第十九話 もう一人が、立っていた日
朝、目を覚ましたとき、右手の格子は、ふだんに、進んでいた。
進んでいる、というのが、もう、ふだんの動作だった。
頭の中で、昨日の四限の、内山さんの声が、まだ、薄く、残っていた。
朝の支度は、いつもの順番で、進んだ。
「いってきます」
「いってらっしゃい」
母親の「いってらっしゃい」は、ふだんの長さに、戻っていた。ふだんの長さ、というのが、今朝の僕の側でも、安心では、なかった。
玄関を、出た。秋だった。
信号待ちで、いつもの位置に、立った。
視界の右側に、スーツの女性は、昨日と同じく、いなかった。「いない」が、彼女のふだんに、なっていた。
駅前の方角に、革ジャンの男が、昨日と、同じ場所に、同じ立ち方で、立っていた。商店街の方の交差点にも、作業服の男が、昨日と、同じ場所に、同じ立ち方で、立っていた。
二人とも、動いていなかった。昨日より、もう一段、動かなくなっていた。
信号が、青になった。歩き出した。二人の方は、見なかった。
横断歩道を、渡り切った。商店街の入口を、通った。肉屋の前を、通り過ぎた。
商店街の方角の空に、鳩は、いなかった。
数えなかった。
数えない、というのが、ふだんの動作に、戻っていた。
ただし、今朝の鳩の不在は、ふだんの不在では、なかった。
昨日の鳩は、いすぎていて、何かを、待つ、ような動きを、していた。
今朝の鳩は、待つ動作すら、ない。
待つ動作が、ない、というのが、たぶん、今朝の鳩の、ふだんではない、いかただった。
ふだんではない、いかた、というのが、今朝、はじめて、鳩の不在の中に、入った別の単語だった。
校門を、いつもの時間に、くぐった。
くぐったあとで、空は、もう、見上げなかった。
校舎の入口で、靴を、いつもの位置で、脱いだ。
廊下は、静かだった。
廊下の電灯の色は、ふだんの色に、戻っていた。
ただし、戻っていた、というのが、たぶん、ふだんの色に、戻っていた、では、なかった。
ほんの一段だけ、戻り直していた。
一限が、いつもの順番で、始まった。
現代文だった。
教科書は、いつもの位置に、開いていた。黒板の上の、先生の字も、いつもの字だった。
「ふだん」と「いつも」の二つが、今朝も、僕の頭の中で、同じ場所を、共有していた。
共有のしかたは、ほんの一段だけ、いつもに、寄っていた。
いつもに、寄っていた、というのが、たぶん、今日の僕の、ふだんの動作だった。
「ふだん」の単語が、今日、頭の中の、ほんの一段、奥の方に、後退していた。
二限が、始まった。
数学だった。
教室は、静かだった。
僕は、黒板を、見ていた。たぶん、ちゃんと、見ていた。
昨日の四限と、違っていた。
机に、頭は、預けなかった。
預ける、という動作が、頭の中で、ほんの一拍、出かけて、出なかった。
三限が、始まった。
英語だった。
教室は、いつもの匂いだった。
隣の今村さんは、いつもの位置に、いた。
今日も、自分の指は、見ていなかった。
見ていない、というのが、もう、今村さんの、いつもの動作に、なっていた。
そのあいだに、僕は、机に、頭を、預けようとしなかった。
預けようとしなかった、というよりは、たぶん、預けに行きそうになって、預けに行かなかった、というのに、近かった。
預けに行きそうになる、というところまでは、昨日と、同じだった。
預けに行かない、というところで、今日と、昨日は、違っていた。
違いの、ほんの一段、深いところに、内山さんの声が、まだ、残っていた。
僕の右手の格子は、震えなかった。
昨日の震え方は、今日、起きなかった。
昨日、はじめて、頭の中で、数えた「二本」も、今日は、数えなかった。
四限が、始まった。
社会だった。
先生の声は、いつもの声だった。
僕の耳の中で、いつもの位置に、ふだんに、入ってきた。
昨日、ほんの一段、薄く、聞こえていた声が、今日は、ふだんの厚さに、戻っていた。
四限の終わりのチャイムが、いつものように、鳴った。
教室が、いつものように、ざわついた。
ざわつきが、今日、僕の耳に、ふだんに、入ってきた。
昨日の四限の終わりとは、違っていた。
放課後、部室のドアを、開けた。
ドアの内側に、アンドロイド七瀬が、立っていた。
半歩ずれた位置に、立っていた。
固まっていた。
固まりの深さは、昨日より、もう一段、深かった。
ただし、深さ自体が、もう、いつもの深さに、近づいていた。
「おかえりなさい」
「……ただいま」
いつもの「おかえりなさい」と、いつもの「ただいま」が、部室の入口で、交換された。
交換のあとで、彼女は、また、ふだんの位置に、固まったまま、いた。
声がかかると、ふだんに、動いた。
声がかからないと、ふだんに、動かなかった。
副部長と、ルウアと、今村さんが、いつもの席に、座っていた。
副部長が、いつもの位置で、お茶を、淹れていた。四つ、淹れていた。
ルウアは、自分のノートを、開いていた。鉛筆も、握っていた。
握り方は、昨日と、同じくらい、長かった。
ただし、ノートには、何も、書かれていなかった。
今村さんは、いつもの位置で、自分のカップを、両手で、包んでいた。
今日も、自分の指は、見ていなかった。
五人とも、いつもの位置に、いた。
ふだんの部室だった。
ふだんの部室、というのが、今日に限って、ほんの一段だけ、ふだんと、違っていた。
違いは、ほんの一段だけだった。
「あんた」
「うん」
「眠らなかった?」
「……うん」
「夢、見なかった?」
「……」
副部長は、それから、口を、閉じた。
僕は、答えなかった。
副部長は、それ以上、訊かなかった。
僕は、自分の席に、座った。
座ってから、自分のカップを、両手で、包んだ。
包んでから、ふと、視線を、窓の外に、向けた。
向けたつもりでは、なかった。
向けてしまった、というよりは、たぶん、向こうから、ほんの一拍、引かれた、というのに、近かった。
引かれて、向けてしまった、というのが、たぶん、今日の僕の、はじめての動作だった。
窓の外、商店街の方角の、いつもの場所より、ほんの一段、深いところに、別の人物が、立っていた。
スーツの女性でも、革ジャンの男でも、作業服の男でも、なかった。
立ち方は、知っている系統では、なかった。
知っている系統ではない、というのが、たぶん、今日、はじめて、僕の側で、観察した、別の人物の動作だった。
ふだんの動作ではない動作、というのが、たぶん、その人物の、ふだんだった。
距離は、遠かった。
ただし、輪郭が、ふだんよりも、ほんの一段、薄かった。
薄さが、距離と、合っていなかった。
合っていない、というのが、今日、はじめて、僕の側で、観察した、別の薄さだった。
昨日、教科書の余白の白さで繋いだ動作が、今日、もう一段、深いところで、繋がっていた。
ただし、内山さんでは、なかった。
内山さんと、たぶん、似た系統の場所から、来ている、誰かだった。
その「場所」、というのが、たぶん、向こう側だった。
性別は、たぶん、確かめなかった。
服装の系統も、たぶん、確かめなかった。
「もう一人」、というのが、頭の中で、たぶん、今日、はじめて、出てきた単語だった。
「もう一人」が、ふだんの単語、では、なかった。
ただし、ふだんではない単語が、ふだんに、頭の中の引き出しに、入った。
僕は、その人物を、もう一度、見た。
見たあとで、頭の中で、昨日までに置いた三つの引き出しが、ふいに、薄く、動いた。
動いた、というよりは、たぶん、向こう側から、ほんの一拍、引かれた、というのに、近かった。
ただし、引かれたあとで、引き出しは、また、ふだんの位置に、戻った。
副部長は、今日は、ルウアの方を、見ていた。
見ていたが、ルウアのノートには、何も、書かれていなかった。
書かれていない、というのが、副部長の視線の角度では、ふだんに、見えていた。
副部長は、窓の外を、見なかった。
副部長の視線の角度では、たぶん、「もう一人」は、見えなかった。
僕は、副部長に、何も、伝えなかった。
もう一度、窓の外を、見た。
見たとき、「もう一人」は、いなくなっていた。
いなくなった、というよりは、たぶん、いなかった、というのに、近かった。
いる、と、いない、の、中間に、その人物は、たぶん、いた。
中間、というのが、昨日の四限の、夜と、朝の、中間の色と、同じ系統の中間だった。
副部長が、お茶のカップを、口元に、運んだ。
いつもの動作だった。
「あんた」
「うん」
「窓、見てた?」
「……うん」
「何、いた?」
「……」
「いなかった、って、こと?」
「……うん」
「いなかった、ってのは、ふだんよ」
「……うん」
「ふだん、というのが、まだ、あんたの側で、使えるなら、ふだんよ」
「……うん」
副部長は、それから、もう一度、お茶のカップを、運んだ。
ふだんの動作だった。
「使えるなら、ふだんよ」、というのが、たぶん、今日の副部長の、いちばん、ふだんに使えた単語だった。
副部長の「ふだん」が、今日、条件付きの単語に、なっていた。
副部長の単語を、僕は、頭の中の引き出しに、置こうとした。
置けた。
副部長の引き出しだけは、まだ、僕の側で、ふだんの容量の、内側に、あった。
僕は、あの「もう一人」を、頭の中の、別の引き出しに、入れた。
入れた、というよりは、たぶん、いたかどうかも、ふだんに、確認しないことに、することにした、というのに、近かった。
確認しないことに、することにした、というのが、たぶん、今日の僕の、いつもの動作だった。
ルウアは、ノートを、閉じなかった。
「お先に」
「お先です」
いつもの「お先に」と、いつもの「お先です」が、部室のドアの内側で、交換された。
交換のあとで、僕は、ドアの内側のアンドロイド七瀬の、固まった位置を、もう一度、見た。
固まった位置は、固まったままだった。
声は、かからなかった。
声がかからない、というのが、たぶん、今日の彼女の、ふだんの位置だった。
廊下を、いつもの速度で、歩いた。
廊下は、静かだった。
歩きながら、頭の中で、副部長の「使えるなら、ふだんよ」が、まだ、ふだんに、残っていた。
もう一人が、立っていた、というのが、今日、僕が、はじめて、観察した動作だった。
観察したが、たぶん、確かめなかった。
確かめないことが、今日も、僕の、いつもの答え方だった。
ただし、確かめなかったあとで、その「もう一人」は、たぶん、まだ、僕の頭の中の、別の引き出しに、ふだんに、残っていた。
残っている、というのが、たぶん、明日以降の、僕の動作の、もう一つの、点になる気がした。




