表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
12/22

第十二話 動かないものを見た日

朝、目を覚ましたとき、自分の部屋の天井が、知らない天井ではない、ということを、もう、当たり前に、思えるようになっていた。

帰ってきて、四日が、経っていた。

四日というのは、たぶん、こちら側の数え方でも、向こう側の数え方でも、似た長さに、感じる種類の長さだった。

右手の甲には、まだ、薄く、格子が、残っていた。

枕元の目覚まし時計の数字にも、ごく薄く、格子が、乗っていた。

数字は「07:12」だった。

その「7」と「2」の縦棒の交点に、ほんの薄く、僕の知っている格子が、乗っていた。

最初に見たのは、たぶん、三日前の朝だった。

三日前は、目覚まし時計と、コップの縁と、それから、机の角の、三箇所に、乗っていた。

二日前は、四箇所に、乗っていた。

一日前は、五箇所に、増えた。

今朝は、たぶん、六箇所だった。

数えなかった。

数える代わりに、布団の上に、右手を、もう一度、戻した。

戻して、しばらく、見ていた。

僕の右手の格子は、いつもより、ほんの少しだけ、薄かった。

ほんの少しだけ、というのは、たぶん、僕の側の慣れ、と、僕の側の何かの摩耗の、ちょうど中間の薄さだった。

学校までの道は、ふだんの道だった。

ふだんの、というのは、僕が異世界に行く前の四ヶ月間に、たぶん、八百回近く歩いた道、という意味だった。

道の右側に、いつものポストがあった。色は赤かった。

道の左側に、いつもの自販機があった。色は青かった。

その先の交差点に、いつもの信号があった。色は、今日は、赤だった。

赤、ということは、僕は、いつもの位置で、立ち止まった。

立ち止まると、視界の右側に、人が、一人、見えた。

スーツの女性だった。

僕の知っている、ふだんの通学時間の、ふだんの交差点には、たぶん、いない種類の、スーツ姿だった。

ふだんの通学時間に、スーツの女性が、いること自体は、ある。

ふだんは、そのスーツ姿は、歩いていた。

駅の方角か、その逆か、どちらかに、向かって、歩いていた。

今日のスーツ姿は、歩いていなかった。

立っていた。

信号待ち、と言うには、たぶん、立ち方の角度が、信号の方を、向いていなかった。

歩道の中央に、たぶん、信号と関係なく、立っていた。

僕は、しばらく、その立ち方を、見ていた。

気になる、というほどでは、なかった。

ただ、いつものこの場所には、いない種類の、立ち方だった。

信号が、青になった。

スーツ姿の女性は、動かなかった。

僕も、たぶん、ふだんなら、すぐに、歩き出していた。

今日は、たぶん、一秒、遅れて、歩き出した。

歩きながら、視界の右側で、スーツの女性が、まだ、立っているのが、見えた。

立ち止まっている、というよりは、まだ、立っている、という種類の動作だった。

僕の歩幅が、また、ふだんの歩幅に、戻った。

戻ってから、ほんの一拍だけ、振り返ろうとして、振り返らなかった。

振り返ったら、たぶん、僕は、その女性を、もう一度、見たくなる、と思った。

見たくなったら、たぶん、もう一段、観察してしまう。

観察してしまったら、たぶん、僕は、彼女に、何か、しないといけない種類のものを、見つけてしまう。

僕は、まだ、それを、見つけたくは、なかった。

たぶん、見つけたくない、というのが、いまの僕の側の、誠実な状態だった。

学校の門を、くぐった。

くぐったあと、ふだんの自分の、玄関の靴箱の、ふだんの位置に、ふだんの靴を、置いた。

教室は、いつもの場所にあった。

廊下を歩く間、生徒たちの声が、いつもの音量で、聞こえた。

ふだんの音量、というのが、たぶん、僕が異世界に行く前と、戻ってきた後で、ほんの一段だけ、変わっていた。

変わったのは、たぶん、僕の側の聴覚の調整だった。

異世界で、十パーセントだけ重い空気の中で、僕の耳は、たぶん、音の届き方を、別の係数で、聞いていた。

その別の係数を、僕の側の耳は、まだ、戻しきっていなかった。

戻していない、というよりは、たぶん、戻したくない、という種類の保留だった。

「おはよう」

廊下で、同じクラスの誰かに、ふだんの「おはよう」を、向けられた。

「……おはよう」

ふだんの「おはよう」が、返った。

返ったあとに、ほんの一拍だけ、僕は、自分の声を、確かめた。

ふだんの声だった。

ふだんの声、というのは、たぶん、向こうで、七瀬に「おはよう」と言ったときの「おはよう」と、別の温度の「おはよう」だった。

そして、その別の温度を、僕は、たぶん、ふだんの場所では、ふだんに、戻していた。

放課後、写真部の部室の、ふだんのドアを、開けた。

ドアの内側に、アンドロイド七瀬が、立っていた。

ただし、「位置確保」の姿勢では、なかった。

帰還の日の半歩のずれが、四日経っても、戻されて、いなかった。

戻されないまま、半歩ずれた位置で、彼女は、僕を、見た。

「おかえりなさい」

「……ただいま」

ふだんの「おかえりなさい」と、ふだんの「ただいま」が、ふだんの部室の入口で、交換された。

ただし、彼女の「おかえりなさい」の温度は、ふだんの「位置確保」の温度とは、ほんの一段、違っていた。

その一段の違いを、僕は、たぶん、入ってから、もう一度、確かめた。

副部長と、ルウアと、今村さんが、ふだんの席に、座っていた。

副部長が、机の前で、ノートを、開いていた。

僕のノートだった。

その最後のページを、副部長が、開いていた。

最後のページには、僕の知らない鉛筆書きの行が、増えていた。

僕は、自分の席に、座って、しばらく、副部長を、見ていた。

副部長は、僕に気づいて、ノートを、閉じようとして、止めた。

代わりに、開いたまま、机の上で、両手で、軽く、押さえた。

「あんた」

「うん」

「読む?」

「うん」

副部長は、ノートを、僕の方に、滑らせた。

僕は、それを、両手で、受け取った。

開いたまま、置いた。

ノートの、最後のページの、僕の知らない鉛筆書きは、二人分、あった。

副部長の筆跡と、今村さんの筆跡だった。

副部長の筆跡の方が、ほんの少しだけ、強かった。

今村さんの筆跡の方が、ほんの少しだけ、薄かった。

二人の筆跡が、交互に、書かれていた。

最初の行は、副部長の筆跡だった。

> ルウア、十八度の礼。

その下が、今村さんの筆跡だった。

> 鳩、二羽多い。

その下が、副部長。

> 七瀬、半歩。戻さない。

その下が、今村。

> 副部長、お茶を一杯、多く淹れた。

その下が、副部長。

> あんたに、明日、見せる。

その「あんた」は、たぶん、僕のことだった。

僕は、それを、しばらく見ていた。

副部長が、僕の方を、見ていた。

「読んだ?」

「うん」

「どう」

「……」

「ふだんなら、ここで、なんか言うとこなんだけど」

「うん」

「今日は、なんも言わないでいい」

「うん」

「あんたが、これを、自分で続けるかどうかは、あんたが決めるから」

「……」

「私たち、二人で、四日、書いてた」

「四日」

「うん」

「あんたが、帰ってきてから」

「うん」

「書いてた、というよりは、書き続けていた、というのが、たぶん、正しい」

「……」

「観察される側に立たないために、観察し続けること」

副部長は、それを、ノートには、書いていなかった。

書いていなかったが、その言葉を、いま、口に、出した。

「これ、私が、勝手に、自分で、つけた名前」

「うん」

「あんたが帰ってきたら、見せる予定だった」

「……」

「見せた」

副部長は、ノートを、僕の机の上に、置いたままにした。

その鉛筆書きの行が、いま、僕の側の何かを、たぶん、継承していた。

ただし、継承の向きは、僕が思っていたのと、逆だった。

僕が彼女たちに、観察を、教えた、というよりは、彼女たちが、自分たちのやり方で、観察を、僕に、返した、という方が、たぶん、近かった。

ルウアが、ふいに、机の方に、近づいてきた。

ノートの前に、立った。

副部長が、その様子を、ノートの上に手を置いたまま、見ていた。

ルウアは、ノートには、触れなかった。

ただ、ノートの一番下の行の、空いた場所を、しばらく、見ていた。

それから、ごく短く、口を、開いた。

「……書いて、いいですか」

副部長と、今村さんが、同時に、ルウアを、見た。

副部長が、ノートから、手を、離した。

それから、机の上の鉛筆を、ルウアの方に、向けて、置いた。

ルウアは、それを、しばらく、見ていた。

ふだんなら、彼女は、ボールペンを、使う。

ふだんの彼女が、ノートに何かを書こうとする場合、ボールペンを、たぶん、選ぶ。

今日は、鉛筆を、見ていた。

「……鉛筆で、いいですか」

「うん」

副部長は、それだけ、言った。

ルウアは、鉛筆を、取った。

取ってから、しばらく、その先を、紙の上に、近づけて、止めた。

止めたまま、たぶん、十秒、考えた。

それから、ごく短く、書いた。

> 「線が、震えました」を、また、感じました。

短い、一行だった。

「、また、感じました」、というのが、たぶん、いまのルウアの、ふだんよりも一段だけ、私的な発話だった。

副部長は、その行を、読んだ。

読んでから、ごく短く、頷いた。

頷きの動作は、ノートの上に向けたものではなく、ルウア本人に、向けたものだった。

ルウアは、鉛筆を、机の上に、戻した。

戻してから、自分の元の席に、戻った。

副部長が、ふいに、湯沸かしの方に、歩いた。

「お茶、いれる」

ふだんの副部長の動作だった。

ふだんの動作、というのが、たぶん、第十一話以降、ふだんの儀式になっていた。

ルウアの分。

今村さんの分。

僕の分。

そして、アンドロイド七瀬の分。

四つのカップを、副部長が、机の上に、置いた。

アンドロイド七瀬は、カップを、見た。

見てから、ごく短く、頭を、下げた。

「ありがとう」

ふだんの「位置確保」の語彙では、なかった。

ふだんの「位置確保」をしていたときの彼女は、お茶のカップに、たぶん、礼を、しなかった。

今日の彼女は、している、というには、まだ、はっきりしない角度で、頭を、ほんの少しだけ、下げていた。

たぶん、十度くらいだった。

その十度の角度を、副部長が、覚えるように、見ていた。

今村さんが、自分のカップを、両手で、包んだ。

ふだんの今村さんなら、カップを、片手で、持つ。

ふだんは、片手だった。

今日は、両手だった。

その両手の指先が、カップの陶器に、軽く、触れていた。

僕は、その指先を、見ていた。

見ているうちに──

今村さんの右手の、人差し指の関節の、ちょうど内側の皮膚に、ごく薄く、何かが、乗りかけた。

縦と横の線、だった。

格子、と僕は、思った。

僕の知っている、僕の手のひらの上に乗るのと、同じ系統の、格子だった。

「──」

僕の息が、止まった。

止まっていたことを、僕は、たぶん、止まってから、二秒後に、気づいた。

二秒後に気づいて、それから、たぶん、もう一秒、息を、止めた。

止めたまま、視界の中央の、ふだんの僕の格子の薄さを、僕は、ふだんの僕の意志で、ほんの一段だけ、薄くした。

薄くする、というのは、たぶん、向こうで習った、ロックを、入れる動作と、逆の動作だった。

向こうでは、ロックは、不随意で、入った。

ここでは、たぶん、僕の意志で、外せる。

僕は、外した。

外したら、今村さんの人差し指の関節の内側の皮膚の上の、ごく薄い格子が、たぶん、消えた。

消えたか、消えなかったかを、確かめなかった。

確かめると、もう一度、観察してしまう。

観察してしまうと、たぶん、もう一度、乗ってしまう。

僕は、視線を、今村さんの指先から、外した。

外して、自分の前の、自分のカップを、両手で、包んだ。

包むと、僕の右手の格子の縁が、ほんの一拍だけ、震えた。

たぶん、線が、震えた。

向こうの七瀬も、いま、それを、感じていた。

副部長は、ふだんのお茶の儀式の続きを、続けていた。

今村さんは、両手でカップを包んだまま、ふだんの今村さんに、戻っていた。

ルウアは、自分の席で、ノートの方を、見ていた。

アンドロイド七瀬は、ドアの内側の、半歩ずれた位置で、立っていた。

僕は、自分の右手の格子を、もう、確かめなかった。

確かめない、というのが、たぶん、今日の僕が、確定した、もう一つだった。

ノートの一番下の行に、ルウアの鉛筆書きが、まだ、あった。

> 「線が、震えました」を、また、感じました。

その「また」は、たぶん、いま、起きていることも、含んでいた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ