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第十四話 戻せなかった日

朝、目を覚ましたとき、右手の格子は、昨日より、ごく薄く、濃く、なっていた。

「ごく薄く、濃く」、というのは、たぶん、矛盾した表現だった。けれど、僕の右手の上で、それは、矛盾せずに、両立していた。薄さは、昨日の朝までと、ほぼ、同じだった。濃さが、ほんの一段だけ、進んでいた。

朝の支度は、ふだんの順番で、進んだ。

母親は、ふだんの朝の母親だった。「おはよ」「うん」「いってきます」「いってらっしゃい」程度のやりとりで、台所を出た。

家を出た。

通学路は、昨日と、ほぼ、同じだった。

信号待ちで、ふだんの位置に、立った。

立つと、視界の右側に、また、スーツの女性が、いた。

昨日と、ほぼ、同じ場所だった。

ただし、昨日と、ほんの少しだけ、違うところが、あった。

立ち方の角度が、昨日のそれより、ほんの少しだけ、違った。差は、たぶん、二度。昨日の差より、たぶん、ほんの一段だけ、小さかった。

差が小さくなった、ということが、たぶん、今朝の僕には、昨日の差より、ほんの一段だけ、気になった。

僕は、振り返らなかった。戻さなかった。

振り返らない、と、戻さない、を、二回続けて、選んだ。

選んだ、という動作が、たぶん、昨日より、ほんの少しだけ、楽だった。

楽だった、という単語を、頭の中で、もう一度、消した。

信号が、青になった。

僕は、ふだんに、歩き出した。

スーツの女性の方は、見なかった。

横断歩道を、渡り切った。商店街の入口を、通った。肉屋の前を、通り過ぎた。

商店街の方角の、いちばん高いアンテナの上に、今日も、鳩は、いなかった。

その先の、街路樹の下を、通った。

街路樹の下の、舗道の上に、雀が、五羽、降りていた。

四羽は、地面で、何かを、つついていた。一羽は、その少し外側で、首を、二度、回した。

一羽だけ、リズムが、違った。

そのリズムの違いを、僕は、たぶん、ふだんなら、ふだんに、見ていた。

今朝は──

今朝は、たぶん、ふだんから、ふだんではない見方で、見ようとしていた。

僕は、左手で、鞄の肩紐を、軽く、押さえた。

右手を、上げた。肩の高さまで、だった。

人差し指を、軽く、リズムの違う一羽の方向に、向けた。

向けた、というのは、たぶん、昨日と、同じ動作だった。

ただし、昨日と、ほんの少しだけ、違う動作だった。

昨日は、最後まで続かない、ということを、はじめて、知った動作だった。

今日は、最後まで続かない、ということを、もう一度、確認するために、向けた動作だった。

確認、というのも、たぶん、ふだんから、ふだんではない動作だった。

視界の中央に、格子が、薄く、出た。

昨日と、ほぼ、同じ薄さだった。

その先の升目に、青銀の点は、乗らなかった。

雀は、首を、二度、回した。それから、もう一度、首を、回した。三度目、というのが、たぶん、雀の側の、ふだんではない動作だった。

僕は、それを、観察してしまった。

観察してしまったが、こちら側で続く動作は、最後まで、続かなかった。

途中で、止まった。

止まった場所が、昨日と、ほぼ、同じだった、ということを、僕は、確認した。

確認したあと、僕は、右手を、ゆっくり、下ろした。下ろした手は、ふだんの位置に、戻った。

戻した手の重さを、しばらく、感じていた。

その隙間に、僕の頭の中で、別の音が、薄く、戻ってきた。

向こうで、別れる前に、内山さんは、たぶん、何かを、言いかけて、止めた。

言いかけて、止めた、ということを、そのときの僕は、観察していた。

観察したが、何を言いかけたのかは、観察できなかった。

いま、こちら側で、二日、続けて、確認したあとで、僕は、たぶん、内山さんが、何を言いかけたのかを、自分で、推測した。

「向こうでしか、使えない」──たぶん、そう言いかけたのだと、僕は、推測した。

言わなかったのは、たぶん、こちら側で、僕が、自分で、気付くように、だった気がした。

僕は、推測を、内山さんの発話として、頭の中の引き出しに、置いた。

雀は、舗道の上で、もう、リズムを、揃えていた。

校門を、ふだんの時間に、くぐった。

一限は、現代文だった。

教科書は、ふだんの位置に、開いていた。黒板の上の、先生の字も、ふだんの字だった。

僕は、ふだんの席で、ふだんの姿勢で、ノートを、取っていた。

取っていた、というのは、たぶん、正確ではなかった。

ノートを取っているふりをしながら、僕は、黒板を見ていた。黒板を見ているふりをしながら、視線の片隅で、別のものを、見ようとしていた。

ふりが、三重に、重なっていた。

第一話の朝と、同じ温度だった。

ただし、第一話のときは、左隣の今村さんを、見ようとして、見ない、ためのふりだった。

今朝は、別だった。

僕は、隣を、見ないようにしていた。

それは、見ようとして、見ない、ではなかった。

見ない、と、選んでいた。

選んでいた、という動作が、たぶん、昨日の章末で、自分が「選んだ/選ばなかった」と書いた、その続きだった。

便利、を、また、頭の中で、消した。

そのとき、視界の中央の、ほんの右下の隅で、何かが、ごく薄く、動いた。

動いた、ではない。動いたように、見えた、でもなかった。

ただ、視界の片隅に、ふだんではない、薄い線の組み合わせが、入ってきた。

僕は、視線を、ほんの少しだけ、そちらに、動かした。

動かしたつもりではなかった。動かしてしまった、というのが、たぶん、正しかった。

動かしたら、今村さんの、右手の、人差し指の、関節の内側の、皮膚の上に、ごく薄く、縦と横の線が、乗っていた。

格子、だった。

僕の知っている、僕の手のひらの上に乗るのと、同じ系統の、格子だった。

第十二話の終わりに、ごく薄く、乗りかけて、僕が、確かめなかった、あの位置と、同じ位置だった。

「乗っていない」と、僕が確かめる前に、もう、乗っていた。

確かめないことが、ふだんに、なってきていた。

そのふだんが、今朝、破れた。

破れた、というよりは、たぶん、向こう側から、ふだんを、追い越されていた。

僕が「確かめない」を選んでも、向こうは、もう、確かめていた。

「向こう」、というのが、今朝に限って、誰のことなのかが、僕には、わからなかった。

向こう、というのは、たぶん、今村さんの指、ではなかった。

向こう、というのは、たぶん、今村さんの指の上に、勝手に、現れている、その格子そのもの、だった。

僕は、いくつかの動作を、頭の中で、順番に、試した。

一つ目。

外す。

第十二話の終わりに、僕が、自分の意志で、外した、あの動作。

僕は、視界の中央の格子を、自分の側で、外そうとした。

外せた。

しかし、外せたのは、僕の側の格子だった。

今村さんの指の上の格子は、僕の側の外す動作の対象では、なかった。

僕の格子は、自分の側で、外れた。今村さんの格子は、そのまま、乗っていた。

外す、では、届かなかった。

二つ目。

戻す。

昨日、僕が、はじめて、自分で選んだ、あの動作。

僕は、視線を、今村さんの指の方から、ふだんの位置に、戻した。

戻したつもりだった。

戻したあとで、もう一度、見たら、まだ、乗っていた。

戻しても、今村さんの指の格子は、消えなかった。

戻す、でも、届かなかった。

三つ目。

目を、閉じる。

これは、たぶん、今朝、僕が、はじめて、自分で、思いついた動作だった。

僕は、ほんの一拍だけ、目を、閉じた。

閉じてから、ゆっくり、開けた。

開けたとき、今村さんの指の上には、まだ、格子が、乗っていた。

目を閉じる、でも、届かなかった。

四つ目。

数えない。

第十話の終わりに、僕が、はじめて、選んだ、あの動作。鳩を、数えなかった、あれと、同じ系統の動作。

僕は、格子の升目を、数えなかった。

数えなくても、格子は、消えなかった。

数えない、でも、届かなかった。

四つの動作が、ぜんぶ、対象に、届かなかった。

届かなかった、ということを、僕は、頭の中で、四回、確認した。

四回、というのが、たぶん、今朝の僕の、いちばん、ふだんではない数だった。

一限の終わりの、チャイムが鳴った。

教室が、ふだんに、ざわついた。

僕は、視線を、隣に、向けたままに、しなかった。

向けたままにしたら、たぶん、五つ目の動作を、思いついてしまう。

思いついてしまったら、たぶん、それも、届かない。

僕は、視線を、机の上の、教科書の角に、置いた。

教科書の角は、ふだんの角だった。

ふだんの角を、しばらく、見ていた。

そのとき、隣で、何かが、軽く、動いた。

今村さんが、自分の右手を、机の上に、置いた。

置いてから、左手で、その指を、軽く、なでた。

なでた、というよりは、確かめた、というのに近かった。

痛みでは、なかった。

たぶん、痛みの確認、でも、なかった。

今村さんは、自分の指の上の、何かを、自分の左手の指先で、ごく軽く、なでて、確認した。

「指、痛い?」

声が、した。

僕の前の席の、女子だった。

ふだんなら、僕が、ふだんに、観察しない種類のクラスメイトだった。

今朝に限って、その声の高さと、声の優しさが、たぶん、ちょうど、よかった。

「いいえ」

今村さんが、答えた。

短かった。

ふだんの今村さんの短さだった。

その瞬間、今村さんの指の上の格子が、薄くなって、消えた。

僕は、それを、消した動作の主体を、見ようとした。

見ようとして、見えなかった。

見えなかった、というよりは、見ている場所が、違っていた。

僕は、今村さんの指の上の、格子を、見ていた。

格子を消した動作は、たぶん、指の上では、起きていなかった。

格子を消した動作は、たぶん、今村さん自身の、内側で、起きていた。

「いいえ」、と、今村さんが、答えた。その「いいえ」が、たぶん、消したのだった。

僕が、戻せなかったものを、今村さんが、たぶん、戻した。

今村さんは、たぶん、戻したのでは、なかった。

今村さんは、自分の指の上で、それを、ふだんに、戻り直した。

戻す、は、僕の動作だった。

戻り直す、は、今村さんの動作だった。

二つは、たぶん、同じ系統の、別の動詞だった。

外す、というのが、向こうの動作だった。

戻す、というのが、こちら側の、僕の動作だった。

今日、戻り直す、というのが、今村さんの動作だった。

三つの動作は、たぶん、同じ系統の、別の動詞だった。

別の動詞、というのが、たぶん、僕の、今日の、いちばん大きい発見だった。

二限が、始まる前に、僕は、教科書を、ふだんの位置に、戻した。

戻した、というのは、たぶん、ふだんの動作だった。

ふだんの戻すは、まだ、僕の側で、使える動作だった。

それを、僕は、今朝、はじめて、ありがたく、感じた。

ありがたい、という単語を、頭の中で、もう一度、消した。

放課後、部室のドアを、開けた。

ドアの内側に、アンドロイド七瀬が、立っていた。半歩ずれた位置で、ふだんに、立っていた。

「おかえりなさい」

「……ただいま」

ふだんの「おかえりなさい」と、ふだんの「ただいま」が、ふだんの部室の入口で、交換された。

ありがたい、を、また、頭の中で、消した。

消したが、たぶん、今日は、完全には、消えなかった。

副部長と、ルウアと、今村さんが、ふだんの席に、座っていた。

副部長が、ふだんの位置で、お茶を、淹れていた。四つ、淹れていた。

僕は、自分の席に、座った。

座ってから、今村さんの右手を、ふだんに、見た。

人差し指の関節の内側に、格子は、もう、乗っていなかった。

乗っていない、ということを、僕は、ふだんに、確かめた。

確かめてから、視線を、ふだんに、戻した。

ふだんの戻すは、まだ、使えた。

今村さんは、自分のカップを、両手で、包んでいた。

ふだんの両手の包み方だった。

ただ、ときどき、ごく短い時間だけ、自分の右手の指を、軽く、見ていた。

確認していた、というのに、近かった。

痛みの確認、でも、再発の確認、でもない、もっと別の系統の確認だった。

何の確認だったのかは、僕には、わからなかった。

ただ、確認している、ということだけは、僕の側で、ふだんに、見えた。

僕は、自分のカップを、両手で、包んだ。

包んだあとで、ふいに、副部長に、声を、かけた。

「副部長」

「ん」

「今村さん、最近、指、見てる?」

副部長は、自分のカップを、口元に運ぼうとして、止めた。

止めてから、ゆっくり、僕の方を、見た。

「あんた」

「うん」

「見過ぎ」

「……ごめん」

「謝んなくていい」

副部長は、それから、カップを、もう一度、口元に運んだ。

「あんたは、見過ぎる癖が、ついた、ってだけ」

「うん」

「最近、特に」

「……」

「見過ぎないように、なるのも、たぶん、ふだん」

副部長の声の温度は、たぶん、ふだんの副部長の温度よりも、ほんの一段だけ、深かった。

深い、というのも、たぶん、正確ではなかった。

副部長は、僕に、何かを、伝えた。

ルウアは、自分の席で、ノートを、開いていた。

鉛筆を、軽く、動かしていた。

書く速度は、ふだんの彼女の速度よりも、ほんの少しだけ、速かった。

ほんの少しだけ、速い、というのが、たぶん、ルウアの側の、今日の、ふだんではない動作だった。

書き終わったあと、ルウアは、鉛筆を、ノートの上に、置いた。

置いた鉛筆の位置は、ノートの右下の、いつもの位置だった。

その位置の正確さが、ふだんの、ルウアの動作だった。

副部長が、ふと、ルウアの方を、見た。

「ルウア」

「はい」

「今日も、書いたの」

「……はい」

「読まないよ」

「……はい」

「読まないけど、書いた、ってことは、覚えとく」

「……ありがとうございます」

ルウアは、それから、ごく短く、頭を下げた。

その角度は、ふだんのルウアの十八度より、たぶん、ほんの一段だけ、深かった。

アンドロイド七瀬は、ドアの内側の、半歩ずれた位置で、お茶のカップを、ふだんに、見ていた。

「七瀬」

副部長が、ふだんに、声を、かけた。

「はい」

「冷めたら、また、見た目が、ふだんじゃなくなるから」

「承知しました」

「ありがとう」、と、十度のお辞儀が、ふだんに、続いた。

ルウアのノートの上に、たぶん、一行だけ、書かれていた。

僕は、読まなかった。

副部長も、読まなかった。

ルウアは、たぶん、誰にも、読ませる気は、なかった。

読ませる気がない、ということが、たぶん、書いた、ということの、いちばん、ふだんの形だった。

書かれていたのは、たぶん、こんな感じの、一行だった。

今日、教室で、ふだんでは、ない、ものが、ありました。

僕の側で、読まない、と決めた、その動作の中で、たぶん、その一行が、たまたま、視界に、入った。

入ったのは、たぶん、たまたま、では、なかった。

ただ、たまたま、ということに、することにした。

僕は、それを、ふだんに、戻した。

夕方の光が、ふだんの角度で、傾いていた。

右手の格子は、いま、いちばん薄かった。

ただし、薄さの中の、濃さは、たぶん、朝より、もう一段だけ、進んでいた。

進んでいた、という単語は、もう、消さなかった。

戻せなかった、ということを、僕は、今日、確定した。

確定した、というよりは、たぶん、誰かに、ふだんに、戻してもらった、という方が、近かった。

戻してもらった、というのが、今日の僕が、たぶん、はじめて、選ばずに、受け取った、もう一つ、だった。


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