第九話
目覚ましが鳴る一時間前に目が覚めた。
青いカーテンの裾から僅かな朝日が差し込んでいる。
そうだ、と焦ってスマホでメールを開く。夜に送って、こんなに早く返事が来るとも思ってない。思っていないけど、期待だけはしている。
未開封の新着メールが先生から届いていた。はやる気持ちで開封する。
軽い挨拶と、菅原さんの相談を引き受けますよと書いてある。
「――やった」
口をついてでた。
この人が味方になってくれるなら、心配ない。良かった。急いで返信メールをプリントアウトする。メール本文には、先生の事務所名や電話番号が載っている。
印刷した紙を持って寝室からリビングへ続く引き戸をそっと開けた。
オレがいつもより早起きしたからか、菅原さんはまだリビングでマットレスの上に寝ていた。折り畳み式のマットレスは菅原さんには小さいらしい。足首から先がはみ出ている。
イタズラ心が湧いて、その足裏を小さくくすぐっみた。
「んー……」
菅原さんは小さく唸ってもぞりと寝返りを打ち、薄く目を開けた。目が覚め切っていないのだろう。まだ焦点が合わない様子で、菅原さんはオレを見た。
菅原さんの顔の前に、プリントアウトした紙を掲げる。
「ん……ハルくん早いね……どうしたのお腹すいたの……?」
菅原さんはそう言いながら、開け切らない目をつむり、片手だけ伸ばしてくる。そのまま、オレのこめかみから髪を後ろに撫でつけた。
「朝ごはん、ちょっと待っててね……」
そう言いながら、菅原さんはまた布団に潜り込む。
「菅原さん、やったよ、味方を見つけた」
寝返りをうった菅原さんの背中に向かいそう呟く。
菅原さんはそのまま小さな寝息を立て始めた。
無理に起こすのも忍びなくて、先生からのメールを二つ折りにして、リビングのローテーブルの上に置く。
マットレスの枕元に腰を下ろした。
いつもと違う時間帯のリビングを見渡す。
つるつるのフローリング。埃が溜まっていない角。窓のそばに置かれた電子ピアノ。カーテンの向こうに、日はまだ昇っていない。
菅原さんを起こさないように、そっとキッチンに回り込んだ。グラスに氷を入れて、ペットボトルの水を注ぐ。冷たさが、喉を滑り落ちていった。
目の端に、いつのまにか、キッチンのハイカウンターに置かれたサボテンが映った。そのサボテンを、管原さんは大事に育てているみたいだ。
忍び足でソファに横から登り、膝を抱えた。
ソファの上で三十分ぐらいぼんやりと過ごしていたら、小さなメロディが鳴って、菅原さんがむくりと上半身を起こした。
「おはよう」
オレから声をかける。
菅原さんはベッドの上から、ソファで膝を抱えているオレを見て眠気を飛ばすためか何度も瞬きした。
「……え、ハルくん早起きだね、早残?」
「早残は予算の関係でもう禁止。じゃなくて」
ベッドの上で開け切らないまぶたをこじ開けようと頑張る菅原さんに、腰をあげ二つ折りにした紙を向ける。
「先生、引き受けてくれるって」
「え」
菅原さんが目を見開く。
「大丈夫。仲直りか全面戦争か分かんないけど、菅原さんの味方ができたよ。いい先生だから、安心して」
菅原さんは、長い指を伸ばし、オレの差し出した紙を受け取った。
そのままそっと開く。
「……ありがとう」
「いや、オレは大してなんも」
あぐらをかいて菅原さんと視線の高さを合わせた。
菅原さんの瞳は、どこか揺れている。
「――ありがとう、十分だよ。ありがとう」
出勤したら、人事評価の期末面談で課長補佐に呼ばれた。
もうそんな時期かと思う。まだ特に内示がないから、オレは春からもここにいるんだろう。
ノックをして会議室の扉を開ける。
「齋藤さん、お疲れさま」
入り口からコ型に配置された奥の席に、補佐が穏やかな表情で座っている。
「お疲れさまです」
軽く会釈をして、補佐の向かいに腰掛けた。
「今日は齋藤さんに朗報があって」
小首を傾げ、補佐の表情を見る。いたずらを背中に隠す子どもみたいな顔をしている。
「朗報ですか、なんでしょう」
「高橋さんが帰ってくるよ」
心臓が跳ねる音がした。胸元を押さえて、補佐の顔を見る。
「先日の産業医面談でゴーサインが出た」
「……マジですか」
ごくりと唾を飲み込んだ。
補佐は満足げに頷く。
「この部署も大変だっただろう。増員もなく、既存の職員にどうにか回してもらっていたけど。まあ高橋さんの代わりなんて頭数だけ増やしても意味ないけどね」
オレは深く頷いた。
そう、先輩の代わりなんて、いない。
先輩の人好きする目元のシワも、保護者や子どもたちを安心させる微笑みも、部下に見せる凛とした背中も、怒涛のように記憶が蘇ってくる。
「もちろん、まだ無理はさせちゃいけないからね。完全復帰まではゆっくりだ」
「もちろん、もちろんです」
握りしめた手が、わずかに汗ばむ。
補佐は天気の話をするかのように軽やかに口を開いた。相変わらず本心は全く見えない人だった。
「平均残業八十時間越えのこの部署も、ようやく回るときが来たかな。安心したよ」
帰りに、駅前のフラワーショップで花束を買った。
桜のつぼみがついた枝と白い小さな花になんだがおしゃれっぽいグリーンが入った花束だ。
先輩の快気祝いと、菅原さんの悩み事もちょっと解決するかもしれないのとで、乾杯したくてスーパーで缶ビールも数本買った。
駅までの道を、夜空を見上げながら帰る。
数ヶ月前までは、アスファルトを見つめながら出勤していた。最低限生きるだけの食事をして睡眠を取って。仕事は好きだけど、人間には嫌気がさしていた。
夜の冷気を肺に取り込んで吐き出した。
今は、違う。
家に帰ると、菅原さんがいる。食事があり、眠れる。反吐がでるほど憎らしい人間もいるけど、世界が嫌いなわけじゃない。前を向いて歩き出した少年もいて、先輩は復帰する。
右手に抱えた花束を見た。
花なんて、買ったのはいつ以来だろう。覚えているのは五百円玉を握りしめて花屋に行って、母親に買った記憶が最後だ。
大きな芍薬を一本、大事に持って帰った。あのときの母の嬉しそうな顔を思い出す。
鼻を啜る。少し感傷的になっているみたいだ。
目尻を軽く拭って、マンションのエレベーターに乗る。
玄関扉を開けた。あたたかいオレンジの明かりが満ちたリビングに、煮込み料理の香りが漂っている。
「ただいま」
菅原さんは今日も、そこにいた。ラフなシャツにラフなズボンを履いて。
「おかえり」
柔らかいトーンは、いつもあたたかい。
「いい匂い。腹減った!」
感傷を吹き飛ばすように、元気そうに聞こえる声を作った。
菅原さんは、テーブルを拭いていた手を止めて振り向く。
「今盛り付けるから、ちょっと待っててね。ん? え、花?」
スリム型の食器棚から茶碗を取り出した菅原さんが、興味深い目を花束に向ける。
「もらったの?」
「ううん。先輩の快気祝いと、菅原さんの門出に自分で買った!ビールも買ってきた!」
菅原さんは目尻を下げ、くしゃりと笑う。
「え、嬉しいな。ありがとう。いいね、飲もう」
洗面台で手を洗い、花瓶代わりにペットボトルに水を注いで花束をつっこんだ。
気持ちだけ見栄えを整えて、四角い二人がけ用のダイニングテーブルの真ん中に置く。テーブルに花があるだけで、部屋が華やいで見えた。
菅原さんが、お茶碗を運んでくる。
「へぇ、桜の枝を使った花束なんてあるんだね。綺麗だな」
「でしょ、これなら桜いつ咲くのかなーって家の中でも楽しみじゃん」
目の前に並べられたお茶碗からは湯気がふわふわあがっている。豚汁と鯖の味噌煮。鯖にはつやつやの味噌がかかっている。
二人でいただきますと手を合わせた。
菅原さんは、早速弁護士の先生に連絡を取ったと報告してくれた。
「ハルくんから、喧嘩してもいいし仲直りしてもいいんじゃないって言われたんですって言ったら、先生笑っていたよ」
笑いながら菅原さんが言う。
「そうなの?」
「そう。明後日、事務所に行くことになった」
菅原さんの、どこか憂いが取れた表情をみて、安心した。
「良かった……菅原さんの悩み事、うまくいけばいいな」
「ありがと。上手くいけば、ようやくこの家を出ていけるかもね」
菅原さんの言葉に心臓が大きく音を立てた。
「え? あ、そっか」
『ようやく、この家を出ていけるかも』
菅原さんの言葉が、頭の中に繰り返し響く。
そうだ。
急に口の中が渇いた。
そうだ。
菅原さんが上手くいけば、この同居生活は終わりなんだ。当たり前のことを、忘れていた。
箸を置く。めでたいことなのに、なぜか急に喉がふさがったような心地がした。
菅原さんの顔を見る。菅原さんは、ちっとも寂しそうじゃなかった。それどころか、どこかワクワクしている様子だった。
無理やり口元を動かした。心から歓迎してるみたいに、笑ってみせる。
「そうですね、菅原さんの、新生活の始まりですね」
そう返すと、菅原さんはにこりと微笑んだ。
もうすぐ桜が咲く。
桜が散る頃、菅原さんはもう、この家にいないのかもしれない。
そんなことを思った。




