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第十一話 線を持ち帰った日

目を覚ましたとき、僕の右手は、布団の上に、置いてあった。

昨日の朝のように、布団の外には、出ていなかった。

ただ、その手の甲に、ごく薄く、格子が、残っていた。

僕は、それを、しばらく見ていた。

格子は、消えなかった。

瞬きを一度した。薄くはなったが、消えなかった。もう一度した。やはり、消えなかった。

たぶん、今日、消えない、というのが、今日の正解の状態だった。

廊下に出ると、内山が、テーブルの前に、座っていた。

クロが、その足元に、丸まっていた。

僕は、テーブルの向かい側に、座った。

テーブルの上に、コップが、一つ、置いてあった。

僕の前の、僕の朝食の位置に、置かれていた。

その縁に、ごく薄く、縦と横の線が、走っていた。

最初は、見間違いだと思った。

目を、こすった。

こすっても、消えなかった。

別の場所を見てから、もう一度、コップを見た。

線は、まだ、あった。

格子だった。

僕の手のひらの上に、まだ薄く残っているのと、同じ系統の格子だった。

ただし、僕の手のひらと違い、コップの縁の格子は、もう、僕の身体の一部では、なかった。

「──」

内山が、僕の顔を、見ていた。

それから、コップを、見た。

それから、もう一度、僕を、見た。

「乗ったか」

「うん」

「物に、乗りはじめたか」

「うん」

「ありうる進行だ」

「うん」

「ありうる、ということは、止めるのが難しい、という意味でもある」

「……うん」

「使うほど、乗る対象が広がる。物の、次は」

「人ですか」

「人だ」

「うん」

「ただし、人に乗るのは、まだ先の話だ。今日のところは、物だけだ」

「うん」

「物には、慣れる」

「慣れて、いいんですか」

「慣れていい範囲のものなら、慣れていい」

「……」

「今日、戻る」

「戻る」

「うん。今日が、戻る日だ」

「……はい」

廊下の方から、足音がした。

七瀬が、扉のところに、立っていた。

昨日と同じ系統の服装だった。髪も、昨日と同じように、肩のあたりで、軽くまとめてあった。

「おはようございます」

「……おはよう」

七瀬は、テーブルのコップを、見た。

それから、僕の手のひらを、見た。

「乗りました」

「はい」

「視界には」

「まだ、ある」

「コップにも、ですか」

「コップにも、ある」

「……」

七瀬は、しばらく、何も言わなかった。

それから、ごく短く、頭を下げた。

「ごめんなさい」

「あなたが謝ることでは、ない」

「私は、あなたの、初発を、止められませんでした」

「あれは、止められるものでは、たぶん、なかった」

「ですが」

「うん」

「すみません、ではなく、ごめんなさい、でした」

謝罪語彙の選択を、彼女は、たぶん、意識していた。

「うん」

「いまも、ごめんなさい、です」

「……うん」

「いまも、ごめんなさい、と、言わせてください」

「うん」

そう言って、彼女は、もう一度、ごく短く、頭を下げた。

二度目の角度は、最初より、たぶん、一度だけ、深かった。

午後、僕らは、診療所の前庭に、出ていた。

帰る、というのが、今日の午後の予定だった。

予定、と内山が言った。予定、というのは、こちら側でも、僕の知っている意味と、ほぼ同じ意味で、使われる言葉だった。

ほぼ、というのは、こちら側の「予定」が、僕の知っている「予定」より、ほんの少しだけ、軽い、ということだった。

軽い、というのは、変更されやすい、という意味では、なかった。

たぶん、「果たさなくても、責められない」、という種類の軽さだった。

果たさなくても、責められないのに、内山は、果たすつもりで、午後に、僕を、前庭に、立たせていた。

それが、たぶん、こちら側の「予定」と、内山自身の「決定」の、関係だった。

内山が、僕の前に、立っていた。

「短かったか」

「……短かった、です」

「短いはずだ。三日だった」

「三日、しか、いなかったんですね」

「三日も、いた、と言うべき場合もある」

「うん」

「君は、向こうに戻る」

「はい」

「戻ったあと、また、こちらに来るかどうかは、わからない」

「うん」

「来ないかもしれない」

「うん」

「それでも、君は、ここで起きたことを、向こうで、たぶん、覚えている」

「うん」

「覚えていることが、たぶん、君の側の何かを、変える」

「……はい」

「向こうで、何をすればいいかは、教えない」

「うん」

「言わない、というよりは、たぶん、言える範囲のことは、もう、ここで全部、言った」

「……」

「いい答えだった」

「何の、答えですか」

「君が、ここで、撃ったか、撃たなかったか、という問い」

「俺は、撃ちました」

「うん。撃った。そして、撃ったあとも、何も変わっていない、と言った」

「……はい」

「それが、いい答えだった」

「……」

内山は、それから、何も、言わなかった。

僕も、何も、言えなかった。

内山の口元が、ほんの少しだけ、動いた。

たぶん、笑った。

たぶん、というのは、内山の笑いが、僕の知っている笑いの形と、十パーセントだけ、違うからだった。

クロが、僕の足元に、来た。

僕は、しゃがんで、その背中に、手を置いた。

冷たかった。

最初の日と、同じ冷たさだった。

「……クロ」

クロは、ほんの少しだけ、僕の手のひらに、自分の頭を、押し付けた。

それから、引いた。

ふだんの犬の別れの動作とは、たぶん、少しだけ違った。

ふだんの犬の別れは、たぶん、もっと、何度も、撫でられたがる。

クロは、一度だけ、押し付けて、引いた。

それで、終わりだった。

クロの動作は、いつも、決定の動作だった。

七瀬が、僕の隣に、しゃがんだ。

正確には、僕がクロに触れていた位置の、隣に、しゃがんだ。

僕は、立ち上がらずに、彼女の方を、見た。

「線、続きますか」

「続きます」

「両方」

「両方、です」

「あなたは、ここに、いますか」

「います」

「向こうに、戻らないんですか」

七瀬は、たぶん、しばらく、考えた。

「向こうの私は、私が戻らなくても、たぶん、動きます」

「動く」

「動きます」

「あなたじゃ、ないんですか」

「私です。ただし、私ではない部分が、たぶん、向こうに、出始めています」

「……」

「私の意識が、ここに留まっている間、向こうの私の身体には、別のものが、たぶん、出てきています」

「別のもの」

「私ではない、私、です」

「……」

「ごめんなさい」

「謝らないでください」

「謝ります。私の身体のことなのに、私自身も、まだ、わからない、と言うしか、ありません」

「うん」

「線が、続いている、ということだけは、確かです」

「線、震えますか」

「震えます。ただし、いつ、震えるかは、私には、まだ、わかりません」

「うん」

「あなたが、向こうで、コップの縁の格子を見つけたように、私の側にも、まだ、見つけられていないものが、いくつかあります」

「……はい」

七瀬は、それから、ごく短く、頭を、下げた。

その角度は、業務の十五度ではなかった。

たぶん、彼女自身も、もう、業務の角度を、忘れはじめている。

内山が、僕らの後ろで、ごく短く、声をかけた。

「時間だ」

「……はい」

「準備、できているか」

「できています」

「彼女に、何か言うことは」

僕は、しばらく考えた。

考えてから、たぶん、何も言わない方が、いい場合もある、ということに、気づいた。

「……いえ」

「うん」

「いえ、と言うのも、たぶん、何かを、言っています」

「うん。そうだ」

「すみません」

「謝るな。それは、たぶん、君のことを、彼女が、いちばんわかっているはずだ」

七瀬が、僕の方を、見た。

ほんの少しだけ、目を伏せて、頷いた。

「行きます」

僕は、立ち上がった。

内山が、片手を、軽く上げた。

その手のひらに、青銀の光が、ごく短く、走った。

地面の、僕の足元の、ほんの少しだけ前に、ごく薄く、線が、走った。

線、というのは、たぶん、位相の線だった。

「踏め」

「……はい」

「踏むと、向こうに、戻る」

「うん」

「目を、つむっていてもいい」

「うん」

「目を、開けたままでも、いい」

「……開けたままで、行きます」

「うん」

「いい答えだ」

僕は、踏んだ。

足の裏で、線を、踏んだ。

その瞬間、足の下の地面が、ほんの一拍だけ、軽くなった。

軽くなった、というのは、たぶん、空気の重さが、十パーセントだけ、抜けた、ということだった。

僕は、目を、開けたままで、いた。

開けたまま、世界が、薄く、ずれた。

ずれた、というのは、たぶん、僕の側の知覚が、二つの世界の境目を、はっきり、見たことの結果だった。

橙よりも桃に寄った色の、空が、消えた。

二色の境目が、消えた。

代わりに、ふだんの空が、戻ってきた。

僕は、写真部の部室の、いつもの僕の席の、隣に、立っていた。

机の上には、僕のノートが、開いて、置いてあった。

最後のページが、開いていた。

そこに、僕の知らない鉛筆書きの、行が、増えていた。

副部長と、今村さんと、ルウアと、アンドロイド七瀬が、僕を、見た。

副部長が、立ち上がろうとして、立ち上がりかけて、止めた。

代わりに、机の上の、ノートを、両手で、覆った。

「……あんた」

それだけ、出た。

それ以上は、出なかった。

ルウアが、窓辺の椅子に、座ったまま、僕を、見た。

何も、言わなかった。

ただ、目だけが、ほんのわずかに、湿っていた。

けれど、ふだんの彼女の目より、確かに、一段だけ、湿っていた。

今村さんは、副部長の隣で、いつものように、何も、置かずに、座っていた。

その目が、ほんの一拍、僕の目と、合った。

それから、すぐに、机の方へ、戻された。

戻されたあと、彼女の肩のラインが、ほんの一段、下がった。

降ろした、というよりは、緊張が、ほどけた、という種類の下がり方だった。

アンドロイド七瀬は、ドアの内側に、いた。

ただし、「位置確保」の姿勢では、なかった。

ふだんの彼女の「位置確保」は、文字通り、ミリ単位で、位置を保つ。

今の彼女は、ドアの内側の、ふだんの位置から、半歩、ずれていた。

ずれた半歩は、たぶん、第十話の午後に彼女が一度ずらした、あの半歩と、ほぼ同じ距離だった。

ただし、今のずれは、戻されて、いなかった。

戻されないまま、半歩ずれた位置で、彼女は、立っていた。

そして、僕を、見ていた。

「……」

僕は、彼女の方を、見た。

彼女は、答える前に、たぶん、二秒、間を、空けた。

それから、ごく短く、口を、開いた。

「おねぇちゃんが、いなくなった」

「……」

「だから、待ってる」

「……」

副部長が、机の上のノートから、手を、離した。

ルウアが、椅子から、立ち上がろうとして、立ち上がりかけて、止めた。

今村さんは、何も、しなかった。

ただ、その肩のラインが、もう一段、何かを、感じた。

僕は、しばらく、彼女を、見ていた。

僕の知っている、業務語彙の「位置確保」とは、温度が、違った。

僕の知っている、第九話以降の本体の半移行語彙とも、温度が、違った。

これは、別の何かだった。

たぶん、向こうの彼女が「別のものが、出てきています」と言った、その別のものだった。

「……」

僕は、何も、言わなかった。

何を言っても、たぶん、この温度には、合わなかった。

代わりに、半歩、彼女の方に、近づいた。

それで、止めた。

副部長が、ふいに、机の前から、立ち上がった。

立ち上がって、湯沸かしの方へ、ゆっくり、歩いた。

「お茶、いれる」

副部長は、誰にも、向けずに、そう言った。

ふだんの副部長なら、ルウアに、「お茶、飲む?」と訊いてから、いれる。

今日は、訊かなかった。

訊かずに、いれていた。

僕は、その背中を、見ていた。

ルウアが、ふいに、椅子から、立ち上がった。

立ち上がって、アンドロイド七瀬の、ちょうど隣に、歩いていって、止まった。

止まってから、何も、言わなかった。

ただ、半歩だけ、ずれた位置で、立っていた。

アンドロイド七瀬と、ルウアが、半歩ずれた位置に、並んで、立っていた。

僕は、その並び方を、見ていた。

並び方の形が、たぶん、僕の知っている、姉妹の写真の中の、二人の立ち方に、似ていた。

副部長が、お茶を、いれていた。

その動作は、ふだんの副部長の動作より、ほんの少しだけ、ゆっくりだった。

ふだんなら、お湯を入れたあと、すぐに、カップを置く。

今日は、カップを、しばらく、両手で、包んでいた。

包んでから、机の上に、置いた。

ルウアの分も、いれていた。

そして、今村さんの分も。

そして、僕の分も。

そして、アンドロイド七瀬の分も。

僕の知っている部室の、ふだんのお茶の儀式の、一人、多かった。

アンドロイド七瀬は、お茶を、飲まない。

それは、僕も、副部長も、知っていた。

それでも、副部長は、彼女の前にも、カップを、置いた。

カップを置いた副部長の背中が、ほんの一拍、止まった。

止まってから、また、動いた。

アンドロイド七瀬が、自分の前のカップを、しばらく、見ていた。

見てから、ごく短く、口を、開いた。

「おねぇちゃんは」

「……」

「私を、守るって、言ってくれてる」

「……」

副部長が、自分の手の上で、両手を、組んだ。

ルウアが、目を、伏せた。

今村さんは、何も、しなかった。

僕は、自分の手のひらを、見た。

僕の手のひらに、まだ、薄く、格子が、残っていた。

その格子の縁が、ほんの一拍、震えた、ように、見えた。

たぶん、線が、震えた。

たぶん、向こうの七瀬も、いま、それを、感じた。

窓の外で、ふいに、何かが、光った。

商店街の方角だった。

光は、すぐに、消えた。

ルウアが、ふいに、窓の方を、向いた。

「……」

「鳩が」

「……」

「鳩が、ふだんより、二羽、多い、です」

副部長は、その「二羽」を、覚えた。

「二羽」と、口の中で、ごく小さく、繰り返したのを、僕は、聞いた。

僕は、自分の手のひらを、左手で、ゆっくり、包んだ。

包んでから、ゆっくり、離した。

線は、まだ、震えていた。

僕は、たぶん、何かを、持ち帰った。

持ち帰った、というよりは、たぶん、置いてこなかった、という方が、近かった。

両方とも、たぶん、僕が、今日、確定した、もう一つ、だった


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