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あの日、陰の中 ①

 蓄積した情報が質量を有して『亜久良』となった時、それはありふれた戦神の姿をしていた。


 戦うだけが能の荒くれ者。彼は自らを成す情報の由来を知らないが、戦で名を上げた侍と土着の鬼信仰が混ざり合ったのだと推察している。


 それから長きに渡り、亜久良はその情報のまま行動を続けた。


 戦で劣勢の側に現れ、状況をひっくり返す。命乞いをする大将の首を落とす。裏切り者を皆殺しにする。


 ひたすら戦い続けて幾星霜。気づくと、何処ぞの村の守り神になっていた。


(どうしてこうなったんだったか……)


 なぜ自分はここにいるのか。そんなことを考えかけてすぐにやめた。


 元より、自分は『何者か』として生まれた身。己の在り方は己の意思によらず、従って、自己のあり方など考える必要はない。


 再び長い時間が経つ中で、『亜久良神』の情報は人々が語り継ぐごとに変質していった。


 いつの間にか村に石碑が建てられて、人々が毎日拝みに来るようになった。祈りを捧げれば幸福の神の世界に行くことができる、などと、彼らは至極当たり前に信じているようだった。


「亜久良様、どうか我々を貴方様の世界へ導いてください」


 亜久良はその言葉を「神域へ連れて行け」という意味と理解した。そこに誤解はない。


(つまり、俺がこいつらを神域に連れて行けば、こいつらは幸せになれるってことか)


 自分はそのように生まれさせられた。ゆえに、そのようにある。


 亜久良は村を神域で包んだ。


 薄霧のかかった明るい景色に、豪奢な家が並んでいる。家の中には食べても減らない食事と色鮮やかな衣服がある。貧しい村の住民はそれを喜び、感謝し、堪能した。


「そろそろ田んぼの様子を見に行かなきゃなぁ」


 ふと誰かが呟き、皆が言い出した。そろそろ村へ帰らせてください、と。亜久良は言われた通りにした。


「はて、この石碑はなんだったか?」


 村へ戻った人々は、亜久良の石碑を見て首を傾げた。神域へ行ったことも、自分たちが祀る神のことも忘れていた。


『亜久良神は人々を神の世界へ導く』——そう信じていたのはこの村の住民だけで、亜久良の体を構成する情報は、外の人々の『神隠しに遭ったら記憶を失う』が大半を占めていた。


 亜久良は生まれながらに自分が何者か知っていたが、いつの間にか別のものに変質し、そのことに気づかなかった。


「おい、お前ら。急にどうしたんだ?」


 村人に尋ねると、皆「ヒイッ!」とか「鬼だぁ!」などと叫んで逃げ出した。この時の亜久良は何が起きているのかわからず、ただ村人たちの変わりように驚いて石碑の陰の底へ姿を隠した。


 それからしばらく。村人たちは『亜久良神』に関する記録を元に再び信仰を始めたが、齎されるはずの奇跡が一向に訪れないことから、やがて亜久良を祀ることをやめた。


「こんなもん嘘っぱちだぁ」


 石碑は村の端に放置され、亜久良は忘れ去られた。


 また長い年月が経ち、村が廃れ、誰もいなくなった。拓かれた土地に草木が芽吹き、葉を茂らせ、村は森に変わった。


 その間、亜久良は何度か陰を出て、人の街を見に行った。


 ある時向かった先では、見たことのない奇妙な服を纏う人々が歩いていた。それが『洋服』というものであることは後になって知った。


 またある時、夜空が赤く照らされるのを不思議に思って見に行くと、町が真っ赤に燃えていた。それが『戦争』によるものだと知ったのは、人々が首を垂れる夏を目の当たりにした時だった。


(『戦争』……俺が知ってる戦と違う)


 自分が何をすればいいのかわからないまま時が過ぎた。やがてこの国の全ての夜を電気の街灯が照らすようになり、亜久良の居場所はなくなった。


(あとはこのまま、消えるだけか)


 徐々に薄らぐ自分の存在を感じながら、石碑の陰に身を隠し、また長い歳月が経過した。



 ある夏の日、石碑の傍らのやがて消える土道に一台の車が停まった。


「もうっ、やっぱりさっきの道は左に行くべきだったのよ」


 ドアが開き、三十歳くらいの女が困り顔で言いながら降りる。反対側から降りた男が「絶対にこっちだと思ったんだけどなぁ」と後ろ頭を掻き、


「お父さん、方向音痴すぎー!」


 男の後ろのドアから出てきた子供が、心底楽しげにカラカラ笑った。


 六歳くらいの女の子。亜久良が今まで見てきた人間の中では色素の薄い、焦茶色の柔らかそうな髪が夏の風を受けて揺れる。「ここはどこー?」と言って、黒橡色の瞳が周囲を見回した。


 男が「ちょっと待ってなぁ」と言って紙の地図を開き、車の上に置いて「うーん」と首を傾げる。子供は一緒になって首を傾げ、それからふと、亜久良の石碑を振り返った。


 子供が近づいてきて、石碑の前にしゃがみ込む。亜久良はその様子を陰の中から見上げる。子供が顔の前で手を合わせ、


「月曜日のテストでいい点が取れますように!」


 目を閉じ、言った。


(『てすと』って、なんだ)


 内心で独りごちた亜久良はふと、自らの内に温かいものを感じた。


「花帆、何してるの?」


 女が尋ね、子供が振り返る。


「テストでいい点が取れるようにね、お願いしたの」

「? それはただの石よ。お願いは神社でするものでしょ」

「うーん、そうなんだけど……」


 黒橡色の瞳が再びこちらを向く。亜久良は温かいものの正体を知った。


 これは彼女の認識が生み出した情報、あるいは信仰。未だ世界を知らない幼子が見る、世界の隙間の可能性。


 子供が立ち上がり、踵を返す。亜久良は「待て」と言いかけて口を噤んだ。


「ん?」


 子供が振り返る。咄嗟に思い出したのは、こちらを見て「鬼だぁ!」と叫ぶ村人の顔。自分の額にはツノがある。これをこの無垢な瞳に映すわけにはいかない。


「花帆、行くわよ」


 女が呼び、子供が「はーい」と答える。小さな足が車の方へ踏み出し、石碑に重なっていた子供の陰が離れた。


(待ってくれ)


 亜久良は内心で叫んだ。


(『てすと』が何か知らないが、俺にはできることがあるんだ。戦うだけじゃない。きっと、もっと——)


 そこでふと気がついた。自分がなぜ、あの日、村人たちを神域に招いたか。望まれたからだと思ったのは、自らの思考の表層だけの理解。


(一緒にいたかった)


 祈りなどいらない。畏れられるなどまっぴらごめん。村の一員でありたかった。互いに支え合う人々の隣にいたかった。


 誰かと一緒にいたい。一緒にいてほしい。


 亜久良は離れていく子供の背中に手を伸ばしかけるも、終ぞ陰を出ることはできなかった。過去の過ちが彼を躊躇わせた。そうこうしているうちに車のエンジンがかかり、遠ざかっていく。


 打ち捨てられた石碑の傍らで、胸の中に残った温もりを感じる。たった一人の子供が生み出した僅かな情報。異類の姿を変えるにはあまりに少なく、人々に忘れ去られた自分を延命する力などないが、ずっと感じていたいと思った。


(『てすと』もそうだが……まず、今の時代を知らなきゃならないな)


 そして亜久良は陰を出た。人間の街へ行き、夜を彷徨い歩き、現代の知識を得ながらあの子供を探した。


 そうしてまた十年ほどの時間が流れ、ようやく見つけた少女は、あの日の笑顔を過去のどこかに置き忘れてしまったようだった。



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