第二十話 動き始めた日
朝、目を覚ましたとき、右手の格子は、もう一段、進んでいた。ここ数日のふだんの、進んでいた、の継続だった。
頭の中で、内山さんの声は、もう、残っていなかった。残っていない、というのが、今朝、はじめて、ふだんに、なっていた。
朝の支度は、いつもの順番で、進んだ。
「いってきます」
「いってらっしゃい」
母親の「いってらっしゃい」は、ふだんの長さに、戻っていた。戻り方は、昨日より、もう一段だけ、ふだんに、近づいていた。
母親の声の、ほんの一段、奥の方に、まだ、薄く、別の音色が、残っていた。ただし、別の音色は、台所の方向に、ふだんに、置かれていた。
玄関を、出た。秋だった。朝の光は、ふだんの色だった。
通学路の前半は、いつもの通学路だった。ただし、今朝に限って、ふだんの通学路に、戻りつつあった。
「ふだん」、というのが、今朝、ほんの一段、頭の中の、いつもの位置に、戻ってきていた。
ここ数日、「ふだん」と「いつも」が、頭の中で、別の場所に、分かれていた。今朝は、二つが、また、近づきつつ、あった。
信号待ちで、いつもの位置に、立った。視界の右側に、スーツの女性は、今朝も、いなかった。
駅前の方角に、革ジャンの男は、昨日と、違う場所に、いた。
昨日まで、彼は、いつもの位置に、立っていた。今朝は、いつもの位置から、ほんの一歩、別の方向に、踏み出していた。
踏み出した方向は、駅前の方角ではなかった。商店街の方角でも、なかった。二つの方角の、ほんの一段、ずれた角度に、彼の体は、向いていた。
ただし、踏み出したあとで、彼は、また、動かなくなった。ほんの一歩、ずれた位置で、彼は、ふだんに、固まっていた。
商店街の方の交差点では、作業服の男は、昨日と、同じ場所に、同じ立ち方で、立っていた。動いていなかった。
二人の側で、今朝、動詞の使い方が、別々に、なっていた。
信号が、青になった。歩き出した。二人の方は、見なかった。
横断歩道を、渡り切った。商店街の入口を、通った。肉屋の前を、通り過ぎた。
肉屋の前は、いつもの匂いがした。
匂いは、ふだんの匂いだった。
その向こうの、八百屋の前も、ふだんに、似た匂いがした。
商店街の店先は、いつもの店先だった。
シャッターは、ふだんの時間に、ふだんの順番で、開いていた。
商店街の方角の空に、鳩は、今朝、また、いた。
鳩の数は、ふだんの数より、ほんの一段だけ、多かった。
ただし、数日前の鳩のように、いすぎる、では、なかった。
数えなかった。
数えない、というのが、ふだんの動作に、戻っていた。
ただし、鳩の動きの中に、何かを、待つ、ような動きが、また、薄く、混じっていた。
混じっていた、というのが、たぶん、今朝の鳩の、ふだんに、戻ってきた予兆だった。
待つ動作、というのが、ほんの一段だけ、ふだんに、近づいていた。
校門を、いつもの時間に、くぐった。
くぐる直前、頭の上の空は、秋の色だった。
雲は、薄く、流れていた。
その下で、鳩の方向の音は、まだ、ほんの一拍、続いていた。
続いていた、ということが、今朝、はじめて、僕の耳に、置かれた音だった。
くぐったあとで、空は、もう、見上げなかった。
校舎の入口で、靴を、いつもの位置で、脱いだ。
廊下は、静かだった。
廊下の電灯の色は、ふだんの色に、戻っていた。
ふだんの色、というのが、ここ数日、ほんの一段、ずれていた。
今朝は、ずれが、もう一段、ふだんに、戻っていた。
一限が、いつもの順番で、始まった。
現代文だった。
教科書は、いつもの位置に、開いていた。黒板の上の、先生の字も、いつもの字だった。
「ふだん」、というのが、今朝、頭の中の、いつもの場所に、戻ってきていた。
ここ数日、「ふだん」と「いつも」は、頭の中で、別の場所に、分かれていた。
分かれていた二つが、今朝、ほんの一段、近づきつつ、あった。
二限が、始まった。
数学だった。
教室は、静かだった。
僕は、黒板を、見ていた。たぶん、ちゃんと、見ていた。
机に、頭は、預けなかった。
預ける、という動作が、頭の中で、ほんの一拍、出かけて、出なかった。
三限が、始まった。
英語だった。
教室は、いつもの匂いだった。
隣の今村さんは、いつもの位置に、いた。
今日も、自分の指は、見ていなかった。
見ていない、というのが、もう、今村さんの、いつもの動作に、なっていた。
四限の前に、昼休みが、来た。
教室は、いつものざわつきに、戻った。
僕は、自分の席で、ふだんの位置に、座っていた。
その瞬間、隣の席で、今村さんが、ふいに、自分の指を、見た。
今村さんの指は、いつもの指だった。
爪の長さも、ふだんの長さだった。
ふだんの長さ、というよりは、たぶん、ほんの一段だけ、伸びていた、というのに、近かった。
見た、というのが、たぶん、今日の今村さんの、ふだんではない動作だった。
ここ数日、見ていない、が、今村さんの、いつもの動作だった。
その「見ていない」が、今、外れていた。
ただし、見たあとで、指の上に、格子は、乗っていなかった。
ふだんではないもの、というのが、ここ数日の、今村さんの「見ていない」とも、違っていた。
違っていた、というのが、今村さんの身体の、別の場所で、別の動作が、起きている、ような気がした。
今村さんは、自分の指を、ほんの一拍、見たあとで、すぐに、視線を、外した。
ただし、戻ろうとしても、戻り直しても、指の上には、格子が、乗らなかった。
その瞬間、僕の頭の中で、ふいに、別の単語が、出た。
「保持してしまう」、という単語だった。
出た、というよりは、たぶん、入ってきた、というのに、近かった。
入ってきた単語は、僕が、ふだんに、使う単語ではなかった。
ふだんに、使わない単語が、ふだんに、頭の中に、入ってきた。
入ってきた単語の、ほんの一段、深いところに、もう一つ、薄く、響く単語が、あった。
「保持できない」、という単語だった。
二つの単語は、頭の中で、ほんの一拍、向き合った。
入ってきたあとで、僕は、それを、頭の中の引き出しに、ふだんに、置こうとした。
置けた。
「保持できない」、というのは、昨日まで、向こう側の点だった。
「保持してしまう」、というのが、たぶん、今日、こちら側の点だった。
二つの単語は、たぶん、同じ動作の、別の側の名前だった。
「保持できない」、というのが、向こう側で、誰かが、僕の状態を、呼ぶ名前だった。
「保持してしまう」、というのが、こちら側で、僕自身が、僕の状態を、呼ぶ名前だった。
二つの名前が、今日、はじめて、頭の中で、繋がった。
繋がった瞬間、頭の中の引き出しの、ほんの一段、奥の方で、別の音が、薄く、響いた。
音は、聞き取れる音、では、なかった。
ただし、二つの単語が、繋がった、ということ自体は、頭の中で、ふだんに、確かめられた。
ただし、繋がったあとで、僕は、それを、頭の中の引き出しに、ふだんに、置き直した。
昼休みの終わりまで、今村さんは、自分の指を、もう一度、見なかった。
ただし、ふだんに、戻った、というのが、ふだんに、戻った、では、なかった。
ほんの一段、ずれた位置に、戻り直していた。
四限が、始まった。
社会だった。
先生の声は、いつもの声だった。
僕の耳の中で、いつもの位置に、ふだんに、入ってきた。
ただし、頭の中の、別の場所で、「保持してしまう」が、まだ、ふだんに、残っていた。
四限の終わりのチャイムが、いつものように、鳴った。
ざわつきの中で、僕は、自分の鞄を、いつもの順番で、片付けた。
片付けながら、頭の中の「保持してしまう」を、ふだんに、置いたままに、しておいた。
置いたままに、する、というのが、今日の引き出しの、ふだんの動作だった。
放課後の廊下を、いつもの方向に、歩いた。
廊下の窓ガラスの外で、午後の光が、ほんの一段、低い角度に、入っていた。
低い角度の光は、廊下の床に、薄く、線を、引いていた。
その線は、僕の足元で、ほんの一拍だけ、揺れた。
揺れた、というよりは、たぶん、僕の歩幅の中で、ほんの一拍だけ、ずれた、というのに、近かった。
放課後、部室のドアを、開けた。
ドアの内側に、アンドロイド七瀬が、立っていた。
半歩ずれた位置に、立っていた。
固まっていた。
「おかえりなさい」
「……ただいま」
いつもの「おかえりなさい」と、いつもの「ただいま」が、部室の入口で、交換された。
ただし、交換のあとで、彼女は、いつもの位置に、戻らなかった。
半歩ずれた位置から、ほんの一歩、ふだんではない方向に、踏み出した。
踏み出した、というのが、今朝の革ジャンの男と、同じ動詞だった。
踏み出したあとで、彼女は、また、ふだんに、固まった。
ただし、ほんの一段、ずれた位置で、固まっていた。
革ジャンの男と、アンドロイド七瀬が、今日、別々の場所で、同じ動詞を、使った。
副部長と、ルウアと、今村さんが、いつもの席に、座っていた。
副部長が、いつもの位置で、お茶を、淹れていた。四つ、淹れていた。
ルウアは、自分のノートを、開いていた。鉛筆も、握っていた。
握り方は、ここ数日と、同じくらい、長かった。
ただし、ノートには、今日も、何も、書かれていなかった。
今村さんは、いつもの位置で、自分のカップを、両手で、包んでいた。
今日は、もう、自分の指は、見ていなかった。
見ていない、というのが、もう、今村さんの、ふだんの位置に、戻っていた。
ただし、戻り方が、ほんの一段、ずれていた。
僕は、自分の席に、座った。
座ってから、自分のカップを、両手で、包んだ。
包んでから、ふと、視線を、窓の外に、向けた。
向けたつもりでは、なかった。
向けてしまった、というよりは、たぶん、向こうから、ほんの一拍、引かれた、というのに、近かった。
窓の外、商店街の方角の、昨日と同じ場所に、「もう一人」が、また、立っていた。
ただし、距離が、昨日より、ほんの一段、近かった。
立っていた、というよりは、たぶん、こちらに、向かって、立っていた、というのに、近かった。
向かっていた、というのが、たぶん、昨日と、決定的に違うことだった。
向きは、ふだんの向きではなかった。
体の正面が、こちらに、向いている、というのが、昨日まで、なかった動作だった。
ただし、距離は、まだ、十分に、遠かった。
性別は、まだ、確かめられなかった。
服装の系統も、まだ、確かめられなかった。
輪郭は、昨日より、ほんの一段だけ、はっきりしていた。
距離が、近づいたから、はっきりした、ではなかった。
向こう側で、ふだんの輪郭の濃さが、ほんの一段、戻ってきていた。
その瞬間、右手の格子の薄いところが、ふいに、震えた。
震え方は、ここ数日の、どちらとも、違う系統だった。
数日前の、一本だけの震えとも、違っていた。
数日前の、二本同時の震えとも、違っていた。
別の系統の、薄い、単独の震えだった。
震えの重みは、数日前より、ほんの一段だけ、軽かった。
震えの中の、ふだんの音色が、ほんの一段、薄くなっていた。
ただし、震えの中に、また、声が、薄く、混じっていた。
ただし、内山さんの声では、なかった。
内山さんの声では、ない、声、というのが、たぶん、今日、はじめて、僕の側で、観察した、別の声だった。
声の内容は、聞き取れなかった。
内山さんの声では、ない、声を、僕の頭の中の引き出しに、置こうとして、置けなかった。
置けなかった、というのが、たぶん、今日も、容量の外側だった。
容量の外側、というのが、もう、ふだんの位置に、なっていた。
「もう一人」を、もう一度、見た。
見たあとで、頭の中で、ふいに、何かを、戻そうとする動作が、起きた。
戻そうとした、という動作が、ずいぶん前から、ふだんの動作で、止まっていた。
止まっていた動作が、今日、ふいに、再起動した。
ただし、戻そうとして、戻せなかった。
同じ系統、というのが、今日、ふいに、戻ってきていた。
戻せなかった動作の、ほんの一段、奥の方で、戻そうとした動作は、まだ、続いていた。
戻せなかったが、戻そうとする動作だけは、まだ、僕の頭の中に、ふだんに、残っていた。
副部長が、お茶のカップを、口元に、運んだ。
いつもの動作だった。
「あんた」
「うん」
「動いた?」
「……」
「窓の外」
「……うん」
「動いてた、ってこと?」
「……うん」
「私には、見えなかったけど」
「……うん」
「あんたには、見えたんでしょ」
「……うん」
「見えたなら、ふだんよ」
副部長は、それから、もう一度、お茶のカップを、運んだ。
ふだんの動作だった。
「見えたなら、ふだんよ」、というのが、たぶん、今日の副部長の、いちばん、ふだんに使えた単語だった。
副部長の「ふだん」が、今日、もう一段、条件付きの単語に、なっていた。
条件、というのが、たぶん、今日、はじめて、「見える」と「見えない」の、別々の側に、ふだんに、置かれた。
副部長は、それから、もう一口、お茶を、飲んだ。
飲み方は、いつもの飲み方だった。
ただし、いつもの飲み方、というのが、今日に限って、ほんの一段だけ、ふだんに、近かった。
副部長が、見えなくても、ふだんだった。
僕に、見えても、ふだんだった。
副部長の単語を、僕は、頭の中の引き出しに、置こうとした。
置けた。
副部長の引き出しだけは、まだ、僕の側で、ふだんの容量の、内側に、あった。
僕は、あの「もう一人」を、頭の中の、別の引き出しに、入れた。
入れた、というよりは、たぶん、まだ、確かめないことに、することにした、というのに、近かった。
確かめないことに、することにした、というのが、たぶん、今日も、僕の、いつもの動作だった。
ただし、確かめないでいても、距離は、たぶん、明日、もう一段、近づくような気がした。
「お先に」
「お先です」
いつもの「お先に」と、いつもの「お先です」が、部室のドアの内側で、交換された。
交換のあとで、僕は、ドアの内側のアンドロイド七瀬の、固まった位置を、もう一度、見た。
七瀬の視線は、ドアの方向では、なかった。
廊下の方向でも、なかった。
二つの方向の、ほんの一段、ずれた角度に、彼女の視線は、置かれていた。
固まった位置は、ほんの一段、ずれたままだった。
廊下を、いつもの速度で、歩いた。
廊下は、静かだった。
歩きながら、頭の中で、副部長の「見えたなら、ふだんよ」が、まだ、ふだんに、残っていた。
その単語の、ほんの一段、奥の方で、「保持してしまう」も、まだ、ふだんに、残っていた。
二つの単語が、頭の中で、別々の引き出しに、ふだんに、置かれていた。
別々の引き出し、というのが、今日の頭の中の、ふだんの構造だった。
残っていた、というのが、たぶん、今日の僕の、いつもの動作だった。
校舎の出口の手前で、足を、ほんの一拍、止めた。
止めた瞬間、もう一度、向こうの方向に、視線を、置きに、行きたかった。
ただし、行かなかった。
行かなかった、ということが、今日も、僕の側で、できた動作だった。
動き始めた、というのが、今日、僕が、はじめて、観察した、もう一つの動作だった。
動き始めた、というよりは、たぶん、動き出した、というのに、近かった。
動き出した、というのが、革ジャンの男にも、アンドロイド七瀬にも、たぶん、同じ動詞で、使えた。
「保持してしまう」、というのが、こちら側で、僕自身が、僕の状態を、呼ぶ名前だった。
「保持できない」、というのが、向こう側で、誰かが、僕の状態を、呼ぶ名前だった。
二つの名前が、今日、はじめて、頭の中で、繋がった。
同じ動詞も、二つの名前も、たぶん、明日以降の、世界の、ふだんではない、ふだんだった。
明日が、たぶん、明日以降の、僕の動作の、はじまりだった。




