半身との再会、それから ①
カキタさまとの一件から二ヶ月余り。亜久良はあの森の石碑に帰る気になれず、花帆の周りの陰に隠れて過ごしていた。
自分との時間を忘れた彼女はずっと、どこか元気がない様子に見える。かと言って落ち込んでいるわけでも、何かに傷ついているわけでもなさそう。言うなれば、カキタさまのことで荒んだ心の棘が取れた結果、目標を一時的に失っているようだった。
心の有り様は心配だが、それなりにきちんとした生活を送っている。洗濯物は溜めずにこまめに洗うし、数日に一回は部屋の掃除をするし、食事はほとんどが買ってきたものだが、前のようにカップ麺を選ぶことはない。
(もうすっかり、普通の昼の人間だ)
見ていたところで、自分に何ができるわけではない。彼女は昼の存在で、もう夜に足を踏み入れることなどないのだから。
そう自分に言い聞かせながらも、花帆がしおらしい声で暁斗の身の安全を心配するのを聞いて苛立ち、祭りの時の猫耳をこっそり押し入れに隠してみたり(本人的に深い意味はない)、彼女の下駄箱に入っていたラブレターを破り捨てたりして留まり続けた。
そうして過ごして至った秋。『もういいかい』が花帆に手を伸ばす様を前に、亜久良は咄嗟に陰から飛び出した。
彼女の驚く顔に内心で「やってしまった!」と叫び、この状況を収める方法を必死になって思考し、
「帰るぞ」
どうにか平静を装って、ひとまず彼女との出会いを再現した。
今の彼女は自分を知らない。だから、あの日と同じことをすればきっと怖がられない、と自分に言い聞かせて。
しかし、
「アクラ」
予想外の展開だった。まさか花帆が自分を呼ぶなど。しかも、まるで、世界で一番大切な言葉を大切に大切に紡ぐような声で。
(……なんだ、これ)
亜久良は困惑した。彼女に名前を呼ばれるのは初めてではないのに、慣れているのに、自分の中に湧き上がる今にも踊り出しそうな感情に。
どうにか自分を落ち着けて、平静を保つことに努めて、
「アクラ」
また呼ばれて叫び出しそうになり、半ばパニック状態に陥った。
(なっ、なんなんだ、これ。なんか、こう……ふわふわするっ!)
これまで花帆に対して抱いてきた感情、あるいは、今ここにある感情。亜久良はその名前を知らない。
差し出した手を握る彼女の手のひらの、滑らかで柔らかな感触。それが全身に満ちていく錯覚に居ても立っても居られなくなり、
「お前は諦めが悪いな」
意味のわからないことを口ずさみ、咄嗟に踵を返し、歩き出した。
それからどうやって帰ったかあまり覚えていない。スキップでもしそうな自分をどうにか押し込める中、ギリギリ知覚できていたのは夜の景色と繋いだ手の感触くらい。道中、ロアが出現しなかったことは幸いだった。
そして、今。アパートのリビング。
「ええっと……お茶でも、飲む?」
名残惜しそうに手を離した花帆はモジモジと体を揺らしながら尋ね、亜久良がどうにか「お、おう」と答えると、ふっと笑みを浮かべて軽い足取りでキッチンへ向かった。
(どうしちまったんだ花帆はっ!?)
ヤカンに水を入れて火にかけ、食器棚からティーポットとカップを二つ、それから紅茶の缶を取り出す。湯が沸くのを待つ彼女の背中は、朗らかなワルツに乗るように揺れている。
亜久良はその場に立ち尽くし、花帆の様子をまじまじと見つめた。ヤカンがピーッと鳴って沸騰を知らせ、彼女が茶葉を入れたポットに湯を注ぎ入れ、カップと一緒にトレーに乗せて振り返る。
「お茶菓子は何がいい?」
テーブルにカップを並べながら尋ねる彼女に、亜久良はいよいよ耐えきれなくなった。
「これはどういう状況だ?」
花帆がトレーを脇に抱えて振り返る。
「どうって?」
「お前、俺のこと忘れてるだろ?」
「ああ。やっぱり私、何か忘れてるんだ」
「はあ!?」
「なんか、最近ずっと何かが足りないというか……何かを探してる?みたいな感じがしててさ」
花帆は話しながらキッチンへ戻る。
「いつもと何も変わらないはずなのに、何かが足りない。いつも通りに過ごせるってことは、それは大したものじゃないはずだけど、でも、すごく大切なものの気がする」
菓子棚からクッキーの缶を取り出してテーブルに置き、振り返る。
「私の大切なもの……大切な人は、あんたでしょ?」
亜久良はその言葉にあんぐりと口を開き、しばらく固まり、それから長いため息をついて額を押さえた。カキタさまに砕かれた左のツノは、何故か元に戻らず欠けたまま。
「……俺は『人』じゃない」
右のツノを指して「見ればわかるだろ」と続ける。
「俺は異類だ。夜闇に紛れ込んだ人間を殺す、お前たちの科学が届かない悍ましい存在」
言いながら傷つく自分を感じ、それでも言い切る。花帆が「うーん」と唸りながらこちらに近づいてきて、背伸びをしてツノの付け根に触れた。
亜久良は彼女の指先の感触に、驚いて身を仰け反らした。何故か彼女にツノを触られると、体の奥がゾワゾワする。
「おまっ……!」抗議しようと口を開いたが、
「でも、あんたは太陽の下を歩けるでしょ?」彼女の言葉に息を飲んだ。
「それに、私を殺してないし、助けてくれた」
花帆が「だから『異類』じゃないよ」と続け、それからふと何かに気づいた様子で首を傾げた。
亜久良はそこにある問いを言語化する。
「……なぜ、俺は太陽の下を歩けると?」
花帆がまた「うーん」と唸り、亜久良は手のひらでツノを隠す。花帆はその手の動きを目で追いかけ、
「あんたが、『アクラ』だから。アクラは太陽の下を歩くから、そう思う」
「なぜ俺の名前が『アクラ』だと?」
「違うの?」
「違わないが……お前はそれを知らないはずだ」
そう。花帆は全てを忘れている。古い異類の神隠しに遭った者として、正しく。
彼女がついさっき、出会い頭に脛を蹴り付けなかったことが証明だ。あの日の続きの彼女なら、「今までどこ行ってたの!」とか言って怒り始めるはずだから。
「知らないけど、でも、そうだって思う」
こんなふうに、宝物を見つめるような目を『亜久良』に向けたりしない。
あの日、確かに、百目鬼花帆と亜久良の過去を清算する物語は終わった。
「なんかね、理由は全然ないんだけど、でもそう思うんだよね。あんたは『アクラ』で、太陽の下を歩けて、私の大切な人って」
花帆が着流しの端をそっと摘み、
「何もないのにそうだと思う。なんか、こう……生まれた瞬間に別れたものと、やっと再会できたみたいな感じ」
それからこちらを見上げ、「違う?」と尋ねる。異類である亜久良に心臓など存在しないのに、しかし胸の奥で何かがバクバクと鳴っている。
「ああ。違う」
これは終わりの鐘、ということにしておこう。
「俺とお前はそんな昔からの仲じゃない。ここ数年だ」
そして、始まりの鐘でもある。
花帆が「そっか」と一瞬だけ視線を俯けて、
「じゃあ、教えてよ。あんたが誰で、私は何を忘れてて、私たちに何があったのか」
それから、パッと表情を明るめてこちらを見上げる。亜久良にはもう、「ああ」と答える以外の選択肢がなかった。
「とりあえずお茶飲もう。冷めちゃうよ」
花帆に手を引かれてテーブルへ。向かい合って座った亜久良の手元には、彼女が淹れてくれた紅茶がある。テーブルの真ん中に置かれたクッキー缶は、彼女の一番のお気に入りの品だ。
今まで花帆の食事の際に向かい合って座ることはあっても、一緒に食事を摂ることはなかった。これは亜久良が『異類』で、花帆は他のどの人間とも同じように、異類は食事を摂らないと思っていたから。
亜久良は鮮やかな赤茶色の水面を見下ろし、そっとカップを持って口をつけた。「美味しい?」と尋ねる花帆に、溢れ出しそうな感情を抑えて「美味い」と答える。
あの日、一つの物語が終わりに至った。そして今、新たな物語が始まろうとしている。




