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認識は善悪の固定 ④

 一時避難結界は行政が管理する夜間避難所で、屋外で夜を迎えてしまった人が逃げ込むための施設だ。学校や市役所などの公共施設では、一つ以上の設置が法律で義務付けられている。


 校舎を出て体育館横に移動した花帆は、昔の神社の社を模した小屋を見上げた。このデザインのグロテスクさを思いながらドアを開ける。


 中は六畳ほどの広さで、窓は上部に設置された小さな正方形の一つだけ。これは夜明けを確認するためのもので、他に窓がないのは、周囲をロアに囲まれた際の恐怖心軽減のためだ。


「気づいたなら教えてよ」


 壁と一体化した椅子に座って花帆がぼやくと、足元の陰から亜久良が頭の上半分だけを出した。


「なんのことだ?」

「神崎くんがいるってこと」

「言ったら話し声を聞かれる」

「もう聞かれてたし、いるってわかってたら彼が帰るまで隠れられた」


 亜久良が「なるほど」と呟く。花帆は深いため息をついた。さっきの苛立ちを収めたいところだが、黙っていると頭の中でぐるぐる回って肥大化していくばかりだ。


「さっきの話、亜久良はどう思う?」


 尋ねると、亜久良が「ロアの本心の話か?」と片眉を上げた。「うん」と答えると陰の中から彼の右手が出てきて、「そうさなぁ」と後ろ頭を掻く。


「科学を得た人間にとって、世界は『説明できるはずのもの』だ」


 手が陰の中に戻り、黄金色の瞳が斜め上を仰ぐ。小さな窓に切り取られた空は赤。


「つまり、人間は物事に理由を求める生物になったってことだ。不思議なものを『不思議』のままにしておけない。ただ一つの『答え』を求める」


 夕日が徐々に色褪せていく。一歩、また一歩と夜が近づく。


「悪は悪、善は善でなければならない」亜久良は小さく嘆息し、「『両方』なんてのは答えにならない」と続ける。

「つまるところ、二元論ってやつだな。その思考情報の集合体であるロアは、善悪を内包した存在になり得ない」

「そうなると、善のロアがいないとおかしくない?」

「今の人間は『いいこと』を深く考えないだろ。『ラッキー』くらいで片付ける」

「……確かに」

「一方で、『悪いこと』はあれこれと考えがちだ。何が悪かったのか、どうしてこうなったのか、誰のせいなのか……」


 天井の自動照明が点灯し、窓から差し込む夕日が消えた。亜久良が「まあ、そういうことだ」と言いながら陰から出て、花帆の隣にドサッと腰を下ろす。


「だったらロアは、人間に起こった悪いことを説明するために生まれさせられてるってこと?」


 花帆の問いに、亜久良が「ハハッ」と乾いた笑みを溢す。


「なんだお前、ロアに同情してんのか?」

「別に、そんなんじゃない」

「お前は母親の仇討ちをしたいんだろ? ロアはお前の敵のはずだ」

「だから、そんなんじゃないってば」花帆はここで一瞬言い淀み、「お母さんの敵討ちって言うのも、違う」と続ける。


 思い出すのは、家族全員が揃う、穏やかだった遠い過去。父と母と自分の三人で、新しい白い一軒家で暮らしていた。


 変わってしまったのは、両親が離婚して、母と共にあのボロアパートに引っ越してから。


「これは復讐。私が私のためにしたいこと。お母さんは関係ない」


 栞の言う通り、仲が悪かった母の死に対して思うことはほとんどない。ゆえにこれは『敵討ち』ではなく『復讐』。過去の愚かな自分に対するけじめのようなものだ。


 *


 一昨年の冬。中学三年生だった花帆は思春期真っ盛りで、その日、ずっと溜め込んでいた鬱憤が爆発した。


「わかったよ! 私がいなくなればいいんでしょ!」


 母との口論の内容はよく覚えていない。母が自分のことをお荷物であるようなことを言って、それに怒りをぶつけてアパートを飛び出したことだけは覚えている。


 夕焼けの中を闇雲に走り、気づけば迷子になっていた。日没を告げる防災無線が響き、周囲に一時避難結界を探すも見つけられない。


 静まり返った黄昏の景色を見渡して思った。いっそ神隠しに遭ってしまえば、この鬱々とした日々を終わらせられるだろう、と。


 同時に、母が助けに来てくれることを望んでもいた。子供ゆえの相反する思考。しかし、『子供のしたこと』と許すにはあまりに愚か。


「花帆!」


 結果として、母は迎えに来てくれた。手を引き、駆け出し、周囲に一時避難結界を探す。


 夕日が徐々に色褪せていく中、近くの民家のチャイムを片っ端から鳴らしもした。しかしどこも反応なし。


 当然だ。昼と夜の境界の時分で、チャイムを鳴らしたのが人間に化けたロアだったなら、応対はそれを招き入れることと同義。


 走って、走って、走った。行く先々で闇が蠢き、母に手を引かれて踵を返す。入り組んだ住宅地の路地を右に曲がり、正面の闇が蠢き、左へ曲がる。


 夜が来て、息が上がった花帆が立ち止まろうとした瞬間、母が「あった!」と叫んだ。


 神社の社を模した小屋。安堵し、先に入った母について行こうとしたら突き飛ばされた。後ろに転がり、顔を上げると、


「花帆、逃げて!」


 こちらに叫ぶ母を飲み込むように、小屋がぐにゃりと変形した。母の向こうで何かが動く。鉛白色の髪の男がニヤリと笑い、母の首を掴み、


「お母さんっ!」


 最後に見たのは母の首が落ちる様と、こちらを見据える浅葱色の瞳。ふつりと小屋が消え、静寂の夜。


 それからどうやってアパートに戻ったのかわからない。朝を迎え、また夜が訪れ、母のバラバラ死体が発見されたのは七日後のことだった。


 *


「『復讐』ねぇ」


 夜が来てしばらく。不意に亜久良が独りごち、壁に背中を預けて天井を仰いだ。ずっと黙っていた彼は、このことについて思考を巡らせていたということか。


「人間は変なことをするなぁ」黄金色の瞳が横目に花帆を捉え、「まあ、仇討ちも同じだが」と続ける。

「そんなことしたって、何が得られるわけでもなかろうに」


 咎めるような否定を纏う声色は、やはり花帆を慮っているよう。危険なことはするべきではない、と。安全な場所にいろ、と。


(いや、違う。亜久良は私にロアが寄ってくるのを利用してる。これからも利用したいはず。だから私が復讐をしたいのは、彼にとって都合がいいはずで……)


 花帆は必死に考えた。ならばなぜ、彼はこんなことを言うのか。自分はどう応えるのが正解なのか。


(……わからない)


 どうしても結論に至らず、途方に暮れて窓を仰ぐ。夜の暗闇を透かすガラスに、バンッと音を立てて血濡れの手のひらが叩きつけられた。


「そういえば、あんた、なんで結界に入れるの? 異類なのにおかしくない?」


 無理やり話題を逸らすと、亜久良が深く長いため息をつき、「話題転換、雑過ぎだろ」と言って項垂れた。



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