第十三話 ふだん
放課後の部室を、僕は、ふだんの時間に、出た。
ふだんの時間、というのが何時を指すのかは、たぶん、僕には、もう、よくわからなかった。腕時計を見た。針は、ふだんの位置にあった。位置の正しさを、僕は、今日、はじめて、疑った。
商店街の方角のアンテナの上に、鳩は、今日は、いなかった。
いない、というのも、ふだん、ありうる種類の状態だった。鳩は、日によって、増えたり、減ったりする。今日は、減った日だった。
ただ、減った日、というのが、今日に限って、ふだんすぎる気がした。
家までは、十二分の道のりだった。ふだんの十二分だった。
それで、家の前まで、来た。
玄関の鍵は、半分だけ、開いていた。母親が在宅のときの、いつもの状態だった。
僕は、ドアノブを、回した。
開いた。
「ただいま」
ふだんの声、で出た。ふだんの声、というのが、今日の僕にとっていちばん怪しい単語だ、ということを、僕は、声を出してから、気づいた。
「あ、おかえり」
奥から、母親の声がした。短かった。ふだんの短さだった。
僕は、靴を、ふだんの位置で、脱いだ。廊下の電灯が、ふだんの色でついていた。台所から、味噌の匂いがしていた。今日は、味噌汁の日だった、ということが、匂いだけで、わかった。
ふだんの一日のはずだった。
台所の入口で、足を止めた。
母親が、ガスコンロの前で、お玉を片手に、立っていた。
ふだんの母親が、ふだんの位置に、ふだんに、いた。
「あんた」
こちらを見ずに、母親が、言った。
「うん」
「三日くらい、帰ってなかった?」
「……」
「警察行くか、迷ったんだから」
声に、本当の怒りは、なかった。叱るための温度でもなかった。報告と確認の中間の、ごく薄い、何かだった。
「……迷っただけ?」
僕の口から出た言葉は、ふだんよりも、たぶん、一段だけ、小さかった。
「迷っただけよ」
「……」
「あんたが、先に連絡すべきよね」
「うん」
「うん、じゃないでしょ」
「……すみません」
「謝ればいいってもんじゃないけどね」
それから、母親は、お玉を、軽く、味噌汁の中で、回した。ふだんの動作だった。
僕は、台所の入口に立ったまま、その背中を、見ていた。
見ていたが、たぶん、ちゃんとは、見ていなかった。
見ているふりをしながら、僕は、別の何かを、見ていた。
別の何か、というのは、たぶん、母親が、三日帰らなかった息子に対して、味噌汁の鍋を、いま、ふだんの動作で、回している、という事実そのものだった。
「ご飯、もうすぐだから」
「うん」
「手、洗ってきなさい」
「うん」
「うん、じゃない」
「……はい」
ふだんの叱られ方だった。
夕飯は、味噌汁と、焼き魚と、白米だった。
僕は、ふだんの量を、食べた。
母親は、テレビを見ていた。テレビの音は、ふだんの音量だった。三日帰らなかった息子に対する説教は、たぶん、もう、終わっていた。終わっていた、というよりは、たぶん、最初から、しなかった。「警察行くか迷ったんだから」と「謝ればいいってもんじゃないけどね」の二行で、母親は、もう、それを、終わらせていた。
その経済性の中に、たぶん、ふだんの母親の、ふだんの優しさが、入っていた。
入っていた、と気づいたのは、味噌汁を半分くらい飲んだ頃だった。
僕は、半分だけ残った味噌汁を、しばらく、見ていた。
そして、ゆっくり、最後まで、飲んだ。
味は、ふだんの味だった。
二階の自室に、上った。
階段の十二段目で、いつものように、左の踵が、いつもより一拍だけ強く、踏み板に当たった。子どもの頃からの、僕の癖だった。
ドアを開けて、電気をつけた。
机が、ふだんの位置にあった。
その上に、銀色のカメラが、ふだんの場所に、置かれていた。
第一話の最後に、僕が机の上に出したまま、しばらく目を開けたままでいた、あのカメラだった。
それから、四日前まで、それは、ここにあった。
四日前から、今日までの三日間、僕は、こちらには、いなかった。
それでも、カメラは、ふだんの場所に、ふだんに、あった。
僕は、椅子を、引いて、座った。
カメラの、いちばん近いところを、見た。レンズの縁。金属の輪。シリアル番号の刻印。ストラップの端の、祖父の字の「竹内透」。
格子は、乗っていなかった。
乗っていない、ということを、確かめるのに、僕は、たぶん、三秒、かかった。三秒、というのは、僕の中で、たぶん、長すぎる三秒だった。
僕は、人差し指を、カメラの本体の、ストラップの付け根のあたりに、軽く、近づけた。
近づけた、というよりは、近づけに行っていた。意識より先に。
止めた。
確かめる前に、止めた。
確かめたら、たぶん、乗る。乗ってしまったら、たぶん、戻せなくなる。
僕は、指を、戻した。
シャッターも、切らなかった。
第一話の最後と、ほぼ、同じ動作だった。
ただし、第一話の僕と、今夜の僕で、少しだけ、何かが、違っていた。
第一話の「切らない」は、たぶん、自分が世界に指紋をつけてもいい人間だと、まだ、思えていない、という種類の、保留だった。
今夜の「切らない」は、保留ではなく、たぶん、選択だった。
切らない方が、たぶん、今日のカメラは、ふだんの場所に、ふだんに、いられる。
そう、思った。
そう思った瞬間に、僕は、たぶん、ふだんに、戻していた。
戻した、というのが、第十二話の「外した」と、なんとなく、対になる動作のような気がした。
僕は、机に肘をついたまま、しばらく、目を開けたままで、いた。
カメラは、何も、しなかった。机の上で、ふだんに、いた。
朝、目を覚ましたとき、右手の格子は、まだ、ごく薄く、残っていた。
布団の上で、しばらく見ていた。
格子は、消えなかった。瞬きを一度した。薄くはなったが、消えなかった。もう一度した。やはり、消えなかった。
昨日と、同じ薄さだった。
ふだんの確かめ方、というのを、僕は、自分の身体に対して、もう、持っていた。
朝の支度は、ふだんの順番で、進んだ。
歯を磨いて、顔を洗って、制服に着替えて、鞄を持って、階段を下りた。階段の十二段目で、いつものように、左の踵が、いつもより一拍だけ強く、踏み板に当たった。今朝も、当たった。ふだんに、当たった。
台所で、母親が、トーストにバターを塗っていた。
「おはよう」
「おはよ」
「食べる?」
「うん」
「うん、じゃなくて、いくつ?」
「……二枚」
「はい」
ふだんのやりとりだった。
母親は、二枚目のトーストを、僕の前に置いた。それから、自分の分のお茶を、淹れた。
僕は、ふだんの位置で、ふだんの速度で、トーストを食べた。
食べながら、母親の手元を、たぶん、ふだんよりも、一段だけ、丁寧に、見ていた。
母親の手は、ふだんの手だった。その手の上に、格子は、乗っていなかった。
乗っていない、ということを、確かめるのに、僕は、たぶん、二秒、かかった。
確かめたあとは、それ以上、見なかった。
確かめると、たぶん、乗る。
僕は、第十二話の終わりに、自分の右手を、左手で、包んだあの動作を、頭の中で、もう一度、繰り返した。
繰り返してから、トーストの、残り半分を、食べた。
家を出た。
通学路は、ふだんの通学路だった。
ふだんのポストの色は、赤かった。ふだんの自販機の色は、青かった。ふだんの信号は、今日は、赤だった。
ふだんの位置で、ふだんに、立ち止まった。
立ち止まると、視界の右側に、人が、一人、見えた。
スーツの女性だった。
僕の知っている、その立ち方だった。
昨日の朝と、同じ場所だった。
ただし、ほんの少しだけ、違うところが、あった。
立ち方の角度が、昨日の彼女のそれと、ほんの少しだけ、違った。
差は、たぶん、二度か、三度。ふだんの目では、見逃す種類の差だった。
今日の僕の目は、見逃さなかった。
昨日の彼女は、信号が青になっても、動かなかった。
今日の彼女は、信号が赤の段階で、もう、立っていた。
「もう立っていた」、ということは、たぶん、彼女が「いつから」立っているのかが、僕の視界の外に、ある、ということだった。
その「いつから」の長さを、今日は、数えなかった。
僕は、視線を、彼女の方からは、少しずらして、信号の方へ、戻した。
戻したあと、ほんの一拍だけ、彼女の方へ、戻ろうとした。
戻ろうとして、戻さなかった。
戻したかった、という気持ちは、たぶん、あった。
ただ、戻したら、たぶん、僕は、彼女の立ち方の角度を、もう一度、測ってしまう。測ってしまったら、たぶん、その角度を、僕は、何かに、結びつけてしまう。結びつけてしまったら、たぶん、何かが、視界の中に、入ってくる。
入ってきたら、たぶん、彼女に、何か、しないといけない種類のものを、見つけてしまう。
僕は、まだ、それを、見つけたくは、なかった。
第十二話のときと、同じ温度だった。ただし、第十二話の僕は、「振り返ろうとして、振り返らなかった」だった。今日の僕は、「戻ろうとして、戻さなかった」だった。
「振り返る」と「戻す」が、たぶん、ほんの少しだけ、違った。
信号が、青になった。
僕は、ふだんに、歩き出した。
ふだんに、というのが、たぶん、今日いちばん、ちゃんと出来たことだった。
歩きながら、視界の右側で、スーツの女性が、まだ、立っているのが、見えた。
立っている、というよりは、まだ立っている、という種類の動作だった。
そして、たぶん、明日もそこに、いる種類の動作だった。
「あの人は、たぶん、ふだんから、ふだんに、いる人だった」
そう、僕は、頭の中で、たぶん、確定しないように、書いた。
書いたあと、その「書いた」を、消すように、視線を、横断歩道の白線の方へ、戻した。
横断歩道を、渡り切った。
商店街の入口を、通った。
肉屋の前を、ふだんの速度で、通り過ぎた。
その先の、見通しのいい場所で、僕は、商店街の方角の、いちばん高いアンテナの先端を、見上げた。
アンテナの先端には、今日は、鳩は、いなかった。
いない、ということが、今日の僕の側で、たぶん、便利だった。
便利、というのが、なんとなく、今日に限って、自分でも嫌な単語に感じた。
僕は、左手で、鞄の肩紐を、軽く、押さえた。
右手を、上げた。
肩の高さまで、だった。
人差し指を、軽く、アンテナの先端の方向に、向けた。
向ける、というのは、たぶん、向こうで、何度か、やった動作だった。
向こうでやったときは、向けた指の先の方向に、視界の中央の格子の升目が、いくつか、いつもの色で、乗った。乗った升目の数だけ、その先の対象の上に、青銀の点が、見えた。見えた点を、手のひらが、軽く払うように、繋いだ。
その先に、光が、出た。
向こうでは、最後まで、続いた動作だった。
今日は──
途中で、止まった。
視界の中央に、格子が、薄く、出た。
出かけた、というのが、たぶん、正しい言い方だった。出たのは、出る前の一拍の合図だけだった。
その先の升目に、青銀の点は、乗らなかった。
乗らなかった、というよりは、乗る場所に、何もなかった。
手のひらが、軽く払うように動こうとして、動かなかった。
動かなかった、というのも、たぶん、正しくない。動きの初動だけは、来ていた。けれど、その初動の次の動きが、来なかった。
向こうでは、最後まで、続いていた動作が、こちら側では、途中で、止まった。
「ああ、出ない、ということが、たぶん、こちら側のルールだった」
僕は、頭の中で、たぶん、たいしてびっくりしないで、それを、確定した。
僕は、右手を、ゆっくり、下ろした。
下ろした手は、ふだんの位置に、ふだんに、戻った。
視界の中央の格子は、出た時と同じくらいのゆっくりさで、薄くなって、消えた。
消えたあと、視界は、ふだんの視界だった。
「ふだん」というのは、いま、たぶん、こちら側の意味で、本当に、ふだんだった。
僕は、商店街の方角を、もう一度、見上げた。
アンテナの上に、今日は、鳩は、いなかった。
いない、ということが、今日の僕の側で、便利、ではなく、ただ、ふだんだった。
便利、という単語を、僕は、もう、頭の中で、使わなかった。
歩き続けた。
校門を、ふだんの時間に、くぐった。
放課後、部室のドアを、開けた。
ドアの内側に、アンドロイド七瀬が、立っていた。
「位置確保」の姿勢では、なかった。半歩ずれた位置で、立っていた。戻されないまま、もう何日も、彼女は、その位置に、いた。
「おかえりなさい」
「……ただいま」
ふだんの「おかえりなさい」と、ふだんの「ただいま」が、ふだんの部室の入口で、交換された。
副部長と、ルウアと、今村さんが、ふだんの席に、座っていた。
副部長が、ふだんの位置で、お茶を、淹れていた。
四つ、淹れていた。
アンドロイド七瀬は、お茶を、飲まない。それは、第十一話の終わりから、もう、全員が、知っていた。それでも、副部長は、毎回、四つ、淹れた。
毎回、というのが、ふだんの儀式に、なっていた。
副部長が、カップを、机の上に、並べた。最後の一つを、ドアの内側の方へ、置いた。半歩ずれた位置に立っているアンドロイド七瀬の、ちょうど前あたりに、置いた。
アンドロイド七瀬は、しばらく、置かれたカップを、見ていた。
それから、ごく短く、頭を下げた。
「ありがとう」
十度、だった。
第十二話のときは、たぶん、十度くらいだった。今日のは、十度、きっかりだった。
第一話のルウアの十五度きっかりと、同じ系統の角度だった。ただし、ルウアの十五度は、業務の角度だった。アンドロイド七瀬の十度は、業務ではなかった。
十度、というのが、たぶん、業務と、業務以外の、ちょうど中間の角度だった。
その中間を、彼女は、毎回、ふだんに、選んでいた。
副部長は、自分の席に、戻ってから、ルウアの方を、向いた。
「ルウア」
「はい」
「お茶、ぬるくない?」
「……ちょうどです」
短かった。「事実です」、ではなかった。
副部長は、それを聞いて、ごく短く、頷いた。頷いてから、自分のカップを、両手で、軽く、包んだ。
ルウアは、自分の手元のノートに、視線を戻した。鉛筆を、動かしていた。
何のノートで、何が書かれているのかを、副部長は、訊かなかった。
訊かないことが、たぶん、副部長の、ふだんの優しさだった。
今村さんが、自分のカップを、両手で、包んでいた。
ふだんの今村さんなら、片手で持つ。今日は、両手だった。第十二話の終わりから、両手の日が、増えていた。
第十二話の終わりに、彼女の右手の人差し指の関節の内側の皮膚に、ごく薄く、格子が、乗りかけた。
僕は、それを、確かめなかった。今日も、確かめなかった。
確かめないことが、ふだんに、なってきていた。
ふいに、副部長が、ドアの内側の方を、見た。
「七瀬」
「はい」
「お茶、冷めるよ」
「ありがとうございます」
「飲めないのは知ってるけど」
「はい」
「冷めると、見た目が、ふだんじゃなくなるから」
「承知しました」
その瞬間、僕の側で、何かが、一拍、ずれた。
「七瀬」、という名前を、こちら側で聞いたとき、僕は、一拍だけ、ずれた気がした。
向こうで、内山さんが、何度か、彼女のことを「七瀬」と呼ぶのを、聞いた。そのときの「七瀬」の音と、いま、副部長が、ドアの内側のアンドロイド体に向けて発した「七瀬」の音が、僕の耳の中で、ほんの一拍、ずれて、聞こえた。
ずれた、というほどでも、なかった。
ふだんの耳の解像度では、たぶん、気づかない種類の、ずれだった。
僕は、それを、確かめようとして、止めた。
ただ、止めたその動作の中で、もう一つ、別の音が、薄く、頭の中に、戻ってきた。
向こうで、僕が、何度か、口にした「内山さん」という呼びかけの音。
その音を、僕は、こちら側では、まだ、ほとんど、口にしていなかった。
ただ、もし、誰かが、こちら側で「内山」と発音したら、たぶん、僕の耳の中では、いまの「七瀬」と、同じ系統の、一拍のずれが、来る気がした。
来る気がした、だけだった。
確かめないので、それ以上は、わからなかった。
二度のずれが、片方ずつ、僕の耳の中で、続いていた。
二度のずれの原因を、僕は、一つに、特定しなかった。
副部長が、僕の顔を、見ていた。
「あんた」
「うん」
「ぼーっとしてる」
「……うん」
「今日、なんかあった?」
「……」
「あったら、いつか、書いて」
「うん」
副部長は、それから、自分のカップに、視線を、戻した。ふだんの動作だった。
僕は、自分のカップを、もう一度、両手で、包み直した。
包み直してから、ゆっくり、左手を、離した。
右手の格子は、いま、いちばん薄かった。
部室の窓の外で、夕方の光が、ふだんの角度で、傾いていた。




