後の祭り ⑧
薄霧がかかった透明な陽光が満ちる空間。
花帆の視界の右側には、平安絵巻に出てきそうな広い縁側の屋敷が並ぶ。開け放たれた木戸の向こうの部屋には豪華な膳が並んでいたり、鮮やかな着物が掛けてあったり。
ここは現実ではないと花帆がすぐに気づいたのは、左手に広がる桃畑の緑とピンクの景色の向こうに、黄金色の田んぼが広がっているのが見えたから。
それと——
「……なんだ、これは」
目の前。淡々と言って自身を見下ろすカキタさまの下半身が、木の幹になって地面に根を張っているから。
「亜久良、これって——」
振り返ろうとした花帆は、視界の端に何かが動くのを認めて言葉を切った。景色に似合わないボロ布を纏う痩せぎすの子供が、これもまたその姿に似合わない幸せそうな笑みを浮かべて横を通り過ぎ、消える。
「ああ」
亜久良が途切れた問いに肯定を返し、花帆の腹に回していた腕を離す。「貸せ」と言って花帆の手の上に添えた手を動かし、
「ここは、俺が許したものだけが存在できる」
黄金色の瞳がふいっと動いてカキタさまを見やる。
「神隠しに遭って帰らない者は、永遠にどこかを彷徨い歩くわけじゃない」
カキタさまがヘラっと笑みを浮かべ、その左腕がポンっと弾けて満開の桜の枝に変わった。
「最初からこうすればよかった」
亜久良の自戒に、カキタさまが「ああ、そうだ!」と声を上げた。
「神と遭えば無事では済まぬ。ゆえに出会ってはならない。触ってはならない……そうあるべきだった。そうあり続けなければならなかった! お前たちが姿あるものとして振る舞ったがために神秘は暴かれた」
子供の声がする。「かーごめ、かごめ」着古した着物姿の子供たちが輪になって歌い、ふと消える。
若い女の声がする。「ねんねん、ころりや」抱えた赤子を寝かしつけながら女が通り過ぎ、これもまた消える。
平安時代のような、江戸時代でもあるような。花帆の目には遠い歴史の一ページとして映るこの景色は、果たして、亜久良がいつか見た景色だったりするのだろうか。
「ああ。そうだな。もっと早くこれを使うべきだった」
カキタさまの言葉に対する噛み合わない返答。花帆は彼の言葉を思い出す。
『近くにいたらお前を巻き込む』
彼に落ち度はない。彼がもっと早くこれを使えなかったのは、自分がさっさと逃げなかったから。
花帆は太刀の柄を握り締める。
「? おい、花帆。刀を——」
両手を引くと、太刀は軽々と持ち上がった。少し驚き、自分がこの場所にいることが許されているからだと納得する。
「ねえ、カキタさま」
呼ぶと、浅葱色の瞳がこちらを向いて鬱陶しげに細められる。
「さっき言ってた『我が庭』って、昼の世界のことだよね? それを取り戻して、昼を歩けるようになって、それであんたは何がしたかったの?」
「……何も」
「そんなわけないでしょ」
「失ったものを取り戻す。それは知性あるもの全てが当たり前に抱く欲求であり、それそのものが目的となり得る願望だ」
「あんたが亜久良に怒ったのは羨ましかったからじゃないの?」
カキタさまがはたと表情を消す。花帆は太刀を持って彼の方へ。
「それか、あんたが本当はやりたくて、でもやらなかったことを亜久良がやったから。違う?」
「見当違いも甚だしい」
「寂しかったんでしょ?」
花帆がカキタさまの前に立つと、彼は眉間に皺を寄せて右手を動かそうとした。指先がぴくりと振れた瞬間、ポンっと音を立てて腕ごと椿の枝に変わる。真っ赤な花が首から落ちた。
「……カミは孤独など感じぬ」
悔しげに呟く彼は、天狗になる前は『カミ』と呼ばれる存在だったのか。それともこの言葉は、憧れを遠く望んでのことか。
何者も、自らが生まれる場所を選ぶことはできない。生まれる形を選ぶことも。その上彼らは、自分ではない何者かの認識にその有り様を定義される。
(それは人間も同じだけど……)
花帆にとって、カキタさまは母の仇。それでもその境遇を憐れむことを禁じ得ない。他人事と突き放すには共感が過ぎる。
「私の陰に入って一緒に来る?」
しかし、赦すことはできない。
「あんたが改心して、お母さんのお墓で謝るなら、だけど」
背後で亜久良の息を飲む音。カキタさまがハッとした顔になって動きを止め、それから長く深いため息をついた。
「……痴れ者が」
お手本のような軽蔑を浮かべてこちらを睨め付ける。
「立場を弁えろ。私は寂しさなど感じぬ。お前のようなちっぽけな人間一人が何を信じて思考したところで、変えられるものなど一つもない。お前は無力だ。無力なお前に、私に施しを与える権利など存在しない」
花帆は「そう」と呟き、太刀を振りかぶった。透明な陽光が鈍色の刃に反射し、その光にカキタさまが目を眇める。
「ハハッ!」
悪役のお手本のような乾いた笑み。
「私を滅したところで何も変わらない。人間がいる限りロアは生み出される。有限の命を有する人間は、自らの終焉を恐れずにいられない」
お手本のような捨て台詞。
「人間が恐怖する限り、恐怖は存在し続ける。永久機関だ! 最早誰にも——」
花帆は太刀を振り下ろした。カキタさまがニヤリと笑い、ふいっと視線を亜久良の方へ。刃が肩に触れ、骨と肉を裂き、袈裟斬りにされたカキタさまの体は血の一滴をこぼすより先に無数の花弁となって弾けた。
小さなピンクの花弁が光の中を降る。花帆はそれを見上げ、地面に残った根っこの跡を見下ろし、振り返る。
「ありがとう。ここに連れてきてもらったおかげで、自分の手で敵討ちができた」
言うと、亜久良はじっとこちらを見つめた後、口を引き結んで俯いた。




