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第十話

 先輩の復帰初日。

 まるで自分が復帰をするような心持ちで出勤した。朝から何度も深呼吸するオレを見て、菅原さんが心配するほどだった。

 大病をした先輩は、まずは一日一時間の出勤から慣らしていくらしい。一時間を続けたら、二時間、二時間に慣れたら三時間と負荷を上げていくそうだ。

 体格の良かった先輩がどこまで体力が落ちてるのか、どんなにやつれてしまっているのか、気になって仕方ない。

 なんだか胸いっぱいのまま職場について、建物の外観をしげしげと眺めた。ちょうど四年前、配属が決まって下見に来たときと同じ景色だった。低木と花壇のポーチの先に、レンガ造りの建物と古めかしい装飾の扉。あの日は、新しく始まる毎日への期待と不安でいっぱいで、この景色を眺めていた。今日は期待と心配でいっぱいになっている。

 六階の部署に着くと、同僚たちは何人か浮き足だっていた。

「齋藤! もう高橋さんに会ったか?」

「斎藤さんはもう挨拶に行ったの?」

 同期や上司が明るい顔で声をかけてくる。その顔色を見て、少し安心した。先輩は意外と元気なのかもしれない。復帰できるぐらいだし、そうかも。

「まだです。 緊張してきました、今から行ってきます」

 みんながうんうんとうなずきながら、オレを見送る。オレが一番先輩に懐いていたと言わるから、余計なんだろうか。急いで会議室に「出勤」しているという先輩に会いに行った。

 扉の前で息を整えて、ノックをする。

「開いてるよ」

 優しい声色だった。変わらない温度だった。

 恐る恐るドアを開けると、会議室の奥に先輩が座っていた。一年前より、少しだけ頬の肉が落ちて、でも変わらず背筋を凛と伸ばして座ってる先輩の姿があった。

「ご無沙汰してます」

 軽く会釈をした。

 先輩は微笑む。笑顔は、変わらない。

「齋藤が頑張ってるって、聞いてたよ」

「え」

 思いがけない言葉に戸惑った。

「オレと本庁のやつをトレードするかって聞かれて、断ったって?」

 気恥ずかしさを感じて、俯いた。先輩の休職が決まったとき、先輩の配置枠を本庁の職員とトレードするかヒアリングがあった。

 トレードすれば、頭数だけは揃う。それに、先輩が戻る場所は本庁のほうがいいかもしれないとは悩んだ。でもオレは、この部署で先輩の復帰を待ちたかったし、みんなもそうだ。

「待っててくれたんだろ? ありがとな」

「――オレだけじゃないです、みんなで分担して待つことにしました。でもオレたちじゃ、先輩のようにはできなくて」

 みんなで頑張ろうと決めたことだけど、みんなでどんどん疲弊していった。先輩の復帰を待ちたいし、帰ってこないなんて思いたくない。でも回らない業務に疲れていく。

 もともと、全員が全力でやってなんとかなる人数しか配置されない。そんな中で、エースが一人抜けると、現場は簡単に崩壊する。属人主義じゃない職場作りを、なんて言われるけど、仕事が出来る人に頼って回ってるのが実情だ。

「一ヶ月は慣らし勤務らしくてさ」

 先輩は右手を窓から差し込む光に透かすように翳した。そのままバラバラと動かす。

「――」

「リハビリもうまくいって、動けるようになったよ。ありがとな」

「オレは何もやってないです」

 先輩は軽やかな声で笑う。

「ハハッ。俺はそうは思ってないけどね」

「ゆうきくん、元気にしてましたよ。お友達ができたそうです」

 先輩が休職する前に、二人で担当した少年の報告をする。

 先輩は一瞬目を丸くして、次の瞬間、破顔一笑した。

「それは良かった……長生きするもんだな。そのニュースは最高に嬉しい」


 浮き足だって、部署へ戻った。同僚がキャスター付きの椅子を滑らせ声をかけてくる。

「齋藤良かったな、俺も良かったよ、マジで泣きそう」

 飲み会が大好きで呑兵衛な同僚が、朝からシラフで涙ぐんでいる。

「わかる」

「おっしゃ、お祝いに今日は飲もうぜ!」

「あー……一杯だけならいいよ」

「じゅーぶんじゅーぶん」

 同僚はオレの背中を叩き、またキャスターを滑らせ自席に戻っていった。


 一杯だけと言いながら、酒が美味くて飲み過ぎた。同僚と駅前で別れ、ふわふわした気持ちと足取りで家に着く。

「おかえり」

 玄関の扉を開けたとき、菅原さんが少し驚いた顔をする。

「え、ハルくん、めちゃくちゃ酔ってる」

「酔ってないであります」

 菅原さんは不思議な顔をした。

 靴を後ろ足で投げ飛ばし、家に上がる。

「めっちゃいい匂いー! ご飯なに?」

「えーっと今日はね、豆乳鍋と、酢の物と……って何してんの」

 気持ちがふわふわして抑えきれなくて、テレビの前で恭しくお辞儀をしてから、踊り始めた。十六ビートのダンス。

「え、え、え、急にどうしたの、何その陽気なダンス」

「菅原さんも踊ります?」

「無理無理」

 菅原さんがオレをみて口元を手で抑え、肩を振るわせ始める。

 腕を交差させてくるくる回しながらいぇいいぇい小さく歌うと、菅原さんは声をあげて笑い出した。

「ちょっと待って、僕こんな陽気なハルくん初めて見たんだけど、何が起きたの」

 ランニングマシンっていうステップを始めると、菅原さんは食事の準備を諦めたのか、キッチンからリビングに戻ってきた。ソファに腰掛け、オレのダンスを眺めることにしたらしい。

「どうしたの、そんなに嬉しいことがあったの?」

「先輩が、復帰しました!」

 万歳しながら、ターンをして、次はチャールストンのステップを踏む。

「なんかもう、うますぎて反対に笑っちゃうよ。その才能どこに隠してたの」

 菅原さんはそう言いながら、指先でリズムをとり始めた。

「先輩が復帰って、帰りを待ってるって言ってた先輩?」

「です!」

 楽しくて嬉しくて、鼻歌を歌いながら、そのまま一世風靡した海外アイドルのダンスを模倣する。

「あ、それ知ってる」

「うぇーい」

 菅原さんが笑いすぎて目尻に涙を浮かべながら、オレを見る。

「落ち着いたら、ご飯食べるよ」

「はーい」

 そう返事をしながらサビの部分を踊りきる。

少し満足したのと汗をかいたので、白鳥の湖の振り付けのように羽ばたきながらシャワーを浴びに向かった。

菅原さんは危ないから絶対に湯船に入るなと言いながら後ろをついてきた。はいはいと聞き流す。

シャワー中も、すりガラスの扉の向こうで「ハルくん起きてる? 意識ある?」って何度も聞いてきて、まるでお母さんだ。

 風呂から出て、ようやく菅原さんの夕飯にありついた。そういえば同僚に、夕飯は家で食べるから酒だけでいいと言うと、「お前あんなに仕事してて、いつ出会えんのよ」って何かを勘違いしていた。

 菅原さんが準備してくれた料理に手を合わせて食べ始める。大口をあけて白ごはんを頬張り、次に酢の物に箸を伸ばした。爽やかな酸味を噛み締める。

「うわー、きゅうりとワカメの酢の物、うまい!」

「良かったね」

 菅原さんはオレの様子にずっと笑ってる。

「ハルくんがダンスできるなんてね」

「そんな上手くないっすけどね。ダンスって、金ないガキでも出来るんですよ」

 バスケットシューズや、野球バッドや、サッカーボールを買ってもらわなくても、身一つで遊べる。しかも意外と、同級生からのウケがいい。

「そっか、いいね」

「はい!」

 その夜はふわふわした気持ちのまま布団に潜り込んだ。まだまだ楽しくて、布団の中から、菅原さんを呼ぶ。

 菅原さんは苦笑しながら、引き戸を開けて顔を覗かせた。

「はいはい、酔っ払いくん、どうしたの?」

 手で枕元を叩く。

「なになに?」

 菅原さんが枕元までやってきた。

 菅原さんを見上げながら聞く。

「ねぇ、菅原さんさ。仕事の問題が解決したら、この家出て行くの?」

「さすがに、いつまでもいるのは申し訳ないからね」

 菅原さんの落ち着いた表情は、自立した大人のそれだった。菅原さんの人生に、オレはいなくても大丈夫なんだ。ぼんやりとそう思った。

「そっか」

 ちょっと、面白くなかった。

 菅原さんはそっと手を伸ばしてきた。オレの髪を優しい手つきで撫で付ける。

「ハルくんにはお世話になったから、ハルくんが困ったときはいつでも呼んでね」

 髪を撫で付ける、菅原さんの手を掴んだ。

 菅原さんの動きが止まる。長いまつ毛に縁取られた瞳が瞬く。その瞳に映る自分を見ながら言った。ああ、もう眠い。

「まだまだいていいよ。許してあげる」

 菅原さんはとても困った顔をして、そしてその表情のまま口にした。

「困ったな。許されたくなるよ」

意識が途切れる前に、そんな呟きが聞こえたような気がした。

 

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