第十二話 動かないものを見た日
朝、目を覚ましたとき、自分の部屋の天井が、知らない天井ではない、ということを、もう、当たり前に、思えるようになっていた。
帰ってきて、四日が、経っていた。
四日というのは、たぶん、こちら側の数え方でも、向こう側の数え方でも、似た長さに、感じる種類の長さだった。
右手の甲には、まだ、薄く、格子が、残っていた。
枕元の目覚まし時計の数字にも、ごく薄く、格子が、乗っていた。
数字は「07:12」だった。
その「7」と「2」の縦棒の交点に、ほんの薄く、僕の知っている格子が、乗っていた。
最初に見たのは、たぶん、三日前の朝だった。
三日前は、目覚まし時計と、コップの縁と、それから、机の角の、三箇所に、乗っていた。
二日前は、四箇所に、乗っていた。
一日前は、五箇所に、増えた。
今朝は、たぶん、六箇所だった。
数えなかった。
数える代わりに、布団の上に、右手を、もう一度、戻した。
戻して、しばらく、見ていた。
僕の右手の格子は、いつもより、ほんの少しだけ、薄かった。
ほんの少しだけ、というのは、たぶん、僕の側の慣れ、と、僕の側の何かの摩耗の、ちょうど中間の薄さだった。
学校までの道は、ふだんの道だった。
ふだんの、というのは、僕が異世界に行く前の四ヶ月間に、たぶん、八百回近く歩いた道、という意味だった。
道の右側に、いつものポストがあった。色は赤かった。
道の左側に、いつもの自販機があった。色は青かった。
その先の交差点に、いつもの信号があった。色は、今日は、赤だった。
赤、ということは、僕は、いつもの位置で、立ち止まった。
立ち止まると、視界の右側に、人が、一人、見えた。
スーツの女性だった。
僕の知っている、ふだんの通学時間の、ふだんの交差点には、たぶん、いない種類の、スーツ姿だった。
ふだんの通学時間に、スーツの女性が、いること自体は、ある。
ふだんは、そのスーツ姿は、歩いていた。
駅の方角か、その逆か、どちらかに、向かって、歩いていた。
今日のスーツ姿は、歩いていなかった。
立っていた。
信号待ち、と言うには、たぶん、立ち方の角度が、信号の方を、向いていなかった。
歩道の中央に、たぶん、信号と関係なく、立っていた。
僕は、しばらく、その立ち方を、見ていた。
気になる、というほどでは、なかった。
ただ、いつものこの場所には、いない種類の、立ち方だった。
信号が、青になった。
スーツ姿の女性は、動かなかった。
僕も、たぶん、ふだんなら、すぐに、歩き出していた。
今日は、たぶん、一秒、遅れて、歩き出した。
歩きながら、視界の右側で、スーツの女性が、まだ、立っているのが、見えた。
立ち止まっている、というよりは、まだ、立っている、という種類の動作だった。
僕の歩幅が、また、ふだんの歩幅に、戻った。
戻ってから、ほんの一拍だけ、振り返ろうとして、振り返らなかった。
振り返ったら、たぶん、僕は、その女性を、もう一度、見たくなる、と思った。
見たくなったら、たぶん、もう一段、観察してしまう。
観察してしまったら、たぶん、僕は、彼女に、何か、しないといけない種類のものを、見つけてしまう。
僕は、まだ、それを、見つけたくは、なかった。
たぶん、見つけたくない、というのが、いまの僕の側の、誠実な状態だった。
学校の門を、くぐった。
くぐったあと、ふだんの自分の、玄関の靴箱の、ふだんの位置に、ふだんの靴を、置いた。
教室は、いつもの場所にあった。
廊下を歩く間、生徒たちの声が、いつもの音量で、聞こえた。
ふだんの音量、というのが、たぶん、僕が異世界に行く前と、戻ってきた後で、ほんの一段だけ、変わっていた。
変わったのは、たぶん、僕の側の聴覚の調整だった。
異世界で、十パーセントだけ重い空気の中で、僕の耳は、たぶん、音の届き方を、別の係数で、聞いていた。
その別の係数を、僕の側の耳は、まだ、戻しきっていなかった。
戻していない、というよりは、たぶん、戻したくない、という種類の保留だった。
「おはよう」
廊下で、同じクラスの誰かに、ふだんの「おはよう」を、向けられた。
「……おはよう」
ふだんの「おはよう」が、返った。
返ったあとに、ほんの一拍だけ、僕は、自分の声を、確かめた。
ふだんの声だった。
ふだんの声、というのは、たぶん、向こうで、七瀬に「おはよう」と言ったときの「おはよう」と、別の温度の「おはよう」だった。
そして、その別の温度を、僕は、たぶん、ふだんの場所では、ふだんに、戻していた。
放課後、写真部の部室の、ふだんのドアを、開けた。
ドアの内側に、アンドロイド七瀬が、立っていた。
ただし、「位置確保」の姿勢では、なかった。
帰還の日の半歩のずれが、四日経っても、戻されて、いなかった。
戻されないまま、半歩ずれた位置で、彼女は、僕を、見た。
「おかえりなさい」
「……ただいま」
ふだんの「おかえりなさい」と、ふだんの「ただいま」が、ふだんの部室の入口で、交換された。
ただし、彼女の「おかえりなさい」の温度は、ふだんの「位置確保」の温度とは、ほんの一段、違っていた。
その一段の違いを、僕は、たぶん、入ってから、もう一度、確かめた。
副部長と、ルウアと、今村さんが、ふだんの席に、座っていた。
副部長が、机の前で、ノートを、開いていた。
僕のノートだった。
その最後のページを、副部長が、開いていた。
最後のページには、僕の知らない鉛筆書きの行が、増えていた。
僕は、自分の席に、座って、しばらく、副部長を、見ていた。
副部長は、僕に気づいて、ノートを、閉じようとして、止めた。
代わりに、開いたまま、机の上で、両手で、軽く、押さえた。
「あんた」
「うん」
「読む?」
「うん」
副部長は、ノートを、僕の方に、滑らせた。
僕は、それを、両手で、受け取った。
開いたまま、置いた。
ノートの、最後のページの、僕の知らない鉛筆書きは、二人分、あった。
副部長の筆跡と、今村さんの筆跡だった。
副部長の筆跡の方が、ほんの少しだけ、強かった。
今村さんの筆跡の方が、ほんの少しだけ、薄かった。
二人の筆跡が、交互に、書かれていた。
最初の行は、副部長の筆跡だった。
> ルウア、十八度の礼。
その下が、今村さんの筆跡だった。
> 鳩、二羽多い。
その下が、副部長。
> 七瀬、半歩。戻さない。
その下が、今村。
> 副部長、お茶を一杯、多く淹れた。
その下が、副部長。
> あんたに、明日、見せる。
その「あんた」は、たぶん、僕のことだった。
僕は、それを、しばらく見ていた。
副部長が、僕の方を、見ていた。
「読んだ?」
「うん」
「どう」
「……」
「ふだんなら、ここで、なんか言うとこなんだけど」
「うん」
「今日は、なんも言わないでいい」
「うん」
「あんたが、これを、自分で続けるかどうかは、あんたが決めるから」
「……」
「私たち、二人で、四日、書いてた」
「四日」
「うん」
「あんたが、帰ってきてから」
「うん」
「書いてた、というよりは、書き続けていた、というのが、たぶん、正しい」
「……」
「観察される側に立たないために、観察し続けること」
副部長は、それを、ノートには、書いていなかった。
書いていなかったが、その言葉を、いま、口に、出した。
「これ、私が、勝手に、自分で、つけた名前」
「うん」
「あんたが帰ってきたら、見せる予定だった」
「……」
「見せた」
副部長は、ノートを、僕の机の上に、置いたままにした。
その鉛筆書きの行が、いま、僕の側の何かを、たぶん、継承していた。
ただし、継承の向きは、僕が思っていたのと、逆だった。
僕が彼女たちに、観察を、教えた、というよりは、彼女たちが、自分たちのやり方で、観察を、僕に、返した、という方が、たぶん、近かった。
ルウアが、ふいに、机の方に、近づいてきた。
ノートの前に、立った。
副部長が、その様子を、ノートの上に手を置いたまま、見ていた。
ルウアは、ノートには、触れなかった。
ただ、ノートの一番下の行の、空いた場所を、しばらく、見ていた。
それから、ごく短く、口を、開いた。
「……書いて、いいですか」
副部長と、今村さんが、同時に、ルウアを、見た。
副部長が、ノートから、手を、離した。
それから、机の上の鉛筆を、ルウアの方に、向けて、置いた。
ルウアは、それを、しばらく、見ていた。
ふだんなら、彼女は、ボールペンを、使う。
ふだんの彼女が、ノートに何かを書こうとする場合、ボールペンを、たぶん、選ぶ。
今日は、鉛筆を、見ていた。
「……鉛筆で、いいですか」
「うん」
副部長は、それだけ、言った。
ルウアは、鉛筆を、取った。
取ってから、しばらく、その先を、紙の上に、近づけて、止めた。
止めたまま、たぶん、十秒、考えた。
それから、ごく短く、書いた。
> 「線が、震えました」を、また、感じました。
短い、一行だった。
「、また、感じました」、というのが、たぶん、いまのルウアの、ふだんよりも一段だけ、私的な発話だった。
副部長は、その行を、読んだ。
読んでから、ごく短く、頷いた。
頷きの動作は、ノートの上に向けたものではなく、ルウア本人に、向けたものだった。
ルウアは、鉛筆を、机の上に、戻した。
戻してから、自分の元の席に、戻った。
副部長が、ふいに、湯沸かしの方に、歩いた。
「お茶、いれる」
ふだんの副部長の動作だった。
ふだんの動作、というのが、たぶん、第十一話以降、ふだんの儀式になっていた。
ルウアの分。
今村さんの分。
僕の分。
そして、アンドロイド七瀬の分。
四つのカップを、副部長が、机の上に、置いた。
アンドロイド七瀬は、カップを、見た。
見てから、ごく短く、頭を、下げた。
「ありがとう」
ふだんの「位置確保」の語彙では、なかった。
ふだんの「位置確保」をしていたときの彼女は、お茶のカップに、たぶん、礼を、しなかった。
今日の彼女は、している、というには、まだ、はっきりしない角度で、頭を、ほんの少しだけ、下げていた。
たぶん、十度くらいだった。
その十度の角度を、副部長が、覚えるように、見ていた。
今村さんが、自分のカップを、両手で、包んだ。
ふだんの今村さんなら、カップを、片手で、持つ。
ふだんは、片手だった。
今日は、両手だった。
その両手の指先が、カップの陶器に、軽く、触れていた。
僕は、その指先を、見ていた。
見ているうちに──
今村さんの右手の、人差し指の関節の、ちょうど内側の皮膚に、ごく薄く、何かが、乗りかけた。
縦と横の線、だった。
格子、と僕は、思った。
僕の知っている、僕の手のひらの上に乗るのと、同じ系統の、格子だった。
「──」
僕の息が、止まった。
止まっていたことを、僕は、たぶん、止まってから、二秒後に、気づいた。
二秒後に気づいて、それから、たぶん、もう一秒、息を、止めた。
止めたまま、視界の中央の、ふだんの僕の格子の薄さを、僕は、ふだんの僕の意志で、ほんの一段だけ、薄くした。
薄くする、というのは、たぶん、向こうで習った、ロックを、入れる動作と、逆の動作だった。
向こうでは、ロックは、不随意で、入った。
ここでは、たぶん、僕の意志で、外せる。
僕は、外した。
外したら、今村さんの人差し指の関節の内側の皮膚の上の、ごく薄い格子が、たぶん、消えた。
消えたか、消えなかったかを、確かめなかった。
確かめると、もう一度、観察してしまう。
観察してしまうと、たぶん、もう一度、乗ってしまう。
僕は、視線を、今村さんの指先から、外した。
外して、自分の前の、自分のカップを、両手で、包んだ。
包むと、僕の右手の格子の縁が、ほんの一拍だけ、震えた。
たぶん、線が、震えた。
向こうの七瀬も、いま、それを、感じていた。
副部長は、ふだんのお茶の儀式の続きを、続けていた。
今村さんは、両手でカップを包んだまま、ふだんの今村さんに、戻っていた。
ルウアは、自分の席で、ノートの方を、見ていた。
アンドロイド七瀬は、ドアの内側の、半歩ずれた位置で、立っていた。
僕は、自分の右手の格子を、もう、確かめなかった。
確かめない、というのが、たぶん、今日の僕が、確定した、もう一つだった。
ノートの一番下の行に、ルウアの鉛筆書きが、まだ、あった。
> 「線が、震えました」を、また、感じました。
その「また」は、たぶん、いま、起きていることも、含んでいた。




