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第三話 彼女は、机を移送した

第三話 彼女は、机を移送した

噂は、午前中のうちにクラスを一周した。

「二年B組のさ」「七瀬機がやった」「またか」「ケガはなかったらしい」「ケガがないのが逆に怖い」

僕の二つ前の席の男子が振り返って、その情報を共有した。聞いた限り、二年B組の教室前で、避難通路を塞いでいた机を、誰かがどけさせようとした。三人組の男子が拒んだ。それを「七瀬機」と呼ばれる女子生徒が、机ごと飛ばして退かせた。

「飛ばした、って」

「人の頭の上を、こう、ぴゅーっと」

「死なないか、それ」

「だから怖いんだって」

ルウアが横で淡々と言った。

「軌道計算が成立していれば、危険はありません」

「お前、その理屈は人前で言うな」

僕がそう言うと、ルウアは小さく頷いた。

「理解しました。心の中だけで言います」

「それ、言ってるのと同じだろ」

午前中は、それで終わった。

昼休み、僕は写真部の現像液を補充するために、旧校舎の方へ向かう必要があった。

理由はなんとなく説明したくないが、最近、僕は廊下を歩くときに鳩の有無を見るようになっていた。今日は新校舎の屋根の上に四羽、職員棟のアンテナに二羽。合わせて六羽。校外を含めると、たぶん十二羽。確実に増えている。

その途中、中央渡り廊下で、足が止まった。

人だかり。ざわめき。スマホを構えている生徒。教師の姿はない。

「……また、ですかね」

僕が言うと、ルウアは首を横に振った。

「人間由来の騒動です」

「何その言い方」

「内部トラブルという意味です」

中央渡り廊下を抜け、二年B組の教室前。人だかりの中心に、いた。

長い黒髪。整いすぎている横顔。無駄のない立ち姿。同じ制服のはずなのに、どこか着方が違う。着ているのではなく、被覆している、という方が正しい気がした。

「あ……」

僕は思わず立ち止まった。

ルウアが淡々と言った。

「二年B組管理監視アンドロイド、L-7型」

「通称」

「七瀬機。生徒間呼称です」

「お前、よく知ってるな」

「校内情報の整理は基本機能です」

「お前自身も校内情報じゃねえか」

「分類は別系統です」

そういう問答をしている間に、状況は一段進んだ。

問題の机は、避難通路の前に斜めに放置されていた。確かに通路を塞いでいる。三人組の男子は、明らかに楽しんでいる顔だ。一人が机を蹴る真似をして、もう一人が笑っている。

七瀬は、無表情のまま立っていた。

「警告します」

声が、澄んでいた。驚くほど普通の、綺麗な声。

「避難導線の妨害は学校安全法第三条に抵触します」

「またその話かよ」

「片づけてください」

「嫌だね」

一秒。二秒。

僕の目は、七瀬の表情の変化を追っていた。変化はなかった。完全に、なかった。表情がない、というより、今、表情を見せない選択をしている、という方が近かった。

次の瞬間、彼女が片手で机の端を掴んだ。

「うわっ」

僕の声が漏れた。

彼女は机を片手で軽々と持ち上げ、手首のスナップだけで押し出すように放った。重い机が、男子たちの頭上三センチを正確な放物線を描いて通過する。

ただ、頂点付近で、机の周りの埃の流れが、本体より一拍だけ遅れて動いたように見えた。

視覚の問題かもしれない。けれど僕には、見えた。

風が鳴る。どん、と音を立てて机は壁際へ着地した。

しかも、ただ置いたのではなかった。避難通路を完全に確保した、理想的な位置だった。

沈黙。周囲が凍る。

彼女は無表情のまま言った。

「これは投擲ではありません」

男子たちが固まる。

「危険物排除。力学計算に基づく合理的な移送です」

僕の隣でルウアがぽつりと言った。

「見事な軌道計算です」

「そこ感心するところ?」

「技術的には」

僕の足は動かなかった。動かなかったというより、動かしてはいけない気がした。彼女の動作の余波が、まだ廊下の空気の中に残っていた。落ちた机の位置、人だかりの最も外側の生徒の足の位置、避難通路の幅、その全部が、彼女の一動作で最適化された結果として並んでいた。

机の角度。

通路の幅。

男子三人の体勢。

そのすべての配置を、彼女は事前に決めていた。机を持ち上げる前から、終着点が見えていた。

ただ、頂点の埃の動きだけが、決めていなかった気がした。あれだけが、計算の外にあった気がした。

「怖っ」

思わず口に出た。

彼女の視線が、初めてこちらへ向いた。

目が合った。

まずい。

「……何か?」

普通の女子高生みたいな口調だった。それが逆に怖い。

「い、いや」

僕は慌てて首を振った。

「すごいなって」

一瞬の沈黙。周囲の空気がまた止まった気がした。

彼女はほんの少しだけ目を伏せた。

「当然です」

そう言ったあと、なぜか耳元の髪を指で払った。妙に人間っぽい仕草だった。

そのとき、男子の一人が捨て台詞のように言った。

「……感じ悪い女」

次の瞬間。

七瀬のつま先が、足元にあった工事用の三角コーンを軽く蹴り上げた。ふわりと浮いたそれを片手でキャッチし、そのまま男子の顔の横、二センチの壁に押し当てる。静まり返る廊下。

「再警告します」

男子が青ざめる。

「心理的威圧を伴う対人挑発行為を確認」

「精神的損傷閾値の安全範囲内です」

「それギリギリすぎるだろ」

僕の口から、ほぼ反射的に出ていた。

彼女がこちらを見た。今度は少しだけ表情が動いた。何か──興味とも、確認とも違う、もう一段奥にあるもの。

「あなた」

「はい?」

「写真部の竹内ね」

「……え?」

何で知ってる。

ルウアが横で淡々と補足した。

「昨日、商店街で副部長と歩いていた。校内観測ログにも一致しています」

「お前も言うな!」

七瀬は、それには応えなかった。

ただ、僕を見ていた。

僕を見ている、というより、僕の見ているものを見ている、という奇妙な感覚があった。彼女は、僕の目の奥にあるものを覗き込んでいた。

たぶん、こうだ。普通の生徒なら、机が飛んだことに驚いて、それで終わる。僕は驚いたが、その先まで見ていた。机の角度、通路の幅、三人の体勢、その全部を僕が把握していたことを、彼女は把握した。

そして、たぶん、頂点で埃が遅れたことも、僕が見ていたことを、彼女は把握した。

僕が窓の外を見るふりをしながら教室を観察してきた長い長い時間が、たぶん今、彼女の目の中で初めて言語化された。

「……仲がいいのね」

ふいに、彼女が言った。

「いや、そういうんじゃ」

「そういうの?」

「違います!」

彼女は何も言わなかった。少しだけ視線を逸らした。その横顔は、さっきまで机を飛ばしていた人物と同じとは思えないくらい綺麗だった。

ルウアがぼそっと言った。

「合法的に怖いですね」

「お前、口に出すなよ」

その瞬間、彼女が再びこちらを見た。

「聞こえているわ」

「すみません」

ルウアが即座に頭を下げた。

七瀬の視線は、もう一度、僕の方へ戻ってきた。

そして、彼女は、何も言わずに、教室の中へ戻っていった。

男子三人は完全に静かになっていた。

「絵になるな」

気づいたら口に出ていた。

そして気づいた。鞄の中で、僕の右手が、カメラのストラップを握っていた。

握っていた、というより、握りに行っていた。意識より先に。

構えなかった。構えたら、構図が決まる。決まれば、たぶん、切ってしまう。

切れば、たぶん、七瀬機は、撮られたことに気づく。

気づかれたら、僕は終わる。

ルウアが横で静かに言った。

「私は一度もそう言われたことがありません」

「お前にはまた別の絵があるよ」

「慰めですか」

「事実だよ」

ルウアは、ほんの少しだけ首をかしげた。

「……承知しました」

それから、もう一度、廊下の先を見た。七瀬の姿は、もうなかった。

「竹内さん」

「ん?」

「あの人は」

ルウアが、ごく短く間を置いた。

「あなたを観察対象として認識したように見えました」

「……お前にもそう見えたか」

「はい」

「俺もそう思った」

「珍しく一致しましたね」

「いつもしてるだろ」

「……否定はしません」

廊下の窓から、商店街の方角が見えた。

アンテナの上に、今日は四羽だった。

増えている。

僕は鞄からノートを出して、もう一本、線を引いた。

線と、円と、鳩の数。

今日は新しい項目が一つ増えた。**頂点で遅れる埃**。

書きながら、自分の鉛筆が少しだけ震えていた気がした。

僕はそれも、線の隣に小さく書き加えた。


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