あの日、陰の中 ④
一瞬、亜久良が神域を使ったのかと思った。しかしすぐに違うとわかった。ピッタリ隣に立った彼が、警戒心露わに太刀を構えて周囲を見回したから。
単に明るくなっただけではない。ここはついさっきまでと別の場所。
春の始まりを思わせる透明な光が満たす景色には、三百六十度見渡す限り草原が広がっている。空間全体に微かな白い霧がかかっていて、頭上には太陽のない晴天。
「亜久良、これって……」
花帆は無意識に亜久良の着流しの胸の部分を掴んだ。彼の手が腰に回される。有事の際に花帆を担ぎ上げて退避するためだろう。
「おそらく、アマガザキ駅と似たようなもんだろうな」
花帆が「また異界」と呟くと、亜久良が短くため息をついた。
「昔から異界型の異類はそれなりにいたが、こんな頻度で出くわすもんじゃなかった」
「最近になって増えたってこと?」
「ああ。人間が『ここではないどこか』をよく想像するようになったからか……くそっ、想定外だ」
亜久良が「離れるな」と言って腰の手に力を込める。花帆は周囲を見渡した。
清々しい晴天。霧のかかった景色はどこか幻想的で、地平の緑と空の青のコントラストは架空の楽園のよう。
しかし、見ているとなぜか不安に駆られる。完璧すぎる美しさが逆に胡散臭い。
風が吹き、さらさらと音を立てて草が揺れる。その軽やかな音色の隙間に、微かな流水音が聞こえた。
音の方を振り返った花帆は、「亜久良、あれ」と指差した。彼もまた振り返り、「あれは……」と独りごちる。
いつの間にか現れただだっ広い川が、平坦な地平を左から右へ流れている。川のほとりの至る所に石が積まれていて、その向こうは濃い霧が立ち込めていて見えない。
「三途の川?」
亜久良が疑問符を溢す。同時に、周囲にサクサクと軽い足音が鳴り出した。何人もの子供が駆け回るような音だ。
それから、無垢な子供の高い声。
「迷ったの? 迷ったの?」
花帆はその問いかけに、暁斗のブログの記事を思い出した。
「亜久良、これ、境界町だよ」
亜久良が「なんだそれ」と眉間に皺を寄せる。
「夜道で急に違う場所に引き込んでくるロア。そこは現実と空想の隙間だって言われてる」
「またクソみたいなオカルト由来のロアか」
「でもよかったよ。境界町には必勝法があって、問いかけに答えると——」
また子供の声が「迷ったの? 迷ったの?」と尋ねてくる。花帆は空に向かって「今から帰るところ!」と答えた。
こう言えば、次に境界町は「そっか」と答え、元の場所に戻れるはず。
しかし、
「違うでしょ」
少しトーンを落とした声が言い、足音が遠ざかって消えた。静寂が流れる。
「……おい、花帆」
「あ、あれ? なんか知ってるのと違う」
「お前、今度は何した?」
「ちょっ、何その言い方。私は何も間違えてないから!」
「責めてるんじゃない。状況確認だ」
亜久良が周囲を警戒しながら言う。花帆もまた景色に視線を戻し、いつの間にか川が消えていることに気がついた。
「神崎くんのブログに書いてあったの。境界町は手順を間違えなければ必ず無傷で帰れる、珍しいロアだって」
「ほう」
「問いかけに『今から帰るところ』って答えれば、境界町は『そっか』って答えていなくなる、はずなんだけど……これ、境界町じゃないのかな?」
「……なるほどな」
「なに?」
「おそらく、こいつはその境界町に間違いないだろう。暁斗のブログの内容が、これの現象の全てじゃなかったってだけだ」
亜久良は「あれだ、あれ……」と考えるように視線を動かし、「ああ。『生存者バイアス』と花帆を見下ろす。
「『今から帰るところ』と言った人間のうち、境界町が『そっか』と答えた場合だけ帰ってきた。他の奴らは戻らなかったから、知られてない」
「じゃあ、私たちは……」
周囲に危険はないと判断したのだろう。亜久良が腰から手を離した。花帆は一歩後ろへ下がり、硬い何かを踏んだ感触に足元を見下ろす。
「ひぃっ!」
青々とした草の陰に、ボロボロの布を纏う白骨死体が転がっていた。
「あ、亜久良ぁ!」
花帆は咄嗟に亜久良に抱きつき、疑問符を浮かべた亜久良が地面を見下ろす。ひょいと彼女を担ぎ上げ、ゆっくりと歩き出した。
「ロアを斬って出ようにも、斬る対象がない」
それから「ままならんな」と独りごち、死体のない場所に花帆を下ろす。
「お前はここにいろ。一歩も動くな」
そう言う彼の表情は、何となく、何かを諦めたよう。花帆は咄嗟にその手を掴んだ。
「あんたはどうするの?」
「俺の神域でこいつを飲み込んで、俺のルールを適用させる。近くにいたらお前を巻き込むから、一度離れるだけだ」
「それで勝てるの?」
「ああ」
「じゃあ、なんでそんな顔してんの?」
亜久良が「顔?」と疑問符を溢す。花帆が「これから負けに行くみたいな顔してる」と言うと、「ハハッ」と乾いた笑みを浮かべた。
「こんなもんに負けはしないが……まあ、『俺』に負けるようなもんだからな」
自嘲気味に言い、傍らに太刀を突き立て、開いた手でそっと花帆の手を剥がす。
「帰ったら説明する。……だからもう、逃げないでくれ」
花帆の中の亜久良のイメージは『大雑把で大胆』。しかし、今目の前にいる彼は、少しでも何かを間違えれば粉々に砕けて消えてしまいそう。
「……わかった」
言うと、亜久良は「すぐ戻る」と踵を返して駆け出した。青と緑の景色の中、朽葉色の後ろ姿がみるみる小さくなっていく。
花帆はそれをずっと見ていた。目の奥が痛くなるほど遥か彼方まで、ずっと。
亜久良の後ろ姿が見えなくなって、数秒後。またスイッチを切り替えたように、周囲に夜闇が戻ってきた。




