第二話 部室の三人と、不機嫌なコンロボ
転校から三日目の朝、ルウアは僕の隣に普通に座っていた。
普通、というのが何を意味するのかは、たぶん見る人によって違う。少なくとも、朝の挨拶を済ませ、鞄を机の脇に置き、教科書を取り出し、シャープペンを準備する一連の動作を、二日目より三日目はわずかに速く完遂していた。三日目の彼女は、二日目の彼女より一・三秒くらい効率がよかった。
「測ってるでしょう」
ふいに、ルウアが横から言った。
僕は顔を上げた。彼女は教科書を開いたまま、目だけをこちらへ動かしていた。
「測ってない」
「測っています」
「測ってない」
「視線の角度と滞留時間から推定可能です」
「お前、本当に何者だよ」
「転校生です」
「即答すんな」
朝のホームルームのチャイムが鳴った。彼女は再び教科書に視線を戻した。
左隣で、今村さんが、ノートにペンの先を置いたまま動かさずにいた。書いているのか、書いていないのか、いつもの通り判別がつかない。
今日も、ふりが三重に重なっていた。
昼休み、僕は写真部の部室に向かった。
「今日、連れてくる約束だから」と昨日言ったらしい。覚えていない。だが副部長から朝に「忘れてないわよね」というメッセージが来ていたので、たぶん約束はした。
ルウアは、僕が言う前に立ち上がった。
「写真部、ですね」
「……お前、それも測ってんの」
「副部長さんから昨日、廊下で『明日連れてきて』と言われました」
「いつ」
「あなたが体育館へ移動している間です」
「俺の知らないとこで根回しすんなよ」
「根回しではなく、確認です」
部室のドアを開けると、副部長は予想通り暗室の前で台紙を並べていた。顔を上げ、僕を見て、ルウアを見て、もう一度僕を見た。
「あら」
「副部長」
「噂の」
「噂って何」
「私の中で一人で噂してた」
副部長は近づいてきて、ルウアの正面に立った。背の高さがほとんど同じだった。副部長が眼鏡をくいっと押し上げると、ルウアもごく自然に、それに合わせるように姿勢を整えた。
「ルウアさんね」
「はい」
「写真部、興味ある?」
「形式上は」
副部長の眉が一瞬だけ上がった。
「形式上?」
「現時点で写真撮影への内発的動機は確認されていません。ただし、部活動所属の社会的要請は理解しています」
「……竹内」
「はい」
「面白い子ね、この子」
「俺もそう思う」
「敵意は感じない。ただ、人類のサンプルとして来てるみたい」
「俺もそう思う」
「お前ら、本人の前で何の話してるんだ」
ルウアは僕らを順番に見て、ごく短く頷いた。
「私も似たような認識です」
「肯定すんな」
副部長は笑いをこらえるように口元を曲げ、ルウアに椅子を指し示した。ルウアは座った。腰を下ろす動作が、相変わらず最小の距離だった。
「ルウアさん。せっかくだから、写真、見てもらおうかな」
副部長は壁に貼ってある何枚かの写真を指した。展示用の選別途中のものだ。商店街の夕方。校庭の朝。屋上から見た商店街のアンテナ。町の何でもない一瞬を切り取ったやつ。
ルウアは立ち上がり、一枚ずつ順番に見ていった。
途中で、一枚の前で止まった。
商店街の夕方、副部長が「私、好き、この写真」と言ったやつだ。後ろ姿の女子が一人、夕日に向かって歩いている。
ルウアは数秒、それを見ていた。
「……何か」副部長が聞いた。
「この写真は」とルウアは言った。「撮影者が、被写体の存在を尊重しています」
副部長の手が、ほんの少しだけ止まった。
「どういう意味」
「正面から撮らず、背中で済ませている。これは撮ることへの遠慮であり、同時に、被写体の歩く時間を妨げないという選択です」
「……」
副部長は数秒間、ルウアを見ていた。それから、僕を見た。
「竹内」
「はい」
「この子、本当に何者なの」
「俺が一番聞きたい」
ルウアは、自分が何か特別なことを言ったとは思っていない顔で、次の写真へ視線を移していた。
副部長は、ルウアがもう離れたのを確認してから、僕の方へ目だけを動かした。
「ねえ、竹内」
「うん」
「この子、ね」
「うん」
「あんた、彼女のこと撮ったの、一回だけだったでしょ」
「……」
「あれ以来、後ろ姿の人、撮ってないよね」
「うん」
「うん、って便利な返事ね」
「便利」
「あんた、その『うん』で、人生の九割、流してきたわよ」
副部長はそれだけ言って、また台紙の方へ向き直った。
ルウアが、いつのまにかこちらを見ていた。
何かを言おうとして、言わなかった顔だった。
午後の授業中だった。
校庭の隅で、不規則な振動音が始まった。最初は誰も気づかなかった。だが、数分後、校庭整備用の小型作業ロボット──通称コンロボの一台が、明らかにおかしい動きをしていることが、窓側の席の何人かに目撃された。
クラスがざわつく。
担任が窓を開けた。
コンロボは、本来やるべき作業の場所から大きく外れて、校庭の中央で円を描きながら回転していた。アームが定期的に上下している。何かを掘ろうとしているのか、何かに信号を送っているのか、よくわからない。ただ、明らかに「指示通り」ではなかった。
「故障かしらね」担任が言った。
「壊れたんすかね」誰かが言った。
「メーカー呼ぶか」
そういう、のんびりした空気だった。校庭でロボットが故障するのは、最近、月に二、三回ある。みんな慣れていた。慣れていることが、今日になって、僕には少しだけ不気味に思えた。
僕は窓際の席ではないが、右隣のルウアは外を見ていた。
「ルウア」
「はい」
「あれ、おかしくないか」
「故障です」
「即答すんな」
「故障ではない場合、別の説明が可能ですが、現在のクラスの認識に合わせて回答しました」
「……お前、それさらっと怖いこと言うな」
ルウアはそれ以上は答えなかった。
授業が終わるまでに、コンロボは止まった。誰かがメーカーに電話したらしい。技師が来て、ぼんやりした顔のままアームの中を覗き込み、首を捻り、また帰っていった。
そのコンロボは、校庭の中央に置いたまま、回収もされずに放置された。
帰り際、僕は何気なくその円の跡を遠目に見た。
円の中心と、円の縁の二点。
その二点を結ぶ線の延長上に、商店街のアンテナがあった。
そして、そのアンテナの上に、今日も金色の鳩が、二羽止まっていた。
僕の頭の中で、勝手に直線が引かれていた。引きたかったのではない。引かれてしまったのだ。観察というのは、たぶんそういう作業だ。引かなくていい線まで、勝手に引いてしまう。
僕は鞄からノートを取り出した。
取り出した、というより、取り出しに行っていた手が、もう動いていた。
白いページに、鉛筆で短い線を一本引いた。
円の中心。円の縁。アンテナの方角。鳩の数。
線と数字。それだけ。
シャッターを切る、よりは軽い動作だった。紙の上の線は、世界に指紋をつけない。誰にも見えない場所で、僕一人の中だけで成立している。
でも、たぶん、不作為よりは少しだけ重かった。
僕は鉛筆を鞄に戻した。
下校時、僕は昇降口で今村さんと、たぶん人生で五回目くらいの偶然のすれ違いをした。
すれ違う直前に、彼女がふと顔を上げた。
僕も、つられて顔を上げた。
僕らの間で、いつもの目を逸らし合いが発生した。
そのとき、今村さんが、ほんの一瞬だけ口を開いた。何かを言いかけて、すぐに閉じた。
「……」
僕も何も言えなかった。
すれ違いざま、彼女は小声で、たぶん独り言として、こう言った。
「……あの鳩、また増えてる」
僕の足が止まりかけた。
だが、振り返らなかった。今村さんも、振り返らなかった。
彼女の足音が遠ざかっていく。靴の踵の音が、いつもの通り規則正しかった。
僕は校門を出た。
商店街の方角を見た。アンテナの上に、三羽。今日は三羽だった。昨日まで、二羽だった。
帰り道で、もう三羽見た。
家の窓枠に、一羽止まっていた。
合計、八羽。
ノートに、もう一本だけ線を足した。
数えはじめている、ということを、たぶん、僕より先に気づいている人間が、世界に少なくとも二人はいた。
ルウアと、今村さん。
そして、たぶん、三人目もいる。
副部長は気づいているが、世界が増えていることには気づいていない。彼女が気づいているのは、僕の方だ。僕が何かを数えはじめていること、僕が何かを撮らないでいること、僕が何かに固まりはじめていること──彼女はそちらだけを見ている。
それは、たぶん、世界の側より、まだ少しだけ、まともな見方だった。




