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認識は善悪の固定 ⑥

 帰り道。ふと、亜久良が「昔、善と悪は分たれていなかった」と語り始めた。


「悪者の異類でも、時に善良な行いをする。善良な異類でも、時に人間に災厄をもたらす。……そういう時代があった」


 夜の底を過ぎ、星々の輝きが薄れていく。朝が刻一刻と迫っている。


「恐怖はただ恐怖として存在せず、人間は人智を超えた存在に恐れと憧れを同時に抱いていた。『畏敬』とか『畏怖』とか、その辺のやつだ」


 横目に花帆を一瞥し、「『未知』が崇高な存在と思われてた時代の話だ」と続ける。その黄金色の瞳に、花帆は満月の夜を思う。


 花帆は彼の言葉を意味上で理解できても、感覚的には理解できない。恐怖は恐怖に過ぎず、それは忌み嫌うものであって敬うものではないというのが今の時代の常識だ。


 人類は科学を——世界を解き明かすための道具を得た。『未知』は理解もコントロールもできない脅威。故にロアは恐ろしい。


「あんたは、その『畏敬』でできてる?」


 尋ねると、亜久良は「ああ」と言って向こうの夜空を望む。


「異類は情報の集合体。この世のあらゆる存在は時間と共に朽ち、拡散し、消滅するようにできている。ロアは新たな『思考』による情報でそれを埋めるが、俺のような存在を補う『畏敬』はもう存在しない」

「……あんたはいつか消えちゃうってこと?」

「同類たちはほとんど消えた。だから俺もそうだろう」


 なぜ、今、唐突にこの話を始めたのか。花帆は何だか居心地が悪くなり、


「お母さんを殺したロアを殺すまでは、消えないでよ」


 咄嗟に()()()()()()()みた。亜久良が「ハハッ」と軽い笑みを溢す。


「それでいい」


 彼が口の中で呟いた言葉を花帆はよく聞き取れず、「何?」と尋ねる。黄金色の瞳が、僅かに白み始めた空の彼方を望む。


「そんな今日明日の話じゃない。他の異類に倒されるとなれば話は別だが、俺は腕っぷしが()()()()()()()()()()()からな。自然消滅するとなると何十年も先の話だ」

「なぁんだ」

「だが、年老いたお前の介護をするつもりはない」

「……なんの話?」

「俺がお前といるのは、手首の印がある間だけだ。復讐を果たしたお前は、もう夜道を歩かない。お前の世界は太陽の下で、異類は夜の存在だ」


 言い含めるような口調で言い、「そろそろ朝か」と独りごちる。花帆の足元に薄くできた陰を見下ろし、


「だから生活習慣をちゃんとしろ。今日、学校を休むのはダメだからな」


 陰に入ろうと一歩。花帆は近づいた黒い着流しの胸ぐらを掴んだ。亜久良が「喧嘩か?」と首を傾げる。


 花帆としては彼が陰に入るのを止めたかっただけだが、言われてみると絵面は完全に喧嘩のそれだ。慌てて手を離し、


()()()()()()()()()()()()()()()()()、あんたは、昼は陰の中にいるの?」


 言いながらそっぽを向く。「なんか怒ってんのか?」と亜久良が顔を覗き込んできた。


「別に、怒ってなんかない」

「じゃあなんだよ、その顔」

「今聞いてるのは私の方なんだけど」

「何を?」

「だーかーらー! あんたが昼に出て来ないのは他のロアと足並み揃えてるだけで、実際は出られるのかって聞いてんの!」


 花帆が語気を強めると、亜久良は心底呆れた様子で「またその話か」と伸びをした。よくよく思い返してみると、これまで何度かこの話をして、その度に煙に巻かれていた。


 話したくない理由でもあるのか。


 亜久良は目を眇めてモゴモゴと口を動かすと、「早く帰るぞ」と言って歩き出した。花帆が隣に並ぶと、横目にこちらを一瞥する。


「俺が夜に縛られてないとして……それがわかって、お前はどうする?」


 他愛のない、今日の天気の話でもするような口調の端に、咎めるような色彩がある。


 それを認めた花帆は、自分の問いの意図に今更ながら気づいた。見えないのに近くにいるのは居心地が悪い——そんな簡単な理由ではない。


 昼も、いつでも、隣にいて欲しいと思っている。


(甘え……いや、『逃げ』だ。寂しいのが嫌で、手近なもので解決しようとしてる)


 そんな自分に苛立って、それを見透かしたような彼の問いに羞恥を抱く。この異類は力任せでガサツで考えなしのように振る舞うが、実際、何をどこまで理解しているのか。


「どうもしないよ」


 彼はきっと危惧しているのだろう。異類の存在で孤独を埋めた愚かな人間が、二度と夜から出られなくなることを。


 人に害をなすもの——恐怖の対象で悪の象徴として異類を定義する、この時代のこの場所にいながら。


「ただ、お米買う時とかムカつくだけ」


 亜久良が片眉を上げて疑問符を示す。花帆は「だってさ」と続けた。


「あんたが『米を食え』とか言うから買う羽目になってんのにさ、私は重い思いして帰らなきゃならなくて、陰の中のあんたは手ぶら。不公平でしょ」


 言うと、黄金色の瞳が細められる。「そうか」と呟く声が安堵しているように聞こえるのは、きっと幻聴だ。


「それで、昼も出られるの? 出られないの?」

「……出られる」

「だったら荷物持ちしてよ」

「それは無理だ」

「なんで」


 亜久良が「これ」と言って自身の額を指す。そこにあるのは、親指ほどの長さの黒いツノ。


「うかうか昼間に出歩いてみろ。『昼間は安全』って道理が崩れて大騒ぎになる」

「大丈夫だよ」

「なぜ?」

「そんなツノがあるくらい、コスプレってことで誤魔化せばいいじゃん」

「そりゃあ無理があるだろ……」


 彼方に広がる山の片隅から、今日の太陽が顔を覗かせた。その光を受けた亜久良のツノが黒曜石のように輝き、黄金色の瞳が眩しそうに眇められる。


「お前の世界は太陽がある場所。俺の世界は、闇だ」


 そう言った彼はしかし、周囲に人影がないことを確認しながら、アパートに着くまで隣を歩いていた。



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