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わからないものは恐ろしいから ①

 母が神隠しに遭ってから亜久良と出会うまでの日々の中、花帆の日常は日に日に昼と夜の境界を失いつつあった。


 毎夜アパートの部屋を囲むロアの群れ。全ての窓のカーテンを閉めて、玄関のドアスコープにガムテープを貼って閉ざしても、覗き見られる感覚は消えなかった。


「アケテヨ、アケテヨ」


 ロアの声と、窓ガラスを引っ掻く音。ただただ恐怖に震え、布団を被って朝を待つ日々。


 ようやく朝を迎えても、絶えず何かに見られている心地がする。日の光の下を歩いていても、路肩の陰から何かが飛び出して来るのではないかと気が気でない。


 昼も夜も変わらない。花帆の心が休まる時はなかった。


 死体になって戻った母を見てからは、その姿が常に瞼の裏に張り付いていた。自分もいつかああなるのではないか、と。


 怖い。嫌だ。助けてほしい。しかし、助けてくれと縋る相手がいない。呼べる名前がない。


 そんな日々を過ごし、至った冬の底のこと。


 ある日の学校帰り、花帆はふと、アパートに戻るのが嫌になった。昨日と同じ夜を過ごすのはごめんだ。別の夜に行きたい、と。


 心労や寝不足、不摂生が相まっておかしくなっていたのだろう。


 何かを考えてのことか、何も考えていなかったのか。花帆は帰り道を逸れて、いつもと違う道を歩き始めた。やがて道に迷い、それでも足を止めず、見知らぬ路地を彷徨い歩く。


 夜が来た。


 そこかしこの陰が蠢き出すのを見て思い出したのは、クラスの女子たちの噂話。辛い人生に嫌気がさした人間は、()()()()()()()()()らしい。


(私も……)


 そう思う反面、花帆は走り出した。


「ネエ、見テ、ワタシヲ、見テ」


 ロアの声が追いかけてくる。必死に駆ける自分は確かに自分だが、その行為をどこか遠く感じる。


 自分は何をしているのか。どこかに行きたかったはずだ。昼も夜もないどこかへ。


 死なない恐怖を繰り返すより、一番大きな恐怖を一時的に受け入れた方が合理的。終わりにしたい。ずっとそう願っていた。


 それなのに、自分は今、逃げている。どうして、どうして、どうして。


(こんな毎日が続くなら、生きてたって……)


 訳のわからないことを訳もわからず考え続け、ひたすら走る。両足が徐々に重くなり、肺が悲鳴を上げ、気管がキリキリと痛み始めた。


 背後にロアの声。逃げ続けることはできない。もう走れない。


(……なんか、バカみたい)


 思った瞬間、花帆は足を止めた。振り返ると、泥の波のようなロアの群れがこちらへ迫るのが見えた。


 もう嫌だ。何もかもが面倒くさい。どうせ逃げ切れない。そもそも、もう、走れない——


「なんなのっ!?」


 諦めようと思うのに、それでも踵を返し、一歩を踏み出す。頭では何をしても無駄だとわかっているのに、本能に似た何かが立ち止まるなと叫んでいる。


 バカらしい。逃げたって何にもならないのに。誰に助けを求めることもできないのに。


「お母さん!」


 母は死んだ。愚かな娘の身代わりになって死んだ。呼んだところで来やしない。死んでしまったのだから。


「お母さん! お母さん!」


 無駄だ。何もかもが無駄だ。わかっているのに。


「お母さっ、お母……さ……」


 思考と体が乖離している。


「ううっ……怖いっ、お母さ……助けて、お母さん!」


 足がもつれて転ぶ。どこが痛むのかわからないまま顔を上げる。道の先にポツリと立つ街灯が見えた。


 あの光の下に入ったところで、ロアが諦めて去ることはないだろう。壁もカーテンもない場所で囲まれて夜を過ごすことになる。


 逃げ出したかった昨日より最悪な状況。それを予感してもなお、花帆は立ち上がった。両膝から生温かいものが滴る感触。気にせず踏み出す。


 しかし、もう、歩くこともままならない。喉が痛んで上手く呼吸ができない。足が鉛のように重い。


 ロアの声が迫る。自分が何をしているのかよくわからない。ただ踏み出す。光の方へ手を伸ばす。


「お母さん」


 瞬間、背後でザリっとコンクリートを踏む音がした。ロアの声がぴたりと止み、かちゃっと金属が触れるような硬質な音。


「?」


 振り返ると、朽葉色の羽織の後ろ姿があった。その向こうには崩れて消えゆくロアの山。人影がこちらを向き、黄金色の瞳と目が合う。


「……お母さん」


 花帆はその場にへたり込み、うわごとのように呟いた。街灯の光がジジッと小さな音を立て、黄金色の瞳の男が顔を顰める。


「俺はお前の母ちゃんじゃねぇ」


 それから、「帰るぞ」とこちらに手を差し伸べた。花帆は何が何だかわからないまま無骨な手のひらを見つめ、


「……帰、る?」


 男の顔を見上げる。呆れているような、苛立っているような表情の男の額で、黒いツノが街灯の光を反射した。


「あんた、ロア?」


 男は「違う」と短く答え、ため息をつきながら花帆の手を掴んだ。「立てるか?」と言ってそっと引く。


 花帆が立ち上がると、男はその両膝を見て「あーあ。ワンパク小僧みたいになってんぞ」と再びため息をつき、「負ぶうか?」と疑問符を発する。


「『おぶ』ってなに?」

「……背負ってやろうか、って聞いてんだ」

「ううん。歩ける」

「そうか」


 男が花帆の手を握ったままゆっくりと歩き出した。花帆は擦り剥いた膝を庇いつつそれに続く。ふと視界の端に鮮やかな色彩を認めて振り向くと、男の腰にぶら下がる朱色の鞘が目に留まった。


「ロアじゃないなら、なに?」


 尋ねると、男はしばし考え顔をして、「亜久良」とだけ答えた。



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