たぶん本日初めて、感情に近い響きで出た。

僕は黙った。

夕方の風が、また髪を揺らした。彼女はもう、それを耳にかけなかった。

「竹内、あなたは──」

七瀬は、言葉を一度区切った。

「見えている人です。普通の人よりずっと、見えています」

「……」

「だから、見えてしまった以上、もう戻れません。これから先、見えてはいけないものに、あなたは順番に気づいていきます」

「鳩」

「鳩は、入口です」

「コンロボ」

「あれも入口です」

「先には」

「先には、見たら戻ってこれないものが、たくさんあります」

僕は、フェンスに手を置いた。鉄の冷たさが、手のひらに残った。

「あなたを、守る必要があります。そのために、私の側のシステムで、あなたを正式に登録する必要があります。登録の最短表記が、私の言葉で『結婚』に相当します」

「相当」

「翻訳の問題です」

「翻訳」

「あなたの世界の言葉に、私の側の概念をそのまま乗せると、別のものになる。一番近い、けれど、本来の意味とは少し違う言葉が、結婚です」

「……結婚って、少しずれた近似値なんですか」

「はい」

近似値、と彼女は言った。

けれど、彼女の言い方には、一つの近似値ではなく、複数の重なった近似値が見えた気がした。彼女が訳しているのは、たぶん、一つの単語ではない。複数の異なる言語から、同じ「結婚」という日本語に同時に翻訳されている、その混線を、彼女自身が完全には分けられていない。

最短プロトコル、と彼女は言うが、その最短の中に、最短でない響きが少なくとも一つ、混ざっている。それが何なのかは、たぶん、彼女もまだ分けていない。

「すごいな、それ」

「すみません」

謝った。たぶん、本当に、すまないと思っていた。

僕は、フェンスの向こうの街を見た。商店街の方向。アンテナ。鳩。

「もう一個だけ、聞いていいですか」

「どうぞ」

「……あなたは、誰ですか」

七瀬は、答えなかった。

代わりに、ごく短く、こう言った。

「言えません。今は」

「いつなら」

「あなたが、もっと見えるようになったら」

「……」

「私の側からも、伝えていいタイミングというものがあります。今は、最短プロトコルだけを実行させてください」

「結婚しろ、ってことですか」

「形式上の登録です」

「形式上」

「ただし──」

七瀬は、初めて、少しだけ目を伏せたまま続けた。

「形式が、感情を含む可能性は、否定しません」

「……」

「私自身も、その境界を、まだ完全には判別できていません」

「……」

「答えは、今でなくていいです」

僕の口が、一瞬だけ動いた。今でいい、と言いかけた。

言わなかった。たぶん、その方が、彼女のためだった気がした。彼女が「今でなくていい」と言ったのは、僕に時間を与えるためというより、彼女自身が今すぐ受け取る用意ができていないからだ、という気がした。

彼女は、ようやくこちらを真っ直ぐ見た。

「ただ、明日までに決めてください」

「明日」

「それより遅いと、間に合いません」

「間に合わない、って」

「あなたが、間に合いません」

夕方の風が、強くなった。

七瀬が屋上から去ったあと、僕はしばらく動けなかった。

フェンスの向こうで、商店街のアンテナの上に、今日は五羽の鳩が止まっていた。

合計、二十一羽だった。

増えている。

増え続けている。

そして、たぶん、ただの鳩ではない、ということは、僕はもう、ずっと前から知っていた。

ただ、認めていなかっただけだ。

僕は、屋上のドアの方を見た。鉄扉の向こうで、たぶん、副部長とルウアが、僕を待っている。

僕は何と説明すればいいのだろう。

「七瀬に、結婚してくださいって言われた」

口に出してみた。

風が、それを聞いた。

風以外、聞いてくれそうな相手は、今は、いなかった。

鞄からノートを出した。

出したが、何を書けばいいのかわからなかった。

鳩の数も、線も、円も、今日は記録する気にならなかった。

ノートを閉じた。

たぶん、今日は、観察の日ではなかった。

たぶん、今日は、観察される側に、初めて立った日だった。


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