第十八話 向こうから、答えが、来た日
朝、目を覚ましたとき、右手の格子は、もう一段、進んでいた。
進んでいた、が、消さない単語に、なっていた。
朝の支度は、いつもの順番で、進んだ。
「いってきます」
「いってらっしゃい」
母親の「いってらっしゃい」は、昨日のようには、長くなかった。ふだんの長さに、戻っていた。
戻っていた、というのが、今朝の僕の側で、安心の単語では、なかった。玄関を、出た。秋だった。
信号待ちで、いつもの位置に、立った。
視界の右側に、スーツの女性は、いなかった。
ただし、視線を、駅前の方角に、ずらしてみたとき、別の人物が、立っていた。
革ジャンの男だった。立ち方は、知っている系統だった。
商店街の方の交差点にも、もう一人、立っていた。作業服の男だった。立ち方は、駅前の男と、同じ系統だった。
二人とも、動いていなかった。
僕の側では、彼らは、ふだんではなかった。彼らの側では、たぶん、ふだんだった。
信号が、青になった。歩き出した。二人の方は、見なかった。
横断歩道を、渡り切った。商店街の入口を、通った。肉屋の前を、通り過ぎた。
商店街の方角の空に、鳩が、また、いすぎていた。
数えなかった。
ただし、今朝の鳩は、いすぎる、というだけでは、なかった。
鳩は、何かを、待っている、ような動きを、していた。
待つ、というのが、たぶん、今朝の鳩の、ふだんではない動作だった。
校門を、いつもの時間に、くぐった。
くぐったあとで、僕は、空を、もう一度、見上げなかった。
校舎の入口で、靴を、いつもの位置で、脱いだ。
廊下の電灯が、いつもの色で、ついていた。
いつもの色、というのが、今朝の僕の側で、ほんの一段だけ、別の色に、見えた。
別の色、というのが、たぶん、夜と、朝の、中間の色だった。
一限が、いつもの順番で、始まった。
現代文だった。
教科書は、いつもの位置に、開いていた。黒板の上の、先生の字も、いつもの字だった。
ふだん、という単語を、僕は、頭の中で、何度か、出そうとした。
出そうとして、ふだんの位置に、置けなかった。
「いつも」が、最近、僕の側で、「ふだん」の代わりに、出てくるようになっていた。
「いつも」と「ふだん」の二つが、たぶん、僕の頭の中で、同じ場所を、共有していた。
二限が、始まった。
数学だった。
廊下は、静かだった。
僕は、黒板を、見ていた。ただし、たぶん、ちゃんとは、見て、いなかった。
三限が、始まった。
英語だった。
教室は、いつもの匂いだった。
隣の今村さんは、いつもの位置に、いた。
今日も、自分の指を、見ていなかった。
見ていない、というのが、今日も、続いていた。
四限が、始まった。
社会だった。
先生の声は、いつもの声だった。
ただし、今日の僕の耳の中で、いつもの声は、ほんの一段、薄く、聞こえていた。
そのとき、僕は、ふいに、机に、ほんの一拍、頭を、預けた。
預けた、というよりは、たぶん、預けに、行っていた。
落ちた。
落ちた、というよりは、たぶん、引き込まれた、というのに、近かった。
引き込まれた先で、僕は、ふいに、誰かと、向き合っていた。
向き合っていた場所が、向こう(異世界)でも、こちら(現世)でも、ない場所だった。
内山さんだった。
ふだんの内山さんだった。
ただし、顔の輪郭が、ふだんより、ほんの一段、薄かった。
僕は、口を、開きかけて、開けなかった。
代わりに、内山さんが、口を、開いた。
いつもの温度で、口を、開いた。
「普通の人間は、長く保持できない」
短かった。
ふだんの内山さんの短さだった。
僕は、その音を、頭の中で、ふだんに、置こうとした。
置こうとして、ほんの一拍、止まった。
待っていたあいだに、内山さんは、ほんの一拍だけ、置いた。
それから、付け加えた。
「君は、その『普通の人間』には、たぶん、もう、戻れない」
短かった。
内山さんの短さで、二行目を、付け加えた。
二行で、終わった。
それ以上、内山さんは、何も、言わなかった。
僕も、何も、言わなかった。
向き合っていた場所が、ふだんに、薄くなって、消えた。
目を、開けた。
授業は、いつもの位置で、続いていた。
机の上の教科書は、いつもの位置にあった。
ただし、教科書の右上の余白が、いつものページの位置に、いつもの白さで、あった、というのが、今日に限って、僕の側で、ほんの一段だけ、別の白さに、見えた。
別の白さ、というのが、たぶん、夢の中の、内山さんの顔の輪郭の薄さと、同じ系統の白さだった。
頭の中で、内山さんの声が、まだ、ふだんに、残っていた。
僕は、残っていた声を、頭の中の引き出しに、置こうとした。
置こうとして、置けなかった。
引き出しの内側に、ふだんに、入らない種類の音、というのが、今日、はじめて、僕の頭の中に、できた。
容量、という単語を、頭の中で、出してから、僕は、ほんの一拍、止まった。
四限の終わりのチャイムが、いつものように、鳴った。
教室が、いつものように、ざわついた。
ざわつきが、今日に限って、たぶん、僕の耳に、ふだんに、入ってこなかった。
放課後、部室のドアを、開けた。
ドアの内側に、アンドロイド七瀬が、立っていた。
半歩ずれた位置に、立っていた。
ずれの深さは、昨日と、同じだった。
ただし、彼女の身体の動きが、昨日より、もう一段、止まっていた。
止まっていた、というよりは、たぶん、固まっていた、というのが、もう一段、進んでいた、というのに、近かった。
「おかえりなさい」
「……ただいま」
いつもの「おかえりなさい」と、いつもの「ただいま」が、部室の入口で、交換された。
交換のあとで、彼女は、ふだんの位置に、固まったまま、いた。
副部長と、ルウアと、今村さんが、いつもの席に、座っていた。
副部長が、いつもの位置で、お茶を、淹れていた。四つ、淹れていた。
ルウアは、自分のノートを、開いていた。鉛筆を、握っていた。
握り方は、昨日と、同じくらい、長かった。
今村さんは、いつもの位置で、自分のカップを、両手で、包んでいた。
今日も、自分の指を、見ていなかった。
五人とも、いつもの位置に、いた。
いつもの位置、というのが、今日に限って、たぶん、五人の側で、ふだんと、わずかに、違って、いた。
違っていた、というのが、今日の部室の、ふだんではない、ふだんだった。
副部長が、僕の方を、見た。
「あんた」
「うん」
「眠ってた?」
「……」
「四限に」
「……うん」
「夢、見た?」
「……」
副部長は、それから、口を、閉じた。
僕は、答えなかった。
そのとき、部室の窓の外で、何かが、ふだんではない、音を、立てた。
僕は、立ち上がって、窓の方を、見た。
副部長も、ルウアも、今村さんも、同じ動作だった。
アンドロイド七瀬は、ドアの内側で、動かなかった。
商店街の方角で、何かが、連続して、動いていた。
動いていた、というよりは、たぶん、暴走していた、というのに、近かった。
暴走、という単語を、頭の中で、出してから、僕は、それを、もう少し、ふだんの単語で、置き直そうとした。
置き直せなかった。
コンロボだった。
商店街の道路の、いつもの位置で、いつもなら、いつもの速度で、ふだんに、移動している、あの清掃ロボット。
今日は、三台が、同時に、ふだんではない、いかたで、動いていた。
三台のうち、一台が、駅前の方角に、走ろうとしていた。
もう一台が、商店街の奥の方角に、走ろうとしていた。
最後の一台が、その二台の間で、たぶん、どちらに、向かおうか、迷っていた。
迷っていた、というよりは、たぶん、決められなかった、というのに、近かった。
三台が、互いに、衝突した。
衝突したあとで、もう一台、別の方角から、新しいコンロボが、ふだんではない、いかたで、走ってきた。
合計、四台が、商店街の交差点で、ふだんではない、いかたで、動いていた。
それぞれが、別の方向に、行こうとして、互いに、ふだんに、衝突していた。
「ふだんに、衝突」、というのが、たぶん、今日のコンロボたちの、ふだんではない、ふだんだった。
街の方角を見ていたとき、僕の右手の格子が、ふいに、震えた。
ただし、昨日と、決定的に、違うことが、一つ、あった。
今日の震えは、ほんの一拍、右手の格子の、薄いところで、震えた。
震えのすぐあとに、もう一拍、別の場所で、震えた。
別の場所、というのが、たぶん、ふだんの僕の右手の、外側にあった。
二本、と僕が、頭の中で、はじめて、数えた。
第一巻の終わりから、今日まで、僕は、数えない、を、ふだんの動作にして、いた。
その動作が、今日、震えに対して、ふだんに、外れた。
震え方は、ほんの一段だけ、別の系統だった。
一本は、第十六話・第十七話の昼下がりと、同じ系統の震え方だった。
もう一方は、第十五話の昼下がりに、アンドロイド七瀬が、ふだんではない、いかたで、口を開いた、あの瞬間に、ほんの一拍、震えた気がした、あの系統の震え方だった。
同時に、震えた。
そのとき、ルウアが、ふだんではない、いかたで、立った。
立った、というよりは、たぶん、なった、というのに、近かった。
なった、というのは、昨日のEp17と、同じ系統だった。
ただし、今日は、なった、で、終わらなかった。
ルウアの右手の、人差し指の、関節が、ほんの一瞬、ふだんではない角度に、なった。
僕は、それを、観察したが、確かめなかった。
確かめないあいだに、ルウアの右手の、手首の関節が、ほんの一瞬、ふだんではない方向に、回った。
回った、ということを、僕は、観察した。
観察したが、確かめなかった。
確かめないあいだに、ルウアの肩の位置が、ほんの一段、ふだんではない角度に、なった。
なった、ということを、僕は、観察した。
観察したが、確かめなかった。
確かめないあいだに、ルウアの全身が、ほんの数秒、ふだんではない*姿勢*に、なった。
ふだんではない、姿勢、というのが、たぶん、今日のルウアの、ふだんではない、ふだんだった。
僕は、それを、観察した。
観察したが、確かめなかった。
確かめないあいだに、ルウアは、ふだんの姿勢に、戻った。
四回、観察した。
四回、確かめなかった。
副部長も、同じだった。
副部長は、ルウアの方を、見ていた。
見ていたが、何も、言わなかった。
ルウア自身は、たぶん、それらの動作の連続に、気付いていなかった。
気付いていない、というのが、たぶん、いちばん、ふだんではない、ことだった。
アンドロイド七瀬は、ドアの内側で、半歩ずれた位置で、完全に、動かなかった。
動かない、というのが、昨日より、もう一段、深かった。
瞬きすら、しなかった。
副部長が、ふと、ドアの内側の方を、見た。
「七瀬」
「はい」
「お茶、冷めるよ」
「承知しました」
「ありがとう」
十度のお辞儀が、いつものように、続いた。
ただし、お辞儀のあとで、彼女は、また、完全に、動かなくなった。
ただし、声がかかると、ふだんに、動いた。
声がかかると動く、声がかからないと動かない、というのが、たぶん、今日の彼女の、ふだんではない、ふだんだった。
彼女は、呼ばれて、はじめて、動く存在に、ふだんに、なりつつ、あった。
なりつつ、ある、というのが、たぶん、流動の終わりの、終わりの形だった。
コンロボの暴走は、ふいに、止まった。
止まった、というよりは、たぶん、ふだんに、戻った。
ただし、戻った、というのが、たぶん、ふだんに、戻った、では、なかった。
四台のコンロボは、それぞれ、いつもの方向に、いつもの速度で、いつもの位置に、戻っていった。
戻っていく動作だけは、ふだんだった。
副部長が、お茶のカップを、口元に、運んだ。
いつもの動作で、運んだ。
「これ」
「うん」
「続くやつね」
「うん」
「続くやつは、続くのよ」
「うん」
「続くやつを、続けるしか、ないのよ」
「うん」
「いつかは、ふだん、って、昨日、言ったけど」
「うん」
「いつかが、いつか、来るまでは、続くやつを、続ける」
「うん」
副部長の、「続く」が、たぶん、今日の副部長の、いちばん、ふだんに使えた単語だった。
副部長は、それから、もう一度、お茶のカップを、運んだ。
ふだんの動作だった。
「いつかは、ふだん」と、「続くやつは、続く」、の二つが、たぶん、副部長の、今日の、答え方だった。
副部長の答え方を、僕は、頭の中の引き出しに、置こうとした。
置けた。
副部長の答え方の引き出しだけは、まだ、僕の側で、ふだんの容量の、内側に、あった。
僕は、自分のカップを、両手で、包んだ。
包んでから、頭の中で、整理を、始めた。
今日、頭の中の引き出しに、入った素材を、ふだんに、並べてみた。
一つ目。スーツの女性が、いなかった。代わりに、別の場所に、別の系統の人物が、立っていた。
二つ目。鳩が、空に、待つ、ような動きで、いすぎていた。
三つ目。眠りの中で、内山さんが、ふだんに、二行、話した。「普通の人間は、長く保持できない」と、「君は、その『普通の人間』には、たぶん、もう、戻れない」と。
四つ目。線が、同時に、震えた。
五つ目。ルウアが、ふだんではない、四つの動作を、連続して、した。
六つ目。アンドロイド七瀬が、声がかからないと、完全に、動かなかった。
六つ、あった。
六つの、ふだんではない、ふだんが、今日、同時に、来た。
同時、というのが、たぶん、今日の僕の、ふだんに、答えになる、もう一つの点だった。
答えは、二点を、必要とする動作だった。
僕の側の点は、たぶん、昨日、置いた。
向こう側の点が、今日、僕の側に、来た。
ただし、来た点を、僕は、頭の中の引き出しに、置こうとして、置けなかった。
置けない、というのが、たぶん、今日の引き出しの、ふだんの容量の、外側だった。
六つの素材の、頭の中での並べ方を、僕は、もう一度、確かめなかった。
確かめないのは、確かめると、たぶん、六つが、もっと、別の場所に、移ろうとする、気がしたからだった。
僕は、それぞれを、頭の中の、別々の引き出しに、入れた、ということだけ、確認した。
「お先に」
「お先です」
いつもの「お先に」と、いつもの「お先です」が、部室のドアの内側で、交換された。
交換のあとで、僕は、ドアの内側のアンドロイド七瀬の、固まった位置を、もう一度、見た。
固まった位置は、固まったままだった。
廊下を、いつもの速度で、歩いた。
廊下は、静かだった。
歩きながら、頭の中で、内山さんの声が、まだ、ふだんに、残っていた。
向こうから、答えが、来た、というのが、今日、僕が、はじめて、聞いた音だった。
聞いた、というよりは、たぶん、夢の中で、ふだんに、聞かれていた、というのに、近かった。
保持できない、というのが、たぶん、今日、向こう側の、もう一つの、点だった。
二つの点の、片方は、僕の側に、もう片方は、向こう側に、あった。
二つを、繋ぐ動作は、たぶん、明日以降の、僕の動作だった。




