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あの日、陰の中 ②

 朝。最近急にうるさくなった蝉の声に、花帆はうんざりしながら目を覚ました。起床には少し早い。二度寝するか考えるも、目覚まし時計を消して起き上がる。


 テケテケの件から一週間が経過した。亜久良は未だ陰に入ったままで、声をかけても返事はない。


「あれ?」


 しかし、寝室を出ると、テーブルの上に朝食の皿が乗っていた。


「亜久良、腕治ったの?」


 花帆は足元の陰を見下ろして尋ねる。少し待ってみるが返事はない。


「ねえ、亜久良、聞いてんの?」


 沈黙だけが返ってくる。


「ちょっと!」花帆は片足を上げ、「無視しないで、よっ!」陰を踏みつけた。


「…………」


 足元をじっと睨みつける。長い沈黙が流れ、花帆はため息をついてテーブルへ向かった。


 茶碗に盛られた白飯と野菜たっぷりの味噌汁、それから卵焼きとソーセージ。すっかり日常に溶け込んだ、亜久良が作るいつもの朝食。


「……せっかく、あのロアの名前がわかったのに」


 椅子に座り、箸を取る。


「あんたがいないんじゃ、夜に出かけられないじゃん。ロアに聞き込みしたいのにさ」


 ソーセージを口に放り込み、咀嚼しながら考え、


「そうやって無視して出て来ないなら、私一人で行くよ?」


 少し待ってみるも、やはり返事はなく。花帆が諦めて卵焼きを摘んだところで、「もうやってる」と足元から亜久良の声がした。


「『やってる』って?」

「昨日と一昨日、お前が寝てる間に調べに行った」

「一昨日も? なんだぁ。ずっと返事しないから、てっきりそれくらい治すのが大変なのかと思ってた」

「…………」

「心配して損した!」

「…………」

「……ねえ、だったらどうしてずっと無視してたの?」


 また沈黙。花帆が「ねえ」と返事を急かすと、少し野間を置いて「『カキタさま』は」と亜久良の声。


「一時避難結界の形をしてる場合と、赤い鳥居の小さな神社の形をしてる場合がある。出現場所は林の中、あるいは市街地の物陰」

「私は無視した理由を聞いてんだけど」

「ロアたちは人間を探してそこへ近づき、カキタさまに出くわした」

「ねえ、亜久良!」

「鉛白色の髪の、浅葱色の瞳の青年だとよ。お前の母親を殺したロアと特徴が同じだ。お前の復讐相手は『カキタさま』で間違いない」

「ねえってば!」


 花帆が陰を踏むと、亜久良はぴたりと言葉を切った。


「どうして私を無視して、一人でカキタさまを探しに行ってたのか。私は今、それを聞いてる」

「…………」

「亜久良」

「……しゃべったら、お前、カキタさま探しに行くって言うだろ。俺が行くのを知ったら止めてもついて来る」

「当たり前じゃん」

「だから黙ってた」


 花帆は反論しようとするが、それより早く「最初からこうすればよかった」と亜久良が続ける。


「ここにこもってたって、ロアは寄ってくる。お前が夜に寝てる間に俺が奴らを斬って、情報集めをすればいい」

「復讐は私の問題だって前にも言ったでしょ。何もしないで待ってるだけなんて嫌」

「来たってお前は何もできないだろ」

「ロアを呼び寄せられる」

「それはここにいても同じだ」

「〜〜っ! この前、テケテケは私が倒した!」

「たまたま、運が良かっただけのことだ」

「そんなことない。私、ちゃんと作戦立てて動いたもん」

「少しでもタイミングがズレてたらお前は死んでた。俺があれの腕を切り落とさなかった場合も、お前は死んでた」


 亜久良は短くため息をつき、


「お前はただの人間だ。失った腕は生えて来ないし、腐った体は元に戻らない。失血とか、敗血症とか、色々な理由ですぐに死ぬ」


 諭すような、どこか突き放すような声色。花帆は朝食を食べながら思考する。


 彼は『百目鬼花帆』を足手纏いと言いたいのか。ずっと一緒に夜を歩いてきたのに、今更。


 テケテケとの戦闘で、彼は明らかに圧されていた。あのまま戦い続けて勝てたとは思えない。だから自分は役に立ったはずなのに。自分がいたから倒せたはずなのに。


(あっ……)


 ふと、アマガザキ駅の言葉が脳裏をよぎる。


『もしかして、お姉ちゃんがいるから?』


 自分が近くにいなければ、亜久良は神域を使ってテケテケを倒すことができたのだろうか。神域はその異類の絶対領域。彼のそれは、少なくともアマガザキ駅のそれを凌駕している。


(私は足手纏い……)


 ならば彼の主張は全て正しい。招かれざる異類が侵入できない自宅において、花帆の安全は絶対で、外で戦う亜久良は防衛を考えずに済む。


 理屈ではそうするべきとわかる。しかし——


「夜は異類の領域で、人間は寝る時間だ。だから、今後、お前は連れて行かない。得られた情報は朝飯の時にでも——」

「嫌」

「お前がわざわざ危険に飛び込む謂れはない。そもそも戦闘は俺の領分で——」

「嫌」

「なんでだよ。これはお前の安全のためでもあるんだぞ」

「知らないよそんなの! 嫌なものは嫌なの!」

「花帆、わがまま言うな」

「あんたこそ勝手なこと言わないでよ。復讐は私の問題だって言ってるでしょ!」


 花帆は陰をドスドス踏みつけ、茶碗の白飯をかき込んだ。亜久良が「おい」と声をかけてくるも全て無視。自分の言動を悔い改めろと思う。


(……なんで私、こんなにイラついてるんだろう)


 味噌汁の野菜を頬張り、汁を一気に飲み干す。卵焼きもソーセージも味わうことなく飲み込んだが、舌は脳に温かな温度を伝えた。


 食べ終えた皿を持って立ち上がる。陰から一瞬だけ顔を覗かせた亜久良が、「なんで怒ってんだよ」と独りごちて戻った。


(そんなの、こっちが知りたいよ)


 頭では、亜久良の言う通りにするべきだとわかっている。論理的に納得しているし、それが自分に何ら不利益を及ぼすものではないとも思っている。


 しかし、感情がこれを拒絶している。置いて行かれるのは嫌だと、子供のように喚いている。


(私、何がしたいんだろう)


 食器洗い用のスポンジに洗剤をつけ、皿をゴシゴシ擦り、蛇口を捻る。皿洗いが終わるまで花帆はずっと考え続けたが、結局答えは見つからなかった。



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