後の祭り ⑨
「ここは、俺を造った奴らが夢見た安寧だ」
そう語る亜久良は懐かしそうに目を細め、薄霧が立つ明るい景色を望んだ。どこか誇らしげで、しかし寂しそうで、喜んでいるようで、悲しんでいるように見える。
「まだそこかしこに戦があって、今日笑い合った隣人が明日には屍となって戦場に転がってるような時代。住む家も、服も、満足な食事も得られなかった人々は、苦しみのない世界を想像した」
平安時代のような屋敷が並び、江戸時代の子供の遊び歌が響き、いつか信じられた楽園の桃畑が広がる——数多の夢のツギハギのような景色は、彼が過ごした長い時間を彷彿とさせる。
頭上を渡り鳥の群れが飛び去った。遠くの空に淡い虹がかかる。
「どうして、昔の人は『神隠しに遭ったら記憶を失う』なんて考えたんだろうね」
花帆は太刀を差し出し、亜久良が受け取り鞘に収める。
「こんな世界を想像するなら、『そこからたくさんのお宝を持って帰る』とかって物語にすればいいのに」
亜久良が「そういう『情報』も、どこかにあるかもしれない」と彼方に消える鳥の群れを見送り、「だが、それは俺の物語じゃない」とこちらを見下ろす。
「ないものをどうこう言ったって仕方がない。ここを出ればお前は記憶を失う。それだけが事実だ」
淡々とした口調はきっと、淡々としていたいというだけのもの。
「どれくらいなくなっちゃうの?」
「俺に関する全てを忘れる。それ以外は消えないから安心しろ」
「でもそうなるとさ、神崎くんのこととかはどうなるの? あんたがいたから友達になったようなもんじゃん」
「そこはうまい具合に残った記憶が繋がって埋まる」
「神崎くんとか栞ちゃんもあんたのこと忘れるの?」
「いいや。忘れるのはお前だけだ」
花帆はその言葉に胸を撫で下ろした。自分が亜久良のことを忘れても、彼らが覚えているなら教えて貰えばいい、と。そうすればまた思い出せる、と。
しかし、
「言っとくが、あいつらに聞いてもお前が俺を思い出すことはない」
「……じゃあ、教えてもらう」
「あいつらが俺の不在をどれだけお前に語ったところで、お前はそれを深く考えないだろうよ」
亜久良はフッと目を伏せ、「みんなそうだった」と続ける。
「『神隠しに遭ったら記憶を失う』……そう考えた人間は、そうあるべきだと思ったのかもしれない」
どこか物悲しく、何かを決定的に諦めた声色。
「俺たちはあくまで想像の産物。架空の情報の蓄積だ。現実を生きるお前たちにとっては、眠りの中で見る夢であるべき」
それからため息をついて肩の力を抜き、
「……成り行きだったが、タイミングは良かったかもしれないな」
花帆の右手を取り、その手首を親指の腹で撫でる。
「カキタさまはもういない。お前の印も消えた。あいつの息のかかったロアはしばらくお前を探すだろうが、じきにそれも終わるだろう」
「なんで?」
「齎されるはずの奇跡、存在するはずの印……そういうものがないってことは、そのまま嘘の証明になるからだ。お前はただの女子高生の日常に戻る。昼を生きるお前に、夜の記憶は必要ない」
彼が手を離し、今度は花帆がそれを掴む。
「あんたは私に忘れられるのが嫌だから、ずっと太刀だけで戦ってきたんでしょ?」
亜久良はハッとした顔で固まり、それから視線をそろそろと横にずらす。きっと、判断の遅さを責められていると思ったのだろう。
「私は忘れない」
花帆は彼の手を強く握り締める。
「忘れても思い出す。だから一緒に帰ろう」
沈黙が流れた。亜久良が顔を顰め、グッと口を引き結び、何かを言いかけ、頭を振り、
「お前は忘れるべきだ」
絞り出すように言って、花帆の手を振り払った。
「なんでっ!」
叫んで踏み出した花帆の脳裏に、いつかの帰り道が過ぎる。
『お前の世界は太陽がある場所。俺の世界は、闇だ』
彼がいつも一線を引いていたのは、きっと、今日この時のためだろう。
「……お母さんの代わりなんかじゃないよ」
目頭が熱くなり、鼻の奥がツンとする。こんなところで泣くまいと顔に力を入れるも、片方の目から生温かい雫が落ちる。
「誰の代わりでもない。寂しさの穴埋めでもない。私はただ、あんたと——」
続くはずだった言葉は、亜久良の手のひらに塞がれた。
「……言うな」
諭すような声。硬い皮膚の手のひらが離れる。
「言うな」噛み締めるように繰り返し、「なんで」花帆が問い、
「……離れがたくなる」
俯く彼の声色に、花帆はそれ以上何も言えなくなってしまった。本当は嫌なのに、ムカつくのに、叫び出したいのに。
彼がこの物語を終わらせようとしているのは、他の何でもない、『百目鬼花帆』の明るい未来のため。
徐々に霧が濃くなっていく。亜久良がパッと顔を上げ、ニカっと笑った。
「ちゃんと飯食えよ」
霧が全てを閉ざす。夢が覚めていく。彼が断腸の思いで発しただろうその言葉に、花帆は何も答えることができなかった。
*
「あれっ? 私……」
アパート近くの林の中。棒立ちになっていた花帆は周囲を見回した。朝焼けが空を染め、地平線の向こうから顔を覗かせた太陽が、夏の森に透明な光を流し込む。
なぜ、自分はこんなところにいるのか。
「あー……そうだ。なんだか早起きしちゃったから、朝の散歩に——」
思考を整理するために独りごちたところで、自分が母の浴衣を着ていることに気づく。
「なんで、これ……」
疑問に思うも、
「……まあ、いっか」
すぐに思考を放棄した。そろそろアパートへ戻ろうと考え、歩き出す。
何の気なしに視線を動かした先に、小さな男の子が倒れているのを見た。
「えっ!? なっ……ちょ、ちょっとあんた、大丈夫!?」
慌てて駆け寄って抱き起こす。肩を軽く揺さぶってみるも、子供は「うーん」と唸るだけで目を開けない。上半身が裸であることから、花帆は何らかの事件を察した。
「とりあえず、警察に……」
慌てて携帯電話を取り出し、開く。なぜかロアに関するブログ記事が表示されていたが、気にせず閉じて110番を押した。




