認識は善悪の固定 ⑤
草木も眠る丑三つ時。一時避難結界に集まったロアたちが、入れ替わり立ち替わり小窓を覗く。
夜は異類の領域だが、夜道を歩けば必ず異類に出くわすと言うほどではない。故に花帆の周囲にロアが集まるのは、一般的な現象ではなく仕組まれたものだ。
古来、神隠しは何の前触れもなく唐突で、人が姿を消す場面は誰も見たことがない。
『見たことがないもの』でなければならない。
「そろそろ、この辺りのロアはみんな集まったかな」
花帆が言いながら立ち上がると、亜久良が不意にその右手を掴んだ。手首をじっと見つめて「難儀だなぁ」と独りごちる。
彼が言うには、ここにはロアがつけた『印』があり、それがロアたちを引き寄せているとか。花帆には何もないように見える。
「こいつがお前じゃなくて、俺についてればな」
彼女の身を案じているとも、自分の利を求めているとも取れる発言。花帆は無意識に前者を思い、論理で後者と結論する。ロアを消したい彼にとって、ロアが集まる印は都合がいい。
「亜久良、行くよ」
花帆が軽く手を引くと、黄金色の瞳がこちらを向く。一瞬の沈黙の後に「はいよ」と答えた亜久良は彼女の手を離し、立ち上がって大きく伸びをした。
「作戦は覚えてる?」
「ああ。ここを出たら集まってるロアを根こそぎぶった斬る。終わったらウサギ塚へ移動。お前はロアを確認。俺は近づいてくるロアを斬って、お前の確認が終わったら塚のロアも斬る」
「オッケー」
「要するに『とにかくぶった斬る』だな。作戦と呼ぶにはお粗末だ」
亜久良が「お前、見た目によらず脳筋だよな」としたり顔をする。花帆が「うっさい」と言いながらドアノブに手を伸ばすと、亜久良が「まあ待て」とその手を掴んで止める。
「お前はここにいろ」
言って、花帆が問いを発するより先に足元の陰に入ってしまった。ドアの向こうから忙しない足音が聞こえる。しばらくすると音は止み、ドアが外側から開かれた。
「『作戦』なんて言うなら、もう少し頭使って効率ってやつを考えた方がいい」
そう言って笑う亜久良の向こうには、静まり返った夜の景色が広がっている。
彼の言葉は、つまり、『足手纏いがいない方がスムーズにロアを斬れる』という意味。花帆はそう結論し、「うざ」と呟き、外へ出た。
深夜。世界が止まったような静寂の中に、二人分の足音だけが響く。ウサギ塚へ向かう道中、花帆は亜久良と出会う前の日々を思い出した。
母が神隠しに遭ってから——正確には、自分が神隠しの瞬間を目撃してしまってから。アパートの部屋の周りには毎夜ロアが押し寄せ、その気配と物音に怯えて過ごした。
夜に出歩く人間はいない。だから誰かが通りかかることなどなく、故に助けなど望めない。いつも、いつも、布団を被って蹲り、ただ夜明けを祈り続けた。
亜久良と出会ってからの夜が静かなのは、夜の始まりにまとめてロアを狩っているからか。それとも、花帆が寝ている間に彼が戦いに行っているからか。
母を殺したロアを殺したら、『印』を失った『百目鬼花帆』は彼にとって用済みだ。彼はいなくなるが、『印』がなければロアが集まることもなくなる。
(今だけの関係。亜久良は効率的にロアを殺せて、私は彼という『ロアを殺す手段』を得られる。……それだけ)
向こうにウサギ塚が見えてきた。『塚』と言っても、ギリギリ人工物だとわかる程度のただの岩。噂では表面に文字が彫られていたと聞くが、今はもう、経年劣化で見る影もない。
大きな銀杏の木の傍ら。不意に、無数の淡い光の玉が地面から湧き出した。グネグネと動き、一つ一つがウサギの頭になる。
「うわぁ……」花帆はそのグロテスクな光景に顔を引き攣らせ、
「なかなかの仕上がりだな」亜久良が呆れ声で言って彼女を一瞥する。
ウサギの頭の真っ赤な瞳がギョロギョロと動き、幼い子供のような声が「ウサギ、かわいい?」と幾重にも響いた。
「ウサギ、かわいい? ウサギ、ウサ、ウササササギ、かわいいかわかかか、かわいいわ、かわいい、ウサギ」
亜久良が「ほら、やっぱりハズレだ」とため息をつき、朱色の鞘から太刀を抜く。ウサギの頭が一斉にこちらを向いた。
「どうして、ウサギ、かわいいしない? こんなにかわいいのに。どうして、どうして、ウサギはかわいい、のに、のに」
フルフルと振動し、ゆっくりと浮かび上がる。亜久良が花帆の前に踏み出し、「動くなよ」と言ってウサギを見上げる。
「きゃーきゃー喚いて逃げ回られたんじゃ、守るのが面倒だからな」
花帆は脳内で『守る』を『防御』に変換する。
「しないよ、そんなこと。今までだってそうだったでしょ?」
ウサギが大口を開き、歯が鋭く長く伸びていく。口だけが肥大化し、牙が増えてサメの歯のような層を成し、
「そうだな。お前は怖がらないし、逃げない」
亜久良が諦念を帯びた声色で呟いたところで、ウサギの頭がこちらに飛び出した。鋭利な牙を向けて押し寄せるそれを、亜久良が片手で太刀を振り回し、軽々と切り伏せていく。
「だから守る分にはラクだが……人間として望ましい有様とは言い難い」
花帆はここでも『守る』を『防御』に変換する。つまり、ロアを誘き寄せる装置として『逃げない百目鬼花帆』は都合がいいということ。
人間として望ましい、のくだりはよくわからない。
*
亜久良が最後の一匹を右から左へ斬ると同時に、真っ二つになったウサギの頭が人型になった。白っぽい髪の、小学生くらいの男の子。
「…………」
それは何も言わずにこちらをじっと見つめると、夜の闇に溶けるように消えてしまった。
静寂が戻り、亜久良が太刀を鞘に戻す。
「夜更かしした甲斐がなかったな」
彼はため息混じりに言うと花帆を見下ろし、「確かに髪は白っぽかったが、浅葱色の目じゃなかった」と親指で向こうの塚を指す。
「……まあ、佐藤くんの呪いが解けたと思えば、収穫はゼロじゃないよ」
花帆が苦し紛れの成果を口にすると、亜久良は「どうだかな」と言って肩をすくめる。
「佐藤がここに近づいて呪いを受けたから親戚が死んだ、って話だったな?」
「うん」
「いくらなんでもこじつけが過ぎるだろ。仮に呪いがあったとして、佐藤自身が無傷なのはおかしい」
「そうだけどさ、あり得ないことでも、多くの人が信じれば情報が蓄積される。そうしてできるのがロアでしょ?」
「まあ、それはそうだが……」
亜久良が「さっさと帰るぞ」と歩き出す。花帆は少し遅れてそれに並んだ。塚を振り返ったところで、「人間の想像力は厄介だなぁ」と亜久良の声。
「どうせ、噂の元ネタは『昔ウサギが大量死した場所で誰かが不運な目に遭った』くらいのことだろ。その程度のことを、あんな気色悪いもんにしちまうとはな」
そんな人間に呆れているのか。それとも、そんな人間を哀れんでいるのか。彼の表情からそれを読み取ることはできないし、異類である彼が言うにはどちらも些か不似合いだ。
彼は『ロアではない異類』——神や鬼が概念として近いが、神でも鬼でもない存在。失われた信仰が成した情報の集積である彼の本質を、花帆は未だ理解できずにいる。
そして今後も理解することはないだろう。失われたものが二度と戻らないことは、この世界の万物に強制される法則だ。




