第十五話 呼ばれた日
朝、目を覚ましたとき、右手の格子は、昨日の章末より、もう一段だけ、進んでいた。
進んでいた、というのは、もう、僕の側で、消さない単語だった。
朝の支度は、ふだんの順番で、進んだ。
母親は、ふだんの朝の母親だった。
「いってきます」
「いってらっしゃい」
ふだんの長さの、ふだんの音量だった。
母親の手の上には、格子は、乗っていなかった。
乗っていない、ということを、僕は、今朝も、ふだんに、二秒で、確かめた。
確かめてから、玄関を、出た。
通学路は、昨日と、ほぼ、同じだった。
ほぼ、というのは、たぶん、ある一点を除いて、同じだった、という意味だった。
その一点が、今朝の僕には、はじめて、ふだんの「ほぼ」の外側に、出ていた。
通学路の前半で、僕は、自分の右手を、何度か、軽く、握って、開いた。
握って、開く、というのが、たぶん、右手の格子の、ふだんの濃さを、ふだんに、確かめるための、自分の動作だった。
握ったときの、皮膚の上の、ごく薄い、縦と横の線は、昨日の章末より、もう一段だけ、はっきりと、見えた。
見えた、というよりは、たぶん、見ようとしなくても、見えてしまった、というのに、近かった。
信号待ちで、ふだんの位置に、立った。
立つと、視界の右側に、また、スーツの女性が、いた。
昨日と、ほぼ、同じ場所だった。
ただし、今朝に限って、「ほぼ」が、消えていた。
ほぼ、では、なかった。
完全に、同じ場所だった。
立ち方の角度を、僕は、たぶん、確かめなかった、つもりだった。
つもりだった、というのは、確かめてしまっていた、ということだった。
昨日の角度と、今朝の角度に、差が、なかった。
差が、ゼロ、だった。
これまでの三日間、彼女の立ち方には、ふだん、ほんの一段か二段の、ふだんの差が、あった。
今朝、その差が、ゼロに、なった。
ゼロ、というのが、たぶん、ふだんの差の、ふだんの範囲の、外側、だった。
ふだんの差、というものが、世の中には、あるのだと、今朝、はじめて、知った。
ふだんの差が、なくなったときに、それが、はじめて、ふだんではない、ふだんとして、立ち上がる。
知ったあと、僕は、頭の中で、別のことを、確かめようとした。
スーツの女性以外の、ふだんに観察している対象に、ふだんの差が、あるのかどうか。
商店街の方角の、いちばん高いアンテナの先端の、ふだんの揺れ方。
街路樹の枝の、ふだんの傾き方。
僕の家の玄関の鍵の、ふだんの抜き差し具合。
ぜんぶに、ふだんの差が、あった。
ふだんの差が、ふだんに、ふだんに、あった、ということが、今朝、はじめて、ふだんに、ふだんではない、というのが、たぶん、本当の、ふだんの定義だった、と、僕は、思った。
僕は、振り返らなかった。戻さなかった。
振り返らない、と、戻さない、は、もう、ふだんの動作だった。
信号が、青になった。
歩き出した。
スーツの女性の方は、見なかった。
横断歩道を、渡り切った。商店街の入口を、通った。肉屋の前を、通り過ぎた。
商店街の方角の、いちばん高いアンテナの上に、今日も、鳩は、いなかった。
いない、ということが、もう、ふだんの背景だった。
校門を、ふだんの時間に、くぐった。
くぐったあとも、しばらく、スーツの女性のゼロの差が、頭の中に、残っていた。
ゼロが、頭の中で、ふだんに、消えなかった。
消えなかった、ということを、僕は、頭の中で、ふだんに、置き直した。
ふだんに、置き直す、というのも、ふだんの動作だった。
放課後、部室のドアを、開けた。
ドアの内側に、アンドロイド七瀬が、立っていた。半歩ずれた位置で、ふだんに、立っていた。
ずれは、昨日と、ほぼ、同じ深さだった。
「おかえりなさい」
「……ただいま」
ふだんの「おかえりなさい」と、ふだんの「ただいま」が、ふだんの部室の入口で、交換された。
副部長と、ルウアと、今村さんが、ふだんの席に、座っていた。
副部長が、ふだんの位置で、お茶を、淹れていた。四つ、淹れていた。
ルウアは、自分のノートを、開いていた。鉛筆を、軽く、動かしていた。
今村さんは、自分のカップを、両手で、包んでいた。ときどき、自分の右手の指を、軽く、見ていた。
ときどき、というのが、今日に限って、たぶん、昨日より、回数が、一段だけ、多かった。
多かった、ということを、僕は、観察したが、数えなかった。
僕は、自分の席に、座った。
ふだんの席だった。
ふだんの席が、ふだんに、ふだんだった。
ふだん、というのを、頭の中で、三回、続けて、置いた。
置いてから、たぶん、僕は、ふだんに、戻った。
ふいに、アンドロイド七瀬が、ドアの内側の方を、見た。
正確には、ドアの外側の方を、見た。
ドアの外側、というのは、廊下、ではなかった。廊下のさらに向こう、商店街の方角、だった。
彼女の視線の角度が、たぶん、商店街の方角の、空の高さくらいで、止まっていた。
それから、ごく短く、口を、開いた。
「おねぇちゃん、近くに、いる」
短かった。
ふだんのアンドロイド七瀬の短さだった。
ただし、声の温度が、ふだんの「ありがとうございます」「承知しました」とは、別の系統だった。
副部長が、それを、聞いた。
聞いてから、ごく短く、頷いた。
頷いた、というのは、理解した、というのとは、別の動作だった。
ふだんに、理解しない、というのが、たぶん、副部長の、今日の動作だった。
僕は、聞いた。
聞いてから、右手の格子の、薄いところが、ほんの一拍、震えた気がした。
気がした、だけだった。
ルウアと、今村さんは、何も、しなかった。
ルウアは、ノートに、鉛筆を、置いた。鉛筆の位置は、ふだんの右下、だった。
今村さんは、カップを、両手で、包み直した。
二人とも、聞いた、ということだけは、たぶん、共有していた。
その直後、というのが、たぶん、ふだんよりも、ほんの一段だけ、短い間隔だった。
部室の窓の外で、何かが、見えた。
僕の側からは、副部長の肩越しに、見えた。
商店街の方角の空に、鳩が、いた。
いた、というよりは、たぶん、いすぎた。
数えなかった。
数えないのが、今日も、僕の動作だった。
ただし、ふだんは、数えなくても、ふだんに「いる」鳩だった。
今日は、ふだんでは、ない、いかたで、いた。
ふだんではない、いかた、というのが、たぶん、今日、はじめて、僕の側で、必要になった単語だった。
ふだんではない、というのは、たぶん、いる場所が、ふだんと違う、というのではなかった。
ふだんではない、というのは、たぶん、いる数が、ふだんと違う、というのでも、なかった。
ふだんではない、というのは、たぶん、いるいかた、が、ふだんと違う、ということだった。
「ふだんではない、いかた」、という単語を、僕は、今日、頭の中の引き出しに、置いた。
副部長が、視線を、窓の方に、向けた。
ルウアと、今村さんも、同じ動作だった。
「数、多いね」
副部長が、ふだんの声で、言った。
「うん」
「数える?」
「……」
「数えなくていいよ」
「……うん」
「ふだんは、数えるのよ。鳩の数」
「……」
「今日は、ふだんではない、いかたで、いるから、数えない」
副部長の「ふだんではない、いかた」が、たぶん、僕の頭の中の引き出しと、同じ位置に、入った。
たぶん、僕と、同じ単語を、副部長も、別の引き出しに、持っていた。
ルウアが、立ち上がった。
立ち上がった、というよりは、立った、というのに、近かった。
ふだんのルウアの立ち上がり方では、なかった。
ふだんなら、椅子を、ゆっくり、引いて、座面から体重を、ゆっくり、上に、移動させる。
今日は、ふだんの一段か二段、上のスピードで、座面から、上に、なった。
「なった」、という動詞が、たぶん、彼女の今日の立ち上がりに、近かった。
立った、というよりは、なった、というのに、近かった。
なった、というのが、今日、僕がはじめて、ルウアの動作に、使った動詞だった。
副部長が、ルウアの方を、見た。
見たが、何も、言わなかった。
ふだんなら、副部長は、「ルウア、何?」と訊く。
今日は、訊かなかった。
ルウアは、窓の外を、見ていた。
見ているあいだに、彼女の右手の、人差し指の、関節が、ほんの一瞬だけ、ふだんではない角度に、なった。
なった、というのが、たぶん、彼女の指の、今日の動詞だった。
ふだんの関節の角度よりも、たぶん、五度か、十度、深く、曲がった。
曲がった、というよりは、たぶん、別の方向に、曲がろうとした、というのに、近かった。
「別の方向」、というのが、たぶん、ふだんのルウアの関節の、ふだんの可動範囲の、外側だった。
ふだんの可動範囲の外側、というのを、僕は、観察したが、たぶん、副部長も、観察した。
観察したが、二人とも、言葉に、しなかった。
アンドロイド七瀬が、ルウアの方を、ほんの一瞬、見た。
見てから、視線を、もう一度、ドアの外側の方に、戻した。
ルウアの指先の関節は、すぐに、ふだんの角度に、戻った。
ルウア自身は、たぶん、それに、気付いていなかった。
気付いていない、というのが、たぶん、いちばん、ふだんではない、ことだった。
僕は、視線を、窓の外に、戻した。
戻した視線の中央に、ふだんの視界の格子が、ふだんに、出かけた。
出かけた、というのは、出る前の一拍の合図だった。
その先の升目に、街の方角の鳥の群れが、入った。
升目に、青銀の点が、乗ろうとして、乗らなかった。
その先の動作も、入ろうとして、最後まで、続かなかった。
途中で、止まった。
止まり方は、昨日と、ほぼ、同じだった。
僕は、頭の中で、ふだんの四つの動作を、引き出しから、軽く、取り出して、もう一度、見た。
外す、戻す、目を閉じる、数えない、の、四つだった。
四つとも、たぶん、今日も、対象には、届かない。
届かない、ということを、僕は、もう、知っていた。
知っていた、ということが、今日に限って、たぶん、僕の側の、いちばん、ふだんに、近い場所だった。
そのとき、僕の頭の中で、ふだんではない、別の動作が、ふいに、生まれた。
ふだんではない動作、というのは、たぶん、生まれた、という言い方が、近かった。
戻り直す、を、自分で、試みる。
これは、昨日、今村さんが、自分の指の上で、ふだんに、やった、あの動作だった。
僕は、それを、自分の側で、試みた。
自分の側で、自分の身体ではない対象に、戻り直しを、向けようとした。
向けようとして、止まった。
止まったのは、たぶん、対象の問題では、なかった。
対象が違うから、届かないのでは、なかった。
戻り直す、というのが、たぶん、僕の側の動作では、なかった。
戻り直す、は、戻り直す、人の動作だった。
僕が、街の鳥の群れに、戻り直しを、向けようとしても、向ける、ということ自体が、たぶん、戻り直すの動作では、なかった。
戻り直す、は、たぶん、向けない動作だった。
僕が、戻り直すの動作から、ふだんの位置に、戻ろうとしたとき、頭の中で、別の音が、薄く、戻ってきた。
向こうで、誰かが、ふだんに、言った音、ではなかった。
数分前に、すぐ隣で、アンドロイド七瀬が、ふだんに、言った音だった。
「おねぇちゃん、近くに、いる」。
その音が、僕の頭の中で、ふだんに、戻ってきた。
戻ってきたが、その音は、たぶん、僕に、向けられたものでは、なかった。
向けられていなかったけれど、聞こえてしまった。
聞こえてしまったあとで、僕は、ほんの一拍だけ、誰かに、「いま、ここに、いる」と、答えそうになった。
答えそうになった、というのが、たぶん、今日の僕の、はじめての、別の動作だった。
別の動作、というのは、外す、でも、戻す、でも、戻り直す、でも、なかった。
答える、だった。
答える、というのは、たぶん、僕の側の動作では、なかった。
僕の側の動作ではなかったが、僕の側で、ほんの一拍だけ、答えそうになった。
答えそうになって、答えなかった。
答えなかった、というのは、たぶん、選ばずに、答えなかった、では、なかった。
答えなかった、というのは、たぶん、選ぶ前に、答えなかった、というのに、近かった。
街の方角の空の鳩の群れが、ふいに、散った。
散った、というよりは、たぶん、ふだんの数に、戻った。
戻った、という動詞が、鳩の方にも、使えた、というのが、たぶん、今日の僕の、ふだんに、ありがたい発見だった。
ルウアの指先の関節は、もう、ふだんの角度に、戻っていた。
アンドロイド七瀬は、ドアの内側の、半歩ずれた位置に、戻っていた。
ずれは、昨日より、ほんの一段、深くなっていた。
ふだんの「位置確保」では、もう、なかった。
副部長が、お茶のカップを、もう一度、口元に、運んだ。
お茶は、たぶん、ふだんの温度より、ほんの一段、冷めていた。
何が、起きたのか、誰にも、よくはわからなかった。
ただ、何かが、起きた、ということだけは、五人とも、知っていた。
知っている、ということが、たぶん、今日の五人の、ふだんに、共有された、唯一の単語だった。
副部長が、ふだんに、お茶のカップを、机の上に、戻した。
戻した動作は、ふだんの戻す、だった。
ふだんの戻すが、まだ、副部長の側で、使えた。
「これ」
「うん」
「たぶん、続くよ」
短かった。
ふだんの副部長の短さだった。
「うん」と、僕は、答えた。
答える、という動詞を、副部長に、ふだんに、向けた、ということを、たぶん、副部長は、知らない、と、思った。
知らない、というのが、たぶん、今日の副部長の、ふだんの状態だった。
「続いたら、また、観察する」
「うん」
「観察するしか、ないのよ。あんたも、私も、ぜんぶ」
「……」
「ぜんぶ、というのは、今村さんも、ルウアも、七瀬も、含めて」
「……うん」
副部長は、それから、もう一度、お茶のカップを、口元に、運んだ。
ふだんの動作だった。
副部長の自己命名──「観察される側に、立たないために、観察し続ける」──を、僕は、頭の中で、もう一度、置き直した。
副部長は、それを、自分の側で、続けていた。
僕も、たぶん、副部長の隣で、続ける、と決めた。
決めた、というのは、ふだんの動作だった。
ルウアが、自分のノートに、もう一行、書いた。
書いてから、鉛筆を、ノートの右下の、ふだんの位置に、置いた。
副部長が、ふと、ルウアの方を、見た。
「ルウア」
「はい」
「今日も、書いたの」
「……はい」
「読まないよ」
「……はい」
「読まないけど、書いた、ってことは、覚えとく」
「……ありがとうございます」
昨日と、ほぼ、同じやりとりだった。
ただし、ルウアの「ありがとうございます」の温度が、ほんの一段、深かった。
深い、というよりは、たぶん、ほんの一段だけ、長く、ルウアの側に、留まっていた。
ルウアのノートに、書かれていたのは、たぶん、一行だった。
僕は、読まなかった。副部長も、読まなかった。
ルウアは、たぶん、誰にも、読ませる気は、なかった。
読ませる気がない、ということが、たぶん、書いた、ということの、ふだんの形だった。
書かれていたのは、たぶん、こんな感じの、一行だった。
今日、空に、ふだんではない、数の、何かが、ありました。
僕は、読まなかったので、その一行は、たぶん、僕の頭の中で、たまたま、見えた、ということに、することにした。
たまたま、ということに、することにする、というのが、今日も、僕の、ふだんの動作だった。
部室を、出る前に、僕は、ドアの内側の、アンドロイド七瀬の位置を、ふだんに、見た。
見ない、と決めて、見た。
見ない、と決めて、見る、というのが、たぶん、今日に限って、ふだんに、見る、ということだった。
ずれは、ふだんより、もう一段、深くなっていた。
ふだんのずれが、今日の、ふだんではない、ふだんの位置に、移動していた。
ふだんではない、ふだんの位置、というのが、今日、彼女の、ふだんだった。
彼女のふだんが、毎日、少しずつ、ずれを、増している。
わからない、というのは、悪い意味では、なかった。
わからない、というのが、たぶん、彼女のずれの、今日の、ふだんの呼び方だった。
ふだんの差を、僕は、たぶん、今朝、スーツの女性の側で、ゼロ、として、観察した。
彼女のずれの側では、ふだんの差は、ふだんに、増している側に、まだ、あった。
「お先に」
「お先です」
ふだんの「お先に」と、ふだんの「お先です」が、ふだんの部室のドアの内側で、交換された。
廊下を、ふだんの速度で、歩いた。
歩きながら、頭の中で、答えそうになった音が、まだ、ふだんに、戻ってこなかった。
呼ばれた、というのが、今日の、ふだんではない、ふだんだった。
呼ばれたあとで、答えなかった、というのが、たぶん、今日の僕の、もう一つの、別の動作だった。
答えなかった、というのは、たぶん、戻さなかった、と、同じ系統だった。
ただし、戻すは、僕の側の動作だった。
答えるは、たぶん、僕の側ではない、別の側の、動作だった。




