後の祭り ⑤
濃い夕焼けが注ぐ入り組んだ路地を、子供の声へ向かって走っていく。壁が夕日を細かく遮る視界は明るくなったり暗くなったりを繰り返し、やがて住宅地の横の鬱蒼とした林に至った。
「あれっ? どこに……」
時折向こうに子供の影を捉えつつ、しかし追いつくことができずにここまで来た。聞こえていた声が途切れ、花帆は足を止めて周囲を見回す。
「おい、花帆。何かおかし——」
隣で亜久良が口を開いたところで、また「うわあ!」と子供の声がした。夏の濃い緑と夕日が重なって黒く変色した林の向こうに、必死に走る子供の背中がある。
「いた!」
花帆は勢いよく駆け出した。湿った土と夏草を踏み締め、子供の元へ。かつて胸を満たしていた空虚な感情を思い出す。
ひとりぼっちの寄る辺なさ。世界の何もかもが恐ろしく思えて、実際に世界は恐ろしい。黄昏時のおどろおどろしい色彩。やがて来る夜を想像すると走り出さずにいられない。
本能が『逃げろ』と叫び、理性が『逃げ場などない』と諦める。その狭間にあることの恐ろしさはよく知っている。
(早く捕まえないと、夜が来ちゃう)
人も動物も見当たらない、静まり返った林の景色に、かつて誰かが通った土道が続いている。花帆は向こうに子供の背中を捉えつつ、走る。
「待って! ねえ、止まって! 大丈夫だよ、怖いことないから!」
夕日が色褪せていく。背後にある今日の太陽は死の間際。向こうに夜空が顔を覗かせている。
こうなってしまったら、自分はもう追いかけない方がいいだろうか。ロアを呼び寄せる自分がいたら、あの子供を危険に巻き込むことになる。
そこまで考え、ふと気づいた。自分はなぜ、あんな小さな子供に追いつけないのか。
「花帆!」
酷く焦った亜久良の声。同時に花帆は、土道の向こうに褪せた赤の色彩を見た。
それから、子供を抱き止める男のシルエット。
(まさか……)
瞬間、花帆は足を止めた。傍らに立った亜久良が太刀を抜き、背後で夕日が沈み、生ぬるく湿った夜が周囲を満たす。
子供の背中を撫でていた男がゆっくりと顔を上げた。
「人間の真似事か?」
その浅葱色の瞳が亜久良を捉える。「珍妙なことだ」と男が笑い、風が吹き、鉛白の髪が揺れる。
見紛うはずはない。
「カキタさま……」
花帆がうわごとのように呟くと、男は「ふふっ。『さま』をつけるか」と柔らかく白々しい笑みを浮かべた。
「己が母を殺した相手に、『さま』……人間はわからぬな。このような、見知らぬ子供を追いかける意図も理解不能だ」
男が「名は……そうか。『カキタさま』で一つの固有名詞としておるのか。ふふっ。何もかも、意味を失い、変質していく」と続け、自分にしがみつく子供を見下ろした。
Tシャツを脱がせ、剥き出しになった背中を「もう良いぞ」と言って軽く叩く。小さな子供の狭い背中に無数の目が開いてギョロギョロと動いた。
「ひっ」花帆は小さく悲鳴を上げ、
「…………」亜久良は眉を顰めてそれを凝視し、「なるほど」と忌々しげに。
「人間の皮を被れば太陽の下も歩ける、ってことか」
子供の背中の眼球が溶けて、黒いタール状になって流れ出す。それは地べたに落ちるとグネグネと動いて一つにまとまり、「カキタさまばんざい」と言って茂みの暗がりに去っていった。
子供がパタリと倒れ、男がそれを跨いで三歩進み、立ち止まる。亜久良が構える太刀の刃が青白い月光を反射するのを捉え、「ふふっ」とまた笑みを浮かべた。
「お前は人間になろうとでもいうのか」嘲りを含む問いを投げ、「すでに昼と夜は分たれた」諭すように続け、「半端者が」吐き捨てる。
「わかっているはずだ。異類であれば、誰もが皆。過去は戻らない。時間は進み続ける。かつて畏敬を込めて祀られた者共は、消失か変質が定め」
亜久良を映す浅葱色の目を細め、
「消えたくないなら変わればいいものを。そのツノはわかりやすい。人間はかつて鬼が存在したことをすっかり忘れてしまったが、悍ましい荒くれ者の偶像には必ずツノを思い描く」
それからニヤリと笑い、
「変わりたくなくば、消えてしまえばいいものを。自らの意思で自らの思う存在であり続けるなど不可能。それが我ら異類であり、しがみつくだけ無駄というもの」
チラリと花帆を見て「まあ、それは人間とて同じか」と続ける。
花帆は男の向こうの褪せた鳥居を見た。それから横たわる子供を、隣に立つ亜久良を。苛立ちと悲しみが同居した横顔。
「偉そうなこと言って! そういうあんただって意味わかんないことしてんじゃん!」
花帆が声を張り上げると、男は「はて」と首を傾げた。
「私の『意味』は明確だ。かつて跳び歩いた我が庭を取り戻す。それまでのこと」
瞬き一つしない浅葱色の瞳がじっとこちらを見つめる。花帆がその視線の圧に「何、それ」と呟きながら一歩下がると、亜久良が「あいつは元天狗ってことだろうよ」と言って前に立った。
「天狗?」
「山を跳び、子供を隠す。特に男児を狙うとなれば、天狗で間違いない」
「カキタさまはロアじゃないの?」
「かつては違った。だが時代を経るごとに人間の認識が変わって、都市伝説と混同された結果があれだろう」
「他のロアと違うの?」
亜久良が柄を握る手に力を込め、鍔がカチッと音を立てる。
「言うなればあれは、歴史が深くものを知ってるロアだ」
『歴史が浅くものを知らない』——いつだったか、亜久良がクロイを嘲って言った言葉。今、それを苦々しげに引用して言うあたり、歴史があるロアは厄介ということだろう。
「ロアのくせに自分を見たお前を消そうとしてるのは意味がわからんが……まあ、斬っちまえば全部どうでも良くなる」
亜久良はこちらを一瞥し、
「お前はその辺に隠れ……あー、それじゃ他のロアが……先に帰って……いや、あー……」
どうにも判断がつかない様子でガシガシと後ろ頭を掻く。花帆は携帯電話を開き、行政の『一時避難結界マップ』に現在位置を入力した。
「六百メートル先に一時避難結界があるから、そこに向かうよ」
「だが……」
「大丈夫。カキタさまと会ったからかな、いつもみたいにロアが寄ってくる感じはないし」
花帆が「大丈夫」と繰り返すと、亜久良が悩ましげにモゴモゴと口を動かしてから盛大なため息をついた。
「あいつの能力がわからん。何をしてくるか予想がつかないから、俺があいつを抑えるまでここから動くな」
「できたらあの子供から離れたところで抑えて」
「……善処する」
亜久良は太刀の柄を両手で握り直すと、フッと短く息を吐いて駆け出した。花帆はとりあえずその場で身を低くして、枯葉色の羽織の背中を見送る。
胸の中にあるのは亜久良への信頼と、それで相殺しきれない焦燥。自分が天狗に関する知識を何も持たないことが悔やまれる。




