第十話 線が震えた日
目を覚ましたとき、僕の右手は、布団の外に出ていた。
出していた覚えは、なかった。
寝返りで出したのか、寝入る前から出していたのか、どちらかは、わからなかった。ふだんの僕なら、寝起きの最初の姿勢を、起き上がる前にだいたい逆算できる。今朝は、それが、できなかった。
僕は、その手を、しばらく見ていた。
格子は、出ていなかった。
ただ、格子が出る前の数秒間に、自分の手が「これから出る」と一度だけ合図する種類の感覚を、僕は、もう知っていた。今朝の僕の手は、その合図を一度だけ送って、それから、引っ込めた。
引っ込めた、というより、たぶん、待っていた。
何を、と訊かれても、まだ、答えられなかった。
廊下に出ると、内山が、すでにテーブルの前に座っていた。
クロが、その足元に、丸まっていた。
「起きたな」
「はい」
「具合は」
「……空気が、昨日より、少しだけ薄く感じます」
「慣れだ」
「慣れて、いいんですか」
「慣れていい範囲のものなら、慣れていい」
僕は、テーブルの向かい側に座った。
朝食、というのは、たぶん、こちら側の朝食だった。形は知っているが、味は知らない、種類のものが、いくつか並んでいた。
「食べられるものだけ食べろ」
「はい」
クロが、僕の足元に、軽く、頭を寄せた。
僕は、手を伸ばして、クロの背中に触れた。冷たかった。生きている冷たさだった。
その触れた指先に、ほんの一瞬だけ、青銀の光が、こちら側へ移ったように、見えた。
「内山さん」
「うん」
「これは、移るんですか」
「移る、とは」
「光が」
内山は、しばらく僕を見ていた。
「移らない。観測される側が、移ったように、見えるだけだ」
「見えるだけ」
「君のような目には、移ったように見える。実際は、君の側の知覚が、こちらの脈動と一瞬だけ同期しただけだ」
「同期」
「いい言葉を使うな」
「内山さんの、言葉ですよ」
「使っていない」
「使う前の、たぶんの言葉です」
内山は、ほんの少しだけ、口元を動かした。
クロが、僕の足元から、内山の方を、見上げた。たぶん、笑っている、と僕は思った。
笑う犬、というのは、こちら側では、ありえる種類の現象だった。
廊下の方から、足音がした。
七瀬が、扉のところに、立っていた。
簡素な服を着ていた。昨日、僕が指先で触れたときに着ていたのと、同じ系統のものだった。髪は、肩のあたりで、軽くまとめてあった。
「おはようございます」
「……おはよう」
僕の口から出た「おはよう」は、ふだんの僕の「おはよう」と、たぶん、少しだけ違っていた。年に数回、今村さんの口に向かって発射されてきた単発装弾の「おはよう」と、別の温度を、今日は持っていた気がした。
七瀬は、それを聞いて、ほんの少しだけ目を伏せた。
それから、内山の方を見た。
「外に、出てもいいですか」
「お前が決めることだ」
「私が、決めました」
「うん」
「彼を、連れて行きます」
内山は、僕を見た。それから、もう一度、七瀬を見た。
「どこへ」
「川の、上です」
「川の上か」
「はい」
「クロを、連れていけ」
「はい」
「私も、行く」
七瀬は、頷いた。
それから、初めてこちらを向いた。
「竹内」
「うん」
「外に、出ませんか」
僕は、しばらく彼女を見ていた。
「目的は」
七瀬は、答えるまでに、たぶん二秒、考えた。
「あなたに、見せたい場所が、あります」
業務寄りの語彙では、なかった。「見せたい」という動詞を、彼女は、初めて、僕に向けて使った。「見せます」でもなく、「見せる必要があります」でもない、「見せたい」だった。
「……はい」
「ありがとうございます」
そう言って、彼女は、ごく短く、頭を下げた。
その角度は、昔と同じ、十五度だった。
ただ、いまは、それが、業務の角度ではないことを、僕は、たぶん、知っていた。
支度は、たぶん、僕の世界よりずっと、簡素だった。
内山が、上着を、僕に渡した。色味は、僕の知っているどの繊維の色とも、少しずつ、ずれていた。袖を通すと、その色味の違いの理由が、わかった気がした。布の繊維の織り方が、僕の知っている平織りや綾織りの規則と、別の規則で組まれていた。
「軽いですね」
「軽い」
「これも、こちら側の物理ですか」
「半分だ」
「もう半分は」
「単に、いい布だ」
内山は、そういう答え方を、する人だった。半分は世界の話で、半分は普通の話。その境目を、明示しない。
僕は、その答え方が、嫌いではなかった。
外に出ると、空が、二色に見えた。
正確には、空全体が、二色に塗り分けられていたわけではない。中央の、ある層の高さだけが、二色の境目に近かった。橙よりも桃に寄った色と、青よりも紫に寄った色が、たぶん、空のあるべき層で、ごく薄く、重なっていた。
「太陽は、一つです」
七瀬が、横で言った。
「昨日、考えていたでしょう」
「うん」
「一つです。ただ、こちらの空気の屈折係数が、向こうと違うので、ある時間帯だけ、太陽の色が、二つに分かれて見えます」
「教えていいんですか」
「これは、教えていい範囲です」
「内山さんが、決めてるんですか」
「内山さんが決めていますが、私も、たぶん、同じ範囲を、選びます」
クロが、僕らの前を歩いた。
歩き方が、知っている犬の歩き方と、少しだけ違った。前足の着地が、ほんの一拍だけ、後ろ足より先に決まっていた。普通の犬は、前足と後ろ足の着地が、もう少し連続的に流れる。クロは、前足を、一度だけ「決めて」から、後ろ足を出していた。
その「決める」一拍が、たぶん、青銀の脈動の、ごく小さな兆候だった。
僕は、その背中を、しばらく、見ていた。
七瀬が、僕より半歩前を歩いていた。
歩幅は、僕とほぼ同じだった。けれど、地面との接地の音が、ほとんど、しなかった。彼女は、こちら側の身体で、こちらの大地を、ふだんから踏んでいる人間の歩き方をしていた。
「七瀬さん」
「はい」
「川の上、というのは」
「橋ではないです」
「うん」
「川の、上空のことです」
「……上空?」
「行けば、わかります」
僕の知っている川の上空に、行けるものは、たぶん、ない。
けれど、彼女が「行けば、わかります」と言うとき、僕は、もうそれを、訊き返さない、ということを、昨日のうちに、覚えていた。
内山と、クロが、僕らの少しだけ後ろを、ゆっくり、ついてきていた。
僕らは、診療所の前庭を出て、初めて、僕にとっての「外」を、本格的に歩いた。
足の裏で、十パーセントだけ重い空気の、そのさらに下にある、こちら側の地面の感触を、僕は、たぶん、初めて、丁寧に、拾っていた。
道は、土だった。
たまに、石が混ざっていた。けれど、その石の並び方が、人間が並べたのか、自然がそうなったのか、判別できない種類のものだった。歩きながら、僕は、その並び方を、頭の中で、線でつないだ。つなぐと、なんとなく、こちら側の人間が踏んだ跡が、見えた気がした。
道の先で、何かが、たぶん、待っていた。
それを、僕は、まだ、知らなかった。
ただ、知らない、ということを、丁寧に歩きながら、覚えていた。
放課後の写真部の部室は、いつもより、空気が乾いていた。
副部長は、机の上にノートを置いていた。竹内のノートだった。
最後の三行を、彼女はもう何度も読んでいた。
> 目の動き、一秒に二回。
> 呼吸の間隔、ない。
> 髪を耳にかけない。
今村さんが、書いた三行だった。
副部長はそれを、書き換えなかった。書き加えもしなかった。ただ、毎日、開いて、最後の三行のところで、止まっていた。
今日も、止まっていた。
今村さんは、副部長の隣の椅子に、いつものように、ごく自然に、座っていた。教科書は出していなかった。手の上に、何も置いていなかった。何も置いていない、ということが、彼女がここに「いる」ということの、たぶん、いちばん明確な意思表示だった。
ルウアは、窓辺に、立っていた。
ティーカップは、もう、持っていなかった。
副部長は、それに、まだ慣れない。慣れない、と自分で言葉にすると、たぶん、それが正式になる気がしたので、言葉にも、しなかった。
部室のドアの内側に、もう一人、立っていた。
七瀬だった。
「位置確保」
そう言ったきり、彼女は、何時間でも、そのまま立っている。
ルウアが、ふいに、独り言を、言った。
「……ここに、いたはずです」
副部長と今村さんが、同時に顔を上げた。
ルウアは、窓の外を、見ていた。
副部長たちの方を、見ていなかった。
「ルウア?」
副部長が、声をかけた。
ルウアは、答えなかった。
副部長は、それで、自分の質問が、たぶん答えられる種類の質問ではなかったことに、気づいた。彼女は、誰に向かって発したわけでもない言葉を、副部長が、勝手に「聞いてしまった」のだった。
そういう種類の発話を、副部長は、これまでルウアから聞いたことが、なかった。
ルウアの口癖は、いつも、誰かに向けて、発射されていた。「事実です」も、「演出です」も、「論理的には」も、すべて、相手のいる発話だった。
「……ここに、いたはずなんです」
ルウアは、もう一度、同じ言葉を、もう少しだけ短くして、言った。
「ここ、って」
副部長は、声をかけ直さなかった。今度は、訊いてはいけない、ということが、もう、わかっていた。
ルウアは、それから、ごく短く、もう一言、言った。
「私の、知っている誰かが」
それだけだった。
それから、彼女は、もう何も、言わなかった。
副部長は、ノートの上から、手を離した。
机の上で、両手を、組んだ。
それから、ドアの内側に立っている七瀬を、見た。
ふだんの七瀬の立ち方と、今日のそれは、違って見えた。違って見えたが、その違いが何なのかを、副部長は、すぐには、言葉にできなかった。
しばらく、見ていた。
そのうちに、七瀬の左肩が、ほんのわずかに、動いた。
下に下がった、というのではない。前に出た、というのでもない。ほんの一ミリか二ミリ、たぶん、何かの方向に、ずれた。
それだけだった。
ふだんの彼女なら、こういう動きは、しない。彼女の「位置確保」は、文字通り、ミリ単位で位置を保つ動作だった。
副部長は、その肩の動きを、数えるように、見ていた。
数えるように、というのは、副部長自身の感覚だった。彼女は、自分が、数えている、と感じた。一回。二回目はなかった。けれど、一回でも、それは「数」だった。
彼女は、それを、机の上のノートに書こうとは、思わなかった。
書かなくても、もう、覚えていた。
今村さんが、副部長の顔を、見ていた。
副部長は、視線を返さなかった。視線を返す必要のない種類の、見方だったからだった。
二人の間で、机の上のノートが、開いたまま、置かれていた。
七瀬が、ふいに、ドアの内側から、半歩、前に出た。
副部長が顔を上げた。今村も顔を上げた。
七瀬は、それ以上、動かなかった。
半歩、前に出た位置で、彼女は、もう一度、止まった。
「……」
副部長は、何も言わなかった。声をかけたら、彼女がもう一度、半歩戻る気がした。今、彼女が、自分の位置確保のプロトコルを、自分で半歩破ったことを、たぶん、誰にも訊かれたくない、と副部長は、感じた。
ふだんなら、誤動作、と言えば済むことだった。
ふだんなら。
今のアンドロイド七瀬は、ここしばらく、ふだんとは少しずつ違っていた。第九話の終わりに、彼女の姿勢の変え方が「いつもより一秒だけ長かった」のと、今日の半歩は、同じ系統の何かだ、と副部長は思った。
数えるように、見ていた。
一秒。半歩。今日のは、その二つ目の数字だった。
ルウアが、窓辺で、ごく小さく、頭を、こちらに向けた。
それから、また、窓の外を、向いた。
その動作は、何かに気づいたが、それを言葉にする回路を、今、自分の中に持っていない、という顔だった。
今村さんが、机の下で、自分の手を、ごく小さく、握った。
副部長は、その動きを、見た。
机の下を見たのではない。今村さんの肩のラインが、ほんの少しだけ、変わったのを、見た。
今村さんも、たぶん、何かを、数えている。
副部長は、自分の隣で、誰かが自分と同じ作業をしている、ということを、はっきり、認識した。
そして、その作業に名前が必要だ、と思った。「数える」では、たぶん、足りなかった。「観察」も、少し違った。「観察される側に立たないために、観察し続けること」、というのが、たぶん、近かった。
長い名前だった。
副部長は、その名前を、ノートには、書かなかった。
書く代わりに、両手を、もう少しだけ、強く、組み直した。
部室の窓の外で、夕方の光が、もう一段、傾いた。
商店街の方角のアンテナは、ここからは、見えない。
けれど、見えなくても、たぶん、鳩は、増えていた。
道が、開けた。
僕らの足元の土が、ある角度で、ふいに、ゆるく、落ちた。
その先に、たぶん、川があった。
ただ、僕は、それを、最初、川とは、認識しなかった。
水の色が、僕の知っている水の色と、違っていた。緑が混ざっているのではない。青が濃いのではない。色そのものが、ほんの少しだけ、位相がずれている、というのが、たぶん、正しい言い方だった。
「川です」
七瀬が、横で言った。
「これ、川なんだ」
「はい」
「色が、違う」
「色は、私たちの目の側の問題です。川そのものは、たぶん、向こうのものと、似ています」
「目の問題」
「ここで生まれた人間は、これを『普通の川の色』として、見ます」
「俺の目では」
「あなたの目では、たぶん、もう少し、青く、見えています」
「うん」
七瀬は、川岸の、少しだけ大きな石の上に、足を置いた。
そして、空を、見上げた。
「ここから、です」
「うん」
「川の、上空」
僕も、見上げた。
最初は、ただの空だった。
二色の境目が、頭上に、来ていた。橙よりも桃に寄った色と、青よりも紫に寄った色が、たぶん、層になって、重なっていた。
それから──
その境目の、少しだけ下に、何かが、脈打っていた。
肉眼で、見えた。
ごく細い、青銀の、糸のような光が、空気の中に、たぶん、十本くらい、たわんでいた。たわみ方は、川の流れと、逆向きだった。川は西から東へ流れていたが、空中の糸は、東から西へ、ごくゆっくり、流れていた。
「これは」
僕の声が、たぶん、ふだんより一段、低かった。
「青銀の、脈動です」
「脈動」
「いつもは、見えません。今日は、見える時間帯です」
「俺の目だから」
「ふだんは、あなたの目でも、たぶん、見えません。今日は、川の上空のある層の屈折係数が、空気の二色の境目と、一致しています。だから、脈動の進行方向が、ごくわずかに、可視光に乗りました」
「教えていい範囲ですか」
「教えていい、です」
僕は、それから、しばらく、何も言わなかった。
七瀬も、何も言わなかった。
内山も、僕らの少し後ろで、何も言わなかった。
クロが、僕の足元に、座った。
その毛並みに、ごく細く、青銀が、脈打っていた。
たぶん、空中の脈動と、クロの毛並みの脈動は、同じものの、別の現れだった。それを、僕は、いま、目で、確かめていた。
第三話で、机が頂点で止まった。あのとき、机の周りの埃が、本体より一拍遅れて流れた。
第五話で、七瀬の制服が、水中で繊維単位にほどけ、鱗になっていった。あのとき、布の表面の埃の流れは、本体より一拍だけ、先に動いた。
第八話で、クロの背中に触れた。あのとき、彼の毛並みに、ごく細く、この光が、脈打っていた。
それらの、すべての元になっているものが、いま、僕の頭の上、ある層に、淡くたわんでいた。
僕は、たぶん、十秒くらい、見ていた。
そして、見ているあいだに、自分の右手の親指の腹に、ごくわずかに、汗をかいていることに、気づいた。
緊張では、なかった。
たぶん、感謝に、近かった。
僕は、その感謝を、誰に向ければいいのか、わからなかった。
クロが、ふいに、立ち上がった。
その耳が、片方だけ、後ろを、向いた。
内山が、低い声で、言った。
「下がっていろ」
僕は、反射的に、二歩、下がった。
七瀬は、下がらなかった。
下がらずに、僕の正面、半歩前に、出た。
「……」
川岸の、土の道の方角から、何かが、来ていた。
最初は、空気の振動だった。地面の振動ではない。空気の方が、何かに押されて、ごく薄く、こちらへ、寄せられていた。
それから、その空気の中に、人型の影が、見えた。
三体では、なかった。
四体だった。
そして、その四体の、少しだけ後ろに、もう一体、いた。
その五体目だけ、輪郭の精度が、他の四体と、違っていた。
「人型兵器、四」
七瀬が、業務寄りの語彙に、戻った。たぶん、戦闘の前にだけ、彼女は、本体側でも、業務語彙を使うようにしている、と僕は、思った。
「先頭が、強化型」
「うん」
「リーダー、です」
「うん」
内山が、僕の少しだけ前で、片手を、軽く、上げた。
その手の上に、ごく短く、青銀の光が、走った。
クロが、その光を、自分の毛並みに、引き受けた。
クロの体の輪郭が、ほんの一拍だけ、ふっと、滲んだ。
たぶん、滲んだ瞬間に、クロの前足の関節の、どこかが、ふだんと違う方向に、たわんだ。それを、僕は、断定的には、見られなかった。見ようとした瞬間に、結果が、もう、終わっていたからだった。
人型の一体が、関節の三つの節のうち、真ん中の一つで、折れていた。折れた節から、青銀の光が、ごく短く、漏れていた。
クロは、もう、その位置には、いなかった。一歩離れたところに、四つ足で着地して、低く、唸っていた。
その全動作は、たぶん、一秒以下だった。
「……一体目、停止」
七瀬が、淡々と、確認した。
ただし、彼女の声には、たぶん、彼女自身も気づいていない驚きが、ごく薄く、混ざっていた。クロのその速度を、彼女は、たぶん、自分の組織の中で、何度かしか、見ていない。
内山が、ごく短く、頷いた。
「行け」
クロが、二体目の方へ、また、跳んだ。
残った人型は、二体だった。
それに、強化型リーダーが、一体。
その三体が、僕らの方へ、まっすぐに、進んできた。
七瀬が、片手を、僕の前に、出した。
「下がらないでください」
「下がらない」
「あなたが、ここに、立っている方が、私には、計算しやすいです」
「うん」
七瀬の、その手のひらが、ゆっくりと、こちらに、開いた。
開いた手のひらから、薄い、青銀の、光の膜が、空気の中に、広がっていった。
膜は、見える方向にも、見えない方向にも、広がった。半透明だった。けれど、その半透明の中に、ごく細かい、格子が、走っていた。
格子。
僕が、自分の手の上で見たのと、同じ系統の格子だった。
「これは」
「位相膜です」
「俺の手の、あれと」
「同じ系統です」
「俺のは」
「あなたのは、自分の側に、まだ閉じています。私のは、開いています。それだけの、違いです」
人型の二体が、加速した。
そのうちの一体が、こちらに向けて、関節を一つ、伸ばした。腕が、ほどけるようにして、まっすぐに、来た。
七瀬は、それを、受け止めなかった。
受け止めずに、ほんの少しだけ、自分の手のひらの角度を、変えた。
その角度の変更は、僕の目には、ほぼ、見えなかった。けれど、結果だけは、見えた。
人型の腕が、自分の伸びてきた方向の、ほんの少しだけ、斜めに、跳ね返された。
跳ね返された、というのは、正確ではない。たぶん、押し返されたのではない。腕は、自分の力で、自分の側に、もう一度、戻っていった。七瀬の膜が、その腕に「もとの方向」を、ごく薄く、伝え返しただけだった。
僕は、それを、見ていた。
第三話で、机の軌道を最適化したときの、彼女の動作と、同じ系統の動作だった。
第五話で、水中の流れを人型の弱点に集めたときの、彼女の動作と、同じ系統の動作だった。
ただし、向きが、逆だった。
第三話と第五話のときは、彼女が、自分の力で、相手の力を「移送」していた。
いま、彼女は、自分の力をほぼ使わずに、相手の力に、自分の方向を、ただ「翻訳」していた。
合気道、という言葉が、僕の頭の中に、浮かんだ。
たぶん、それは、こちら側の言葉ではなかった。けれど、たぶん、いちばん近い言葉だった。
人型の二体目が、別の角度から、来た。
七瀬の手のひらの角度が、ほんの一度だけ、また、変わった。
二体目の関節が、自分の力で、自分の側に、ねじれた。
倒れた、というよりは、自分でほどけて、地面に、落ちた。
「……二体、停止」
「うん」
「あと、一体です」
強化型リーダーが、まだ、来ていた。
来ていたが、来かたが、他の二体と、違っていた。
他の二体は、僕らに向かって、ただ、直進していた。
リーダーは、僕の方を、見ていた。
正確に、僕の方を、見ていた。
「あれは──」
内山の声が、僕の後ろで、ごく短く、止まった。
「……」
内山は、それ以上、言わなかった。
その代わりに、ごく短く、もう一言だけ、付け加えた。
「下がっていろ」
僕は、二歩、下がりかけた。
下がりかけたが、足が、止まった。
足が止まったことに、僕は、たぶん、自分でも、気づいていなかった。
ふだんなら、下がっていろ、と言われたら、下がる。それが、僕の硬派の呪いの、たぶん、いちばん健康的な、使い道だった。
今日は、下がらなかった。
下がらない、と決めたのでは、なかった。
ただ、足が、止まっていた。
リーダーは、関節の数が、他の二体より、多かった。
肩から先で、五つ。肘から手首までで、四つ。手首から指先までで、たぶん、六つ。普通の人間の腕より、十くらい、多い。
そして、その指先の一本一本が、ごく薄く、青銀に、脈打っていた。
クロの毛並みと、同じ系統の光だった。
ということは──
「七瀬さん」
「はい」
「あれ、こっち側の機械、ですか」
七瀬は、答えるまでに、たぶん、半秒、余分にかかった。
「……元、こちら側、でした」
「元」
「ここから先は、答えられません」
「……はい」
リーダーが、一歩、前に、出た。
その一歩の歩幅が、僕の歩幅と、ほぼ、同じだった。
その瞬間、僕の右手が、自分の意志の前に、上がっていた。
気づくと、僕の右手が、顔の前で、止まっていた。
止まっていた、というよりは、上がる動作の途中で、たまたま、いまの位置で、止まっていた。誰かが「止めた」のでは、ない。たぶん、僕自身が、止めた。
僕の意志では、なかった。
僕の意志より前に、僕の手が、すでに、上がっていた。
「……?」
僕は、自分の手のひらを、見た。
手のひらの向こう側に、リーダーの輪郭が、見えていた。
その輪郭の中に、いくつかの、薄い、青銀の点が、見えていた。
点は、最初、四つ、見えていた。
それから、五つに、増えた。
六つになった。
七つで、止まった。
七つの点は、たぶん、リーダーの関節の、ある特定の弱点の、位置だった。
「竹内」
七瀬の声が、僕の左で、聞こえた。
「動かないで、ください」
「うん」
「私が、守ります」
「うん」
七瀬の膜が、僕の周りに、たぶん、もう、展開していた。
僕は、自分の右手の動作を、その膜越しに、見ていた。
視界の中央に、薄く、縦と横の線が、走っていた。
格子だった。
朝、布団の外で見た、あの格子だった。
ただ、朝のそれより、薄かった。そして、もっと、広がっていた。視界全体に、ごく細かく、敷かれていた。
格子の升目の、いくつかに、青銀の点が、乗っていた。
その点が、リーダーの関節と、ぴったり、一致していた。
僕の右手のひらが、ふいに、軽く払うように、動いた。
その動きを、僕は、僕の手が「決めて」、それから、僕が「気づいた」。
決めたのは、僕では、なかった。
光が、出た。
僕の手のひらから、たぶん、出た。
正確には、僕の手のひらの「指したところ」から、出た。
光は、まっすぐでは、なかった。
七つの点を、たぶん、最短ではない経路で、順番に、結んだ。
光が、リーダーの七つの関節を、内側から、たぶん、何かに、変えた。
リーダーの動作が、止まった。
その動作の止まり方は、机が頂点で止まったときの、止まり方に、似ていた。
ただし、机のときは、頂点の周りの埃が、一拍遅れて、流れた。
いまのリーダーの周りは、何の埃も、動かなかった。
完全に、止まった。
そして、関節の節の一つから、ごく細く、青銀の光が、漏れた。
光は、たぶん、外へ出て、空に、上っていった。
「……」
僕は、自分の手のひらを、見ていた。
手のひらの上に、まだ、格子が、薄く、残っていた。
「漫画みたいだ」
口から、出ていた。
出てから、口に出したことに、気づいた。
漫画、と僕は思った。漫画、では、ない気もした。ゲーム、にも、近かった。子どもの頃に何度か遊んだ、画面の中央で十字の照準が動くやつ。けれど、それも、たぶん、正確な比喩では、なかった。
「……竹内」
七瀬の声が、左で、した。
「はい」
「大丈夫ですか」
「……うん」
「右手」
「うん」
「下ろせますか」
「……」
下ろせ、なかった。
手が、いま、上がっていることに、僕は、いま、初めて、気づいた。
下ろそうとしたが、下ろせなかった。
下ろせる、というのが、たぶん、僕自身の動作の許可の問題ではなく、別の許可の問題だった。
七瀬が、僕の右手の手首に、自分の手を、軽く、乗せた。
冷たかった。
その冷たさは、第五話で水中で僕の肩を支えてくれたときの、金属の冷たさより、ほんの少しだけ、薄かった。けれど、第九話の前庭で、僕の手の甲に乗せられた手の温度ほど、温かくは、なかった。
中間の冷たさだった。
たぶん、戦闘の中の七瀬は、半移行を、もう一段、保留に、していた。
「下ろします」
「うん」
僕の右手が、彼女の手の重みに、ゆっくり、引かれた。
下りた。
内山が、僕の左の、少し後ろで、ごく短い動作を、ひとつだけ、した。
最後に残っていた、人型の二体目の側に、まだ一つだけ、動いている節があった。
内山は、それを、自分の指先の動作だけで、止めた。
精密だった。
非殺傷だった。
一度の動作で、もう一つ、動かさなかった。
クロが、僕の足元に、戻ってきた。
僕の靴に、軽く、鼻先を、当てた。
そして、僕の右手の方を、見上げた。
「……」
僕は、何も、言えなかった。
クロも、何も、言わなかった。
ただ、その目の中に、たぶん、僕の右手の動作を、丁寧に確認した、という色が、あった気がした。
ルウアは、午後の早い時間に、窓辺の椅子に、座っていた。
ふだんの彼女は、立っていることが、多かった。窓辺で外を見ている時間も、立っていることが、多かった。今日のいつから座ったのか、副部長は、よく、覚えていなかった。覚えていない、というのも、副部長としては、珍しいことだった。
その、座っていたルウアが、ふいに、椅子から、立ち上がった。
「──」
声を、出した。
声を、と言うには、たぶん、小さすぎた。けれど、ふだんの彼女の独り言の音量より、わずかに、大きかった。
副部長は、机から顔を上げた。
今村も、顔を上げた。
ドアの内側に立っていた七瀬が、その瞬間、ふいに、半歩、前に、出た。
そして、もう半歩、前に出た。
それから、立ち止まらずに、窓辺に、歩いた。
副部長と今村の、ちょうど横を、通り抜けて。
「七瀬さん──」
副部長の声は、彼女に、届かなかった。
七瀬は、窓に手をかけた。
カーテンを、ほんのわずかに、開けた。
開いた隙間から、外を、見た。
外には、夕方の空が、いつもの夕方より、ほんの少しだけ、早く、暗くなっていた。
その空の、ある層に、たぶん、何かが、通っていた。
ふだんの副部長の目には、見えなかった。
ただ、七瀬には、見えた。
そして、たぶん、ルウアにも。
ルウアは、窓辺で、ごく短く、口を、開いた。
「私たち、姉妹、かもしれません」
「……」
副部長が、立ち上がった。
「ルウア」
「はい」
「いま、なんて」
「私たち、姉妹、かもしれません」
「私たち、って」
ルウアは、答えなかった。
代わりに、自分の指先で、窓ガラスに、ごく薄く、触れた。
ガラスに、自分の指紋を、つけるためでは、なかった。
たぶん、何か別の系統の、確認の動作だった。
七瀬は、窓辺で、ルウアの少しだけ後ろに、立っていた。
七瀬の右手の指先が、ほんの一拍、固まったように、見えた。
その一拍は、副部長が午後の早い時間に見たのと、同じ系統の一拍だった。
たぶん、二拍か、三拍。
七瀬の口が、ふいに、開いた。
「肯定」
短かった。
それから、もう一度、開いた。
「位相通信、確認」
業務寄りの語彙だった。けれど、それは、副部長たちに向けられた発話では、なかった。たぶん、彼女自身が、自分の中のもう一人に、確認の応答を、返した。
ルウアは、それを、聞いていた。
聞いていて、それから、もう一度、独り言を、言った。
「向こうで、線が、震えました」
「……」
「震えました。たぶん、いま」
副部長は、その「いま」を、覚えた。
腕時計を、見た。
夕方の、いつもよりほんの少しだけ早い時間が、針の上に、あった。
たぶん、向こうで、いま、何かが、起きた。
ただ、その「いま」が、自分の机の上のノートの、最後の三行のすぐ下に、書かれるべきだ、と副部長は、感じた。
書こうと、思った。
書く前に、もう、覚えていた。
ルウアが、ゆっくりと、こちらを向いた。
ふだんの彼女より、目が、たぶん一段だけ、湿っていた。
副部長は、何か言うべきだ、と思った。
何を言うべきかは、わからなかった。
口だけが、開いた。
「……あんた」
それだけ、出た。
それ以上は、出なかった。
ルウアは、答えなかった。
代わりに、ごく短く、頭を、下げた。
その角度は、ふだんのルウアの十五度では、なかった。
ほんの少しだけ、深かった。
たぶん、十八度くらいだった。
副部長は、その三度の差を、見た。
たぶん、これも、覚えた。
今村が、副部長の隣で、何も言わずに、立っていた。
机の上のノートの、最後の三行のすぐ下に、たぶん、書かれるべきだったもの。それは、副部長が一人で、書くものでは、なかった。
今村と一緒に、明日、書く。
副部長は、そう、決めた。
決めたが、口には、出さなかった。
口に出すと、たぶん、その「決め」が、いちばん大切な部分で、壊れる気がした。
七瀬が、窓辺から、ゆっくり、半歩、下がった。
それから、もう、半歩。
それから、ドアの内側に、戻った。
「位置確保」
短かった。
副部長は、そのプロトコル発話を、今日初めて、ふつうに、受け取った。
ふだんの「位置確保」と、今日の「位置確保」は、たぶん、同じだった。
ただし、その同じさが、今日は、ほんの少しだけ、優しかった。
僕は、自分の右手を、もう一方の左手で、軽く、包んだ。
包むと、右手の指先が、まだ、ほんの少しだけ、熱かった。
光が出た側の、たぶん、余熱だった。
格子は、まだ、視界の中央に、薄く、残っていた。
僕は、それを、消そうとして、瞬きを、一度した。
消えなかった。
もう一度した。
薄くなったが、消えなかった。
七瀬が、横で、こちらを見ていた。
彼女の左手の指先に、たぶん、青銀の光の、余韻が、ごく薄く、残っていた。膜を展開していた手とは、別の手の方に。
「残ります」
「うん」
「しばらく、残ります」
「うん」
「いつもより、長く残るかもしれません。初発、なので」
「うん」
「視界、辛くないですか」
「……いや、辛くはない」
辛くは、なかった。
ただ──
ただ、何も、変わっていなかった。
僕は、自分の中の、何かが、変わっているはずだ、と、たぶん、勝手に、思っていた。
人型を一体、停止させた。
光を、自分の手から、出した。
知らない場所で、知らない物理に乗って、知らない武器を、使った。
それなのに、僕の中は、たぶん、朝、布団の上で右手の格子を見たときと、ほぼ、同じだった。
ふつう、何かが、変わるはずだった。
撃ったら、撃った人間に、なるはずだった。
そういう手応えが、たぶん、僕は、ほしかった。
なかった。
何も、なかった。
それが、いちばん、怖かった。
僕は、自分の右手を、包んだまま、しばらく、立っていた。
七瀬が、僕の右の肩に、ごく軽く、手を、置いた。
これは、業務では、なかった。
川の上空の、二色の境目の、すぐ下にあるはずの、青銀の脈動は、もう、見えなくなっていた。
七瀬が、横で、ごく短く、言った。
「終わりました」
「うん」
「帰りましょう」
「うん」
帰ろう、と言われて、僕は、頷いた。
頷いたが、足は、まだ、動かなかった。
「七瀬さん」
「はい」
「線、震えました?」
七瀬は、しばらく、答えなかった。
「……はい」
「俺の側の線」
「あなたの側の線も、向こうの私の側の線も、震えました」
「両方」
「両方、です」
「切れなかった」
「切れていません」
「うん」
僕は、もう一度、空を、見上げた。
二色の境目の、すぐ下に、たぶん、いま、震えながら、まだ繋がっている線が、二本、あった。
その二本の線を、僕は、数えなかった。
数える代わりに、自分の左手で、まだ熱の残る右手を、ほんの少しだけ、強く、包み直した。
包み直してから、ゆっくり、左手を、離した。
僕は、たぶん、撃った。
撃ったあとも、何も、変わらなかった。
変わらないまま、いま、線が、震えていた。
それが、たぶん、今日の僕が確定した、もう一つだった。




