あの日、陰の中 ③
旧校舎の特別活動室。机に弁当箱を置いたところで、暁斗が「亜久良は?」と尋ねてきた。
「もう腕治ったんだよね?」
「そうだよ。ご飯作れるくらい、しっかりね。まあ私はそれ、見てないけど」
花帆は不機嫌をそのままに言い、どかっと椅子に座った。暁斗が疑問符を浮かべながら向いの席につく。
「じゃあどうして出て来ないの?」
「さあね。もう私とは一緒に行動したくないのかも」
「……なんかあった?」
「私としては喧嘩中。でも亜久良にとっては何もないかも。こいつから見たら、私がわがまま言ってるだけみたいだから」
「へ、へえ……」
花帆は弁当箱を開いた。いつもと変わらない、白飯もおかずもギチギチに詰まった弁当。おかずは茶色のものばかり。
幼稚園の頃に母が作ってくれた弁当は彩り鮮やかで、適度に隙間があって食べやすかった。ずっとそれが『弁当』のあり方だと思っていたが、今はぎゅうぎゅう詰めのおかずの隙間に箸を捩じ込むのが弁当を食べる時の正しい作法のような気がする。
(今夜はずっと起きてようかな)
そんなことを考えながら豚の生姜焼きを口に入れたところで、ふと暁斗の隣の空席が目に留まる。
「そういえばクロイってさ、普段はどこにいるの?」
バゲットサンドを齧った暁斗が「どっか、ここじゃないとこ」と答えた。
「多分その辺の陰の中とか、自分の神域だと思う」
「私の陰の中に入れたりする?」
「どうして?」
「亜久良を引っ張り出せないかなって思って」
花帆は自分の足元を睨みつけて言った。薄い黒の色彩が沈黙する様は、昼間の路肩に落ちるただの陰のよう。
暁斗が「入れたとしても、クロイは入ってくれないと思うよ」と言いながら頬杖をつく。
「彼女は古い異類のことを嫌ってるからさ」
「なんで?」
「まあ、憧れからの妬みみたいな感じだよ。昔、異類は田畑に豊穣を齎すことも、洪水で村を押し流すこともできた。でも、現代のロアである自分にはそういう自由は——」
ふと、「バカなやつだ」と亜久良の声。姿はないまま、陰の中から声が響く。
「それが誤解とも知らないで、勝手に妬んで勝手に嫌ってる。歴史が浅くものを知らないバカは気楽でいいな」
明らかに苛立った声色に、暁斗が「えっ」と言葉に詰まり、花帆は「ごめん、余計なこと聞いた」と言って足元の陰を蹴った。
「神崎くんさ、もし知ってたら教えて欲しいんだけど……」
暁斗が「なに?」と疑問符を浮かべ、花帆は「『カキタさま』ってロアについて」と机に身を乗り出す。亜久良が口を挟んで来るかと身構えていたが、結局彼は昼休みが終わるまで一度も言葉を発さなかった。
* * *
暁斗の膨大なデータベースの中に、『カキタさま』の名前のロアは存在しなかった。
「古い伝承なら、同じ名前の話があるよ。『薄暗い林の中に立つ神社で、そこで遊んだ子供は姿を消して、数日後にどこか遠くで発見される』ってやつ。多分、昔の天狗の話のバリエーションだと思う」
放課後、花帆は暁斗に教わった情報を反芻しながら家路についた。
「伝承のカキタさまの話には、『死ぬ』とか『記憶喪失になる』とかって情報はないね。ただ姿を消して、しばらくしたら戻るだけ。ロアが発生する前の時代によくある神隠しパターンだよ」
もしも、その伝承が質量を有した結果があのロアだったなら、神隠しに遭った母は生還したはず。
(伝承の『カキタさま』に現代の情報が付加されて……ううん。だったら、それを神崎くんが知らないのはおかしい)
人間の話題に上がらないところで、異類を変質させるほどの密度の情報が生まれることなどあるのだろうか。
そんなことを考えていたら、足首にコツっと何かが当たった。いつの間にか伏せていた顔を上げると、夕日に染まる見知らぬ景色が目に入った。
いつの間にかアパートがある住宅地を通り過ぎ、隣の工場地帯を進んでいたらしい。それでも歩き続けると、再び足首に何かが当たる。
「なに?」
見下ろすと、陰の中に指先が引っ込むところ。少しの間を置いて「早く帰れ」と亜久良の声。花帆は歩調を早める。
「おい、花帆」
「…………」
「日が暮れるぞ」
「…………」
そこかしこの陰が長く伸び、夕日がみるみる色褪せていく。どうやら思考に集中し過ぎて防災無線を聞き逃したらしい。だからといって、どうという話でもないが。
「花帆、早く——」
建物の陰の中で何かが蠢きだす。花帆は向こうの自動販売機の横にある街灯を見た。駆け足で近づき、日没と同時に光の下へ。
夜闇の中に現れるロアを見渡し、自動販売機で飲み物を買っておけばよかったと考えながら街灯を見上げた。
青白い光を発する蛍光灯に、飛んできた蛾が何度もぶつかる。どれだけ繰り返しても、光の中へ行くことなどできやしないのに。
周囲にロアが集まってきた。力尽きた蛾が落ちて、無数の腕が生えた泥のようなロアの体表に埋まる。
「何やってんだ、お前は」
足元から呆れたような亜久良の声。「カキタさまの情報を集めるんだよ」と答えると、間髪入れずに「バカか」と吐き捨てる。
「夕飯はまだ。カバンに入れてた菓子は五限目の後に食べ終えて、飲み物は学校を出る前に飲み干してパックを捨ててたな」
「隠れてそんな細かいとこまで見てたの? 変態」
「へっ、へんた……補給なしで、夜通しここで立ってる気か?」
亜久良の問いに、花帆の中で沸々と苛立ちが湧いてくる。まるで「俺がいないとお前は何もできない」とでも言われた気分だ。
「……そういえばさぁ」
花帆は足元を見下ろした。自分の陰があって、その周りに街灯の光が落ちていて、その外側にはロアが蠢く夜の闇。
「あんた、昼も出歩けるってことはさ、この光の中でも出て来れるよね? だったら、コンビニでわざわざ割り箸貰って、私の陰と外の陰を繋げる必要なんてないじゃん」
ドロドロした言葉が喉の奥から溢れ出す。
「まるで陰の中しか移動できないみたいに……あんた、ずっと私を騙してたの?」
何もかもがムカつく。
「そうやって、本当はできるのにできないフリしてさ。何、私にできると知られたらこき使われるとでも思ったの?」
感情の箍が外れたような感覚だ。
「お母さんもそうだったなぁ。お父さんと別れてから、いっつも『お金がない、お金がない』って言ってさ。私は欲しいものがあっても黙ってるしかなかった」
集まってきたロアたちが、呻き声のような言葉にならない言葉を発する。会話が成立しそうなものはない。そのことが花帆の苛立ちに拍車をかける。
「ああ、そうそう。あの日もそうだった。『お金がない』が口癖のくせに、『卒業祝いは何が欲しい?』とか聞いちゃってさ、どうせ買えないし、買うつもりも——」
夜の中に鈍色の反射光が瞬いた。長い刃が弧を描き、切り伏せられたロアが消えていく。その陰から八本足の獣のようなロアが飛び出して、亜久良が太刀でそれを突き刺し、横に薙ぎ払う。
振り向いた彼は怒るでも悲しむでもなく、ただ眉間に皺を寄せていて、
「葵衣は……」
独り言のように呟いて、それからハッとした顔で口を噤む。
花帆は久方ぶりに聞く母の名がよりにもよって彼の口から発せられたことに、頭を鉄パイプで殴られるような衝撃を覚えた。
「なんであんた、お母さんの名前知ってんの?」
慣れ親しんだ世界が崩れていく感覚。安心が疑念に裏返る。
考えてみれば、彼は最初からおかしかった。自分はそれに気づいていて、しかし気づきたくなくて、気づかないふりをしていた。
亜久良と出会った夜。花帆を助けた理由を、彼は「たまたまロア狩りに好都合な餌を見つけたから」と説明した。今この瞬間に『百目鬼花帆』を見つけたような顔をして。
しかし、帰り道、彼の足取りはアパートの場所を知っているかのようだった。部屋に入った後、当然のように棚からタオルを取ってきた。初めて入った他人の家で、あれはないだろう。
「あんた、なに?」
恐怖はない。今日まで共に積み重ねた時間があるから。ただ、確かめたい。嘘も隠し事も大嫌いだから。
それだけなのに、
「…………」亜久良は斜め下に視線を逸らし、「引き出しに入ってた、古いキャッシュカードを見た」と。
「……嘘つき」
花帆は夜闇の中を駆け出した。背後に「花帆!?」と亜久良の動揺する声を聞くも、無視して走り続ける。
「おい、花帆、待て!」
「大っ嫌い! もう知らない!」
「知らないって……おい、危険だ! 止まれ!」
「ついて来ないで!」
人間が消えた黒い静寂の中に、工場の機械の微かな低音が響く。周囲からカタカタと物音がするのはロアが動いているから。
背後で「くそっ」と亜久良が悪態をつくのが聞こえ、草履の足音が止まる。ヒュッと風を切る音は彼が振った太刀のものだろう。再び足音が鳴る。
「花帆、止まっ……お前、なんでそんなに足速いんだよ!」
花帆は「ほっといて!」と夜空に向かって叫ぶ。
瞬間――
「えっ……」
まるでスイッチを切り替えたように、周囲が真昼のような光に満ちた。花帆はギョッとして立ち止まり、反射的に振り返る。
「花帆!」
慌ててこちらに駆け寄る亜久良が見えた。




