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第十七話 ふだんが、戻らない日

朝、目を覚ましたとき、右手の格子は、昨日の章末より、もう一段だけ、進んでいた。

進んでいた、というのが、ふだんの単語、ではなくなっていた。

ふだんの単語、ではなくなった、というのが、たぶん、今朝の僕の、ふだんではない、ふだんだった。

進んでいた、を、頭の中で、もう一度、置き直そうとした。

ふだんに、置き直そうとして、ふだんに、置き直せなかった。

ふだんに、戻らない単語、というのが、今朝、はじめて、僕の頭の中に、入った。

ふだんに、戻らない、というのが、たぶん、今朝の僕の、いちばん、ふだんではない、ふだんだった。

朝の支度は、ふだんの順番で、進んだ。

母親は、ふだんの朝の母親だった。

「いってきます」

「いってらっしゃい」

母親の「いってらっしゃい」が、ふだんの長さより、ほんの一段だけ、長かった。

長かった、ということを、僕は、観察したが、確かめなかった。

確かめないことが、もう、ふだんの動作だった。

ただし、確かめないこと、というのが、今朝に限って、ふだんに、安心では、なかった。

安心、ではない、という単語を、頭の中で、出してから、僕は、ほんの一拍だけ、それを、別の場所に、置いた。

別の場所、というのが、たぶん、今朝、はじめて、僕の頭の中に、できた、新しい引き出しの位置だった。

新しい引き出しが、今朝、できた、ということを、僕は、ふだんに、確かめなかった。

玄関を、出た。

秋だった。

通学路は、昨日と、ほぼ、同じだった。

ほぼ、というのが、今朝も、ある一点を除いて、同じだった、という意味だった。

ただし、その一点が、今朝は、たぶん、ふだんの「ほぼ」の、もう一段、外側に、出ていた。

信号待ちで、ふだんの位置に、立った。

立つと、視界の右側に、また、スーツの女性が、いた。

昨日と、ほぼ、同じ場所だった。

ただし、立ち方の角度が、昨日とは、ほんの一段だけ、別の方向に、動いていた。

昨日までは、彼女の角度の差は、ふだんの範囲の、内側に、戻ってきていた。

今朝は、その範囲の、外側に、出ていた。

これまでの観察の引き出しには、ない種類の動作だった。

ない種類の動作を、僕は、頭の中で、新しい引き出しに、入れた。

入れた、というよりは、たぶん、入れに行っていた。

入れたあとで、ほんの一拍だけ、引き出しの位置を、ふだんに、確かめようとした。

確かめなかった。

僕は、振り返らなかった。戻さなかった。

戻したい、と思った気持ちは、今朝は、なかった。

戻したい、が、ない、というのが、たぶん、今朝の僕の、ふだんではない動作だった。

信号が、青になった。

歩き出した。

スーツの女性の方は、見なかった。

商店街の方角の、いちばん高いアンテナの上に、今朝も、鳩は、いなかった。

いない、ということが、もう、ふだんの背景では、なかった。

ふだんの背景、というのが、たぶん、今朝、はじめて、僕の側で、解除された。

解除、という単語を、頭の中で、出してから、僕は、それを、もう一度、置き直そうとした。

置き直そうとして、置き直せなかった。

置き直せない単語、というのが、今朝、ふだんに、ふえていた。

校門を、ふだんの時間に、くぐった。

くぐったあとで、僕は、頭の中の引き出しの数を、ふだんに、数えなかった。

数えないあいだに、引き出しの数は、たぶん、ふだんではない、いかたで、ふえていた。

一限が、ふだんに、始まった。

現代文だった。

教科書は、ふだんの位置に、開いていた。黒板の上の、先生の字も、ふだんの字だった。

ふだん、という単語を、僕は、頭の中で、何度か、置こうとした。

置こうとして、ふだんの位置に、置けなかった。

教室は、いつもの匂いだった。

隣の今村さんは、いつもの位置に、いた。

ただし、今日の今村さんは、自分の右手の指を、見ていなかった。

ここ数日、今村さんは、ときどき、自分の指を、見ていた。確認していた。

今日は、確認していなかった。

確認しないことが、今日の今村さんの、ふだんに、なっていた。

ふだんに、なっていた、というよりは、たぶん、確認の動作が、後退していた、というのに、近かった。

後退、という単語を、僕は、頭の中の引き出しに、置いた。

置いてから、もう一度、確かめなかった。

ただし、いつもの動作、というのが、今日は、ふだんとしては、薄かった。

右手の格子は、薄く、出かけては、消えた。

その動作の中で、僕は、外す、を、何度か、軽く、試した。

外せた。

ただし、外せた、というのが、今日に限って、安心の単語では、なかった。

先生の声は、いつもの声だった。

いつもの声、というのが、今日に限って、たぶん、僕の耳の中で、ほんの一段だけ、別の場所に、聞こえていた。

別の場所、というのが、たぶん、頭の中の、新しくできた引き出しの方向だった。

新しい引き出しは、朝の通学路から、まだ、開いていた。

開いている引き出しに、先生の声が、薄く、入って、薄く、出ていった。

入って、出ていった、というのが、たぶん、今日の僕の、聞き方だった。

「ふだん」、という単語を、頭の中で、もう一度、置こうとした。

置こうとして、置けなかった。

置けない単語、というのが、今日、増えていた。

「ふだん」、自体が、置けない単語の、ひとつになり始めていた。

「ふだん」が、置けない、というのが、今日の僕の、いちばん、別の動作だった。

廊下は、静かだった。

二限が、始まった。

数学だった。

僕は、黒板の上の、先生の字を、ふだんに、見ていた。

見ていたが、たぶん、ちゃんとは、見て、いなかった。

そのとき、右手の格子の、薄いところが、震えた。

震えた、というのが、たぶん、昨日のEp16のときよりも、ほんの一段、深かった。

深かった、というよりは、たぶん、震えの幅が、ふだんの幅より、一段だけ、外側に、出ていた、というのに、近かった。

震えは、最初、皮膚の上の、薄い縦と横の線の交点に、入った。

交点から、ゆっくり、線の側に、広がった。

広がった、というよりは、たぶん、もともと、線の側に、入っていた、というのに、近かった。

もともと、というのが、たぶん、線の、ふだんの仕組みだった。

震えの中に、今日は、声は、混じっていなかった。

混じっていない、というのが、たぶん、今日の線の、いつもの動作だった。

いつもの動作、というよりは、たぶん、ふだんではない、いかたの、いつもの動作だった。

ふだんではない、いかたの、いつもの動作、というのが、今日、はじめて、僕の側で、起きた、別の種類の動作だった。

声が、混じらない、ということを、僕は、震えのあいだ、ずっと、確認していた。

確認、というよりは、たぶん、待っていた、というのに、近かった。

待ったが、声は、最後まで、混じらなかった。

線が、震えた。

線が、震えた、というのが、今日も、僕の右手の薄いところで、ふだんに、起きた動作だった。

ただし、声は、最後まで、混じらなかった。

僕は、ほんの一拍だけ、頭の中で、答えそうになった。

昨日の章末から、明日以降の僕の動作だった、答える、というあの動作を、今日、僕は、ほんの一拍だけ、試みた。

試みた、というよりは、たぶん、答えに、なろうとした、というのに、近かった。

第十五話の昼下がりに、僕は、答えそうになって、答えなかった。

第十六話の昼休みに、僕は、答える側に、立った、と、章末に、書いた。

今日は、その続きを、頭の中で、試した。

頭の中で、ほんの一拍だけ、「いま、ここに、います」と、答えてみた。

「ます」、という音が、僕のふだんの地の文には、入らない音だった。

入らない音を、今日、僕は、頭の中で、置こうとした。

「ます」、を選んだのは、たぶん、向こう側の誰かが、僕より、年上のような気がしたからだった。

気がした、というよりは、たぶん、年上の側の誰かだ、と、僕の側で、置いていた、というのに、近かった。

ます、というのが、たぶん、向こう側に、いる、誰かのための音だった。

「いま、ここに、います」が、答えに、なろうとした。

なろうとして、ならなかった。

ならなかった理由を、僕は、整理した。

「いま、ここに、います」が、誰に向けたものなのかが、僕の側で、確定しなかった。

確定しないままでは、答えは、答えに、ならない。

答え、というのは、たぶん、二点を、必要とする動作だった。

一つは、僕の側の点。

もう一つは、向こう側の、誰かの点。

二点が、繋がるとき、答えは、はじめて、答えになる。

僕の側の点は、たぶん、今日、置いた。

向こう側の点は、まだ、置けて、いなかった。

答え方、というのが、たぶん、相手の確定を、含む単語だった。

相手の確定を、僕は、まだ、持っていなかった。

僕の答え方、というのが、答えに、ならない。

線の震えは、薄くなって、消えた。

声は、最後まで、混じらなかった。

僕は、いつもの位置に、戻った。

ただし、戻った、というのが、今日に限って、ふだんに、戻った、ではない、別の動作だった。

戻った、というよりは、たぶん、戻れない場所から、いつもの位置に、ほんの一段だけ、降りてきた、というのに、近かった。

「ふだんに、戻った、ではない、別の動作」、というのが、今日、はじめて、僕の頭の中の、別の引き出しに、入った。

別の引き出しの数は、たぶん、今朝の通学路からの分も含めて、ふえていた。

ふえていた、を、僕は、もう、消さなかった。

二限のチャイムが、いつものように、鳴った。

教室が、いつものように、ざわついた。

ざわつきが、今日に限って、たぶん、僕の耳に、聞こえなかった。

聞こえなかった、ということを、僕は、観察したが、確かめなかった。

放課後、部室のドアを、開けた。

ドアの内側に、アンドロイド七瀬が、立っていた。

半歩ずれた位置に、立っていた。

ただし、ずれの深さが、今日は、昨日と、同じだった。

昨日まで、彼女のずれは、毎日、少しずつ、深くなっていた。

今日は、深くなって、いなかった。

止まっていた、というのが、たぶん、今日の彼女の動作だった。

止まっていた、というよりは、たぶん、固まっていた、というのに、近かった。

固まっていた、というのが、たぶん、流動の終わりだった。

彼女の身体の周りの、いつもの空気の流れも、今日に限って、たぶん、彼女の周りで、ほんの一段だけ、止まって、いた。

止まって、いた、というのが、たぶん、彼女と、彼女の周りの、両方の動作だった。

「位置確保」の姿勢では、なかった。「ふだんではない、ふだんの位置」、というのに、近かった。

「おかえりなさい」

「……ただいま」

いつもの「おかえりなさい」と、いつもの「ただいま」が、部室の入口で、交換された。

ただし、交換のあとで、彼女の位置は、ずれた位置に、固まったままだった。

副部長と、ルウアと、今村さんが、いつもの席に、座っていた。

副部長が、いつもの位置で、お茶を、淹れていた。四つ、淹れていた。

ルウアは、自分のノートを、開いていた。鉛筆を、握っていた。

ただし、握り方が、いつもより、ほんの一段、長かった。

ふだんなら、ルウアは、書き始めて、書き終わったら、鉛筆を、ノートの右下に、置く。

今日のルウアは、書き終わったあとも、鉛筆を、握ったままだった。

握ったまま、たぶん、次の一行を、待っていた。

今村さんは、自分のカップを、両手で、包んでいた。

今日も、自分の指を、見ていなかった。

朝から、見ていなかった。

見ていない、というのが、たぶん、今日の今村さんの、新しい、ふだんになっていた。

新しいふだん、というのが、たぶん、確認の動作の、終わりの形だった。

副部長が、僕の方を、見た。

いつものように、見ていた。

ただし、いつもの見方より、ほんの一拍だけ、長かった。

「あんた」

「うん」

「答えた?」

「……」

「答えなかった?」

「……うん」

「ま、答え方、わからないだけよ」

「うん」

「いつかわかるわよ」

「うん」

「いつかは、ふだんよ」

「いつかは、ふだん」、というのが、副部長の、たぶん、今日の答え方だった。

副部長は、それから、ゆっくり、お茶のカップを、口元に、運んだ。

いつもの動作だった。

いつもの動作、というのが、今日の副部長の側で、まだ、使えていた。

僕は、自分のカップを、両手で、包んだ。

包んでから、頭の中で、整理を、始めた。

ふだんが、もう、ふだんに、戻らない、というのが、たぶん、今日、はじめて、僕の側で、確定した動作だった。

戻らない、というのが、今日、頭の中の引き出しに、入った。

数えないことが、もう、いつもの動作だった。

今朝から、今日、頭の中の引き出しに、入った単語を、僕は、ひとつだけ、思い出した。

数えれば、たぶん、何個か、あった。

変化、という単語を、僕は、頭の中で、もう一度、確かめようとした。

確かめようとして、確かめなかった。

確かめないことが、もう、いつもの動作だった。

ただし、確かめなかった、というのが、今日の僕の側で、ふだんの安心、では、なかった。

「お先に」

「お先です」

いつもの「お先に」と、いつもの「お先です」が、部室のドアの内側で、交換された。

交換のあとで、僕は、ドアの内側のアンドロイド七瀬の、固まった位置を、もう一度、見た。

固まった位置は、固まったままだった。

廊下を、いつもの速度で、歩いた。

廊下は、静かだった。

歩きながら、頭の中で、答えそうになった音と、答えに、ならなかった音が、薄く、残っていた。

答える、を、試みた、というのが、今日の僕の、はじめての動作だった。

試みた、というよりは、たぶん、試みかけた、というのに、近かった。

試みかけて、答えに、ならなかった。

答えに、ならなかった、というのが、たぶん、今日の僕の、ふだんに、ふだんではない、答え方だった。

ふだんが、もう、ふだんに、戻らない、というのが、今日、はじめて、ふだんに、確定した動作だった。


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