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第十六話 線が、答えた日

朝、目を覚ましたとき、右手の格子は、昨日の章末より、もう一段だけ、進んでいた。

進んでいた、というのは、もう、ふだんの単語だった。

ふだんの単語、ということが、たぶん、今朝の僕の、ふだんの動作だった。

朝の支度は、ふだんの順番で、進んだ。

母親は、ふだんの朝の母親だった。

「いってきます」

「いってらっしゃい」

ふだんの長さの、ふだんの音量だった。

母親の手の上には、格子は、乗っていなかった。

乗っていない、ということを、僕は、今朝も、ふだんに、二秒で、確かめた。

確かめてから、玄関を、出た。

通学路は、昨日と、ほぼ、同じだった。

その一点が、今朝も、ふだんの「ほぼ」の外側に、出ていた。

ただし、今朝の出方は、昨日の出方とは、ほんの一段だけ、違った方向に、出ていた。

信号待ちで、ふだんの位置に、立った。

立つと、視界の右側に、また、スーツの女性が、いた。

昨日と、ほぼ、同じ場所だった。

ただし、立ち方の角度に、ほんの一段だけ、差が、戻ってきていた。

差が、戻ってきた、というのが、たぶん、今朝の差だった。

昨日の差は、ゼロだった。今朝の差は、ゼロから、ほんの一段だけ、戻っていた。

戻っていた、というよりは、たぶん、ゼロのままだったところから、ふだんの差の方向に、ほんの一段だけ、動き始めた、というのに、近かった。

動き始めた、というのも、たぶん、正確ではなかった。

動き始める、という動詞は、ふだんの彼女には、似合わなかった。

ふだんの差の側に、ほんの一段だけ、戻ってきていた。

戻ってくる、という動作の主体が、たぶん、僕の側では、なかった。

僕は、たぶん、何も、しなかった。

なのに、彼女の方が、たぶん、ゼロから、ほんの一段、戻ってきていた。

僕は、振り返らなかった。戻さなかった。

ただし、頭の中で、ほんの一拍だけ、彼女の方に、視線を、戻したい気持ちが、あった。

信号が、青になった。

歩き出した。

スーツの女性の方は、見なかった。

横断歩道を、渡り切った。商店街の方角の、いちばん高いアンテナの上に、今日も、鳩は、いなかった。

いない、ということが、もう、ふだんの背景だった。

ふだんの背景の中に、ふだんの差が、ほんの一段、戻ってきていた、ということが、たぶん、今朝の、ふだんに、ふだんではない、ふだんだった。

校門を、ふだんの時間に、くぐった。

くぐったあとで、僕は、頭の中で、彼女の戻ってきた一段を、ふだんに、置き直した。

置き直した、というのが、たぶん、今朝の僕の、ふだんの動作だった。

ふだんの動作の中で、置き直された一段は、頭の中の引き出しの、ひとつに、入っていた。

引き出しの数は、たぶん、ふだんより、ひとつだけ、多くなっていた。

多くなっていた、というのは、悪い意味では、なかった。

ふだんに、なっていた、というのが、近かった。

一限と、二限が、ふだんに、進んだ。

教科書は、ふだんの位置に、開いていた。黒板の上の、先生の字も、ふだんの字だった。

隣の席の今村さんは、ふだんに、いた。

ときどき、自分の右手の指を、ふだんに、見ていた。

見ていた回数は、たぶん、昨日と、同じくらいだった。

昨日と、同じくらい、というのが、たぶん、ふだんの量だった。

ふだんの量を、僕は、観察したが、数えなかった。

数えないことが、もう、ふだんの動作だった。

右手の格子は、ふだんに、薄く、出かけては、消えた。

出かけた、というのが、もう、ふだんの動作だった。

ふだんの動作の中で、僕は、外す、を、何度か、軽く、試した。

外せた。

外せたことを、ふだんに、ふだんに、確かめてから、視線を、ふだんに、戻した。

戻すは、まだ、僕の側で、ふだんに、使えた。

ふだんに、使える、というのが、今日の僕の、ふだんに、ありがたい単語だった。

二限の終わりに、ふと、廊下の窓から、副部長の歩く姿が、見えた。

副部長は、別のクラスの方の廊下を、ふだんの速度で、歩いていた。

歩いている副部長を、僕は、ふだんに、見た。

ふだんに、見る、というのが、たぶん、今日の僕の、ふだんに、ふだんの動作だった。

副部長は、ふだんに、歩いていた。

ふだんに、歩いている、というのが、たぶん、今日の副部長の、ふだんの動作だった。

昼休み、僕は、ふだんの場所に、移動した。

ふだんの場所、というのは、教室の窓際の、いちばん端の席だった。日当たりが、ふだんに、いい場所で、ふだんなら、僕は、そこで、自分の弁当を、ふだんに、食べる。

今日も、ふだんの動作で、弁当の蓋を、開けた。

開けたあとで、ほんの一拍だけ、箸を、止めた。

止めた、というよりは、止まった、というのが、近かった。

右手の格子の、薄いところが、震えた。

気がした、では、なかった。

昨日のは、たぶん、気がした、だけだった。

第十五話の昼下がりに、僕は、震えた気がした、と地の文で書いた。書いた、ということを、書いたあとで、ふだんに、引き出しに、しまった。

しまった引き出しの中で、震えた気がした、というのは、たぶん、ふだんに、薄く、置かれたままだった。

今日のは、違った。

今日のは、震えた、だった。

第一巻の終わりに、僕は、線が震えた、ということを、地の文で、何度か、書いた。

書いたが、たぶん、書いた瞬間の僕は、ちゃんと震えていたのかは、自信が、なかった。

書いたあとで、たぶん、震えていた、ということに、することにした。

書いたあとに、することにする、というのが、たぶん、書いた瞬間の僕の、ふだんの動作だった。

今日、線は、たぶん、ちゃんと、震えた。

線、という単語を、僕は、頭の中で、もう一度、ふだんに、置き直した。

第一巻の引き出しから、第二巻の引き出しに、線、を、ふだんに、移した。

線が、震えた。

線が、震えた、というのが、今日、僕の右手の薄いところで、ふだんに、起きた動作だった。

震えの中に、向こうの声が、薄く、混じっていた。

混じった、というよりは、たぶん、震えの中に、もともと、入っていた、というのに、近かった。

もともと、というのが、たぶん、線の、ふだんの仕組みだった。

声は、誰の声か、たぶん、僕は、知っていた。

内山さんの声だった。

向こうで、僕が、何度か、聞いた、あの声だった。

声の温度は、ふだんの内山さんの声と、ほぼ、同じだった。

ただし、向こうで聞いたときよりも、ほんの一段、薄かった。

薄い、というのが、たぶん、線を通じて、こちら側に、届いた声の、ふだんの形だった。

「あの身体は、彼女のものだが、彼女ではない」

そう、聞こえた気がした。

気がした、というよりは、たぶん、聞こえてきた、というのに、近かった。

聞こえてきた、というのは、昨日のアンドロイド七瀬の「おねぇちゃん、近くに、いる」と、たぶん、同じ系統だった。

向けられていなかったが、聞こえてしまった。

向けられていなかった、ということを、僕は、たぶん、聞いた瞬間に、知っていた。

聞こえてしまったあとで、内山さんの声は、ふだんに、消えた。

消えた、というのが、たぶん、震えが、ふだんの薄さに、戻った、ということだった。

右手の格子の薄いところは、ふだんに、薄いだけに、戻った。

線が、震えて、内山さんの声を、薄く、運んできて、ふだんに、戻った。

運んできて、ふだんに、戻った、というのが、たぶん、線の、今日の、ふだんに、ふだんの動作だった。

僕は、箸を、ふだんの位置に、置いた。

置いてから、頭の中で、ふだんに、整理を、始めた。

「あの身体」、というのが、誰の身体なのかは、たぶん、今、ここでは、わからなかった。

「彼女」、というのが、誰なのかも、たぶん、わからなかった。

「彼女ではない」、というのが、いちばん、わからなかった。

答え方、という単語を、頭の中で、出してから、僕は、ほんの一拍だけ、それを、確かめた。

確かめたあとで、僕は、ふだんに、置き直した。

ふだんに、置き直すは、まだ、僕の側で、使えた。

僕は、その三つの「身体/彼女/彼女ではない」を、頭の中の、別々の引き出しに、置いた。

身体の引き出しは、いちばん深い場所に、置いた。

彼女の引き出しは、その隣に、置いた。

彼女ではない、の引き出しは、二つの引き出しの、いちばん上の段に、置いた。

「彼女ではない」は、「身体」と「彼女」の、両方を、否定するように、ふだんに、開いていた。

僕は、引き出しの位置を、もう一度、確かめなかった。

確かめないことが、もう、ふだんの動作だった。

ふだんに、確かめないことが、たぶん、今日の僕の、ふだんに、ふだんの答え方だった。

ふだんの答え方を、頭の中で、もう一度、確認した。

確認した、というよりは、たぶん、ふだんに、置き直した、というのに、近かった。

ふだんに、置き直した、というのが、今日の、ふだんに、ふだんに、ふだんの動作だった。

弁当の続きを、ふだんに、食べた。

味は、ふだんの味だった。

放課後、部室のドアを、開けた。

ドアの内側に、アンドロイド七瀬が、立っていた。半歩ずれた位置で、ふだんに、立っていた。

ずれは、昨日より、もう一段、深かった。

毎日、少しずつ、深くなっている、というのが、たぶん、彼女の、ふだんの動作だった。

「おかえりなさい」

「……ただいま」

ふだんの「おかえりなさい」と、ふだんの「ただいま」が、ふだんの部室の入口で、交換された。

副部長と、ルウアと、今村さんが、ふだんの席に、座っていた。

副部長が、ふだんの位置で、お茶を、淹れていた。四つ、淹れていた。

ルウアは、自分のノートを、開いていた。鉛筆を、軽く、動かしていた。

今村さんは、自分のカップを、両手で、包んでいた。ときどき、自分の指を、ふだんに、見ていた。

ふだんの部室の、ふだんの五人だった。

副部長が、お茶のカップを、口元に運ぼうとして、止めた。

止めてから、ゆっくり、視線を、僕の方に、向けた。

ふだんなら、副部長は、何も言わずに、お茶を、口元に運ぶ。

今日は、止めた。

僕は、口を、開きかけて、ほんの一拍だけ、止めた。

止めてから、ゆっくり、口を、開いた。

「副部長」

「ん」

「観察し続ける、って、副部長が、言ってたじゃない」

「うん」

「あれ、僕も、続ける」

続ける、という単語を、自分の口から、出してから、僕は、たぶん、少し、驚いた。

直接的すぎる、と、自分でも、思った。

ふだんの僕の発話の温度よりも、ほんの一段だけ、直接的だった。

けれど、副部長は、たぶん、その直接さを、ふだんに、受け取った。

「……」

副部長は、しばらく、僕の顔を、見ていた。

「あんた、今ごろ?」

「うん」

「ま、それでもいいわよ」

副部長は、それから、ゆっくり、お茶のカップを、口元に運んだ。

運んでから、もう一度、こちらを、見た。

「続けるのは、いつから始めても、ふだん」

ふだん、という単語が、副部長の口から、出た。

「続けるのは、いつから始めても、ふだん」、というのが、副部長の、たぶん、ふだんの答え方だった。

答え方、という単語が、僕の頭の中の、別の引き出しと、たぶん、ふだんに、繋がった。

帰り支度を、ふだんの順番で、進めた。

進めながら、頭の中で、ふだんに、整理を、もう一度、始めた。

戻す、というのが、何日か前の、僕の側の動作だった。

戻り直す、というのが、その次の日の、今村さんの動作だった。

呼ばれる、というのが、昨日の、別の側の動作だった。

答える、というのが、たぶん、今日、僕の側に、入ってきた動作だった。

四つの動作が、頭の中の引き出しの中に、並んで、ふだんに、いた。

並んでいた、というよりは、たぶん、それぞれが、別の段に、別の場所で、ふだんに、置かれていた、というのに、近かった。

別の段、というのが、たぶん、四つの動作の、ふだんの関係だった。

ふだんの関係、というのが、たぶん、四つを、同じ系統の、別の動詞として、引き出しの中に、置いている、ということだった。

四つのうち、答える、だけが、今日、新しく、入ってきた。

入ってきた、というよりは、たぶん、聞こえてきた、というのに、近かった。

聞こえてきたものを、僕は、ふだんに、引き出しに、入れた。

数えないことが、もう、ふだんの動作だった。

「お先に」

「お先です」

ふだんの「お先に」と、ふだんの「お先です」が、ふだんの部室のドアの内側で、交換された。

廊下を、ふだんの速度で、歩いた。

歩きながら、頭の中で、線の震えの、薄い場所が、まだ、ふだんに、残っていた。

線が、答えた、というのが、今日、僕が、はじめて、聞いた音だった。

聞いた、というよりは、たぶん、聞こえてきた、というのに、近かった。

聞こえてきた音は、僕の側に、向けられたものでは、なかった。

向けられていなかったが、僕は、たぶん、今日、答える側に、立った。


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