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わからないものは恐ろしいから ②

 森井栞はアパートの敷地内にある祖母の家で暮らしている。高校卒業までは実家で両親と暮らしていたが、大学がそこより祖母の家の方が近いため引っ越した形だ。


 二階にある栞の部屋からは、アパートの外階段がよく見える。


(また出歩いてた)


 夜。そろそろ寝ようかと読んでいた本をしまったところで、栞は外の人影に気がついた。花帆と亜久良が並んで歩いている。


 花帆が苛立った様子で何かを言い、亜久良が両手を頭の後ろで組んですっとぼけた顔をする。花帆が地団駄を踏み、亜久良の脛を蹴り、驚き顔の彼を見て楽しげに笑う。


「すっかり仲良しじゃん」


 二人がアパートの階段を登り始めたところで、栞はふと、初めて亜久良と会った日を思い出した。


 花帆が中学三年生の冬の夜。何の気なしに窓の外を見た時だった。


 今と同じように人影を見つけ、驚いて目を凝らし、花帆の手を引く男の額に二本のツノを見た。


 異類は高密度の情報が質量を得たもの。触れられるが、その存在は人間と異なるルールの上にある。故に人は異類を駆除できず、神隠しから逃れる術をもたない。


 それでも、玄関脇の傘を掴んで外へ出た。あの異類の手から花帆を助け出さなければ、と。


 何かがおかしいと気付いたのは、走りながら傘を振りかぶった時だった。花帆はしくしく泣いていて、その手を引く異類は見るからに困った様子。


「あんた、なんなの?」


 傘を半端に下ろして尋ねると、異類は花帆と栞を交互に見やり、こちらを向いて「薬箱を貸してくれ」と手を出した。


 *


「栞ちゃん。お茶でも飲まんかね」


 考えていたら、突然襖が開いて祖母が顔を覗かせた。栞は壁時計を見上げ、「ばあちゃん」とため息をつく。


「また花帆のGPS見てたの?」

「そんなんじゃないよ。ただなんかねぇ、お茶が飲みたくなっちゃって」

「心配してたら目が覚めちゃったんでしょ」

「違うよぉ。羊羹でも切ろうかねぇ」


 祖母が言いながら歩いて行く。栞は「こんな時間に食べたら太るよ」と言って部屋を出た。


 居間の炬燵に祖母と向かい合って座る。


「いっそ亜久良を追い出せば、花帆はちゃんと寝るようになるかな」


 祖母が湯呑と羊羹の皿をこちらに差し出し、「そう簡単なもんじゃないよ」と微笑む。


「ばあちゃんのばあちゃんの家には、時々異類が来たんでしょ? 昔の異類は夜じゃなくても出歩けたから」

「そんな話をよく聞いたねぇ。ばあちゃんが子供の頃には、もういなくなってたけど」

「その頃はどうやって追い出してたの?」

「追い出す追い出さないってもんじゃないよ」


 祖母はゆったりとした動きで羊羹を切り、「異類……カミは、ただそこにあるもんだ」と言って口に入れた。


「『枕を北に向けない』とか、『夜に爪を切らない』とか、『刺し箸はダメ』だとか……昔のいろんな決まりは、カミと一緒にいるためにあった」

「神隠しされないように、たくさんルールが必要だったってこと?」

「そんなおっかない話じゃないよ。ただ、なんだろうね……今でいう、電車の中では静かにするとか、バス停では並んで待つとか、そんなのと同じさ」

「……どういうこと?」


 栞はズズっと茶を啜り、大口を開けて羊羹を齧った。祖母が「美味いかい?」と尋ね、「うん」と答える。


「カミは、今のロアみたいな、あんなおっかないもんじゃなかったんだよ」


 湯呑みを見下ろす祖母の目元に、過去を懐かしむような淡い笑みが浮かぶ。


「隣人みたいなもんさ。ただそこにいて、時々悪いことをしたり、いいことをしたり。……今はもう、みーんないなくなって、その時の決まりだけが古い生活の習わしとして残ってる」


 それでいて、目元の皺には寂しさが滲むよう。


「決して交わらず、けど、いつも隣にいる。時々触れてもすぐに離れて、でも見えないほど遠くには行かない。そんな関係だったんだよ」

「へえ。なんか平和でいいね」

「そうだねぇ。……だからばあちゃんは、花帆ちゃんが心配だよ」

「亜久良がロアかもしれないから?」


 祖母が「そうじゃない」と言いながら顔を上げ、アパートがある方角をぼんやりと見つめる。


「昔から異類婚姻譚なんかの話はあるけどね、往々にして、その子らは幸せにならない。どっちかがどっちかの世界を捨てることになる」

「婚姻、譚……えっ、ばあちゃんから見て、花帆と亜久良は結婚しそうに見えるの?」

「そりゃあねぇ。一緒に暮らしてんだもんよ」

「あの二人はそんなんじゃないよ」

「そうかい? でもばあちゃん、この前見たんだよ」

「……な、何を?」

「亜久良が花帆ちゃんをお姫様抱っこしてるとこ」


 祖母が難しそうな顔で羊羹を食べる。栞は彼女の不安を杞憂と結論するも、何となく引っ掛かりを覚えていた。


 *


 羊羹を食べ終えて自室に戻った栞は、花帆の部屋の電気がついていることに気がついた。レースのカーテンの向こうに、二人分のシルエットが浮かんでいる。


(そういえば最近、昼間に亜久良の声がする時がある)


 昼は人間の領域。太陽が照らす明るい景色は、ロアが蠢く夜闇と別世界であるかのよう。


 亜久良はロアが生まれる前の古い異類。祖母が語る、彼らと人間の世界が昼と夜で分たれていなかった時代の残滓。


(本当は何ができて、何ができないのか……)


 カーテンの向こう。小柄な方の影が大きい方に飛びかかり、大きい方がそれを受け止める。


 窓を開けると、初夏の夜の空気に混ざって、「さっさと寝ろ!」と亜久良の怒号が響いてきた。



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