第四話
第四話
今日は悲しい事件だらけだった。
救いがないことが、この世にはあちこち横たわっている。みんなそれに触れないようにしながら、毎日をやり過ごしている。
胸の中に生まれた悔しさを溶かしきれないまま、帰路についた。
誰かの人生を変えれるなんて烏滸がましいこと思ってない。それでも、信念も、願いもある。どうにかできることがあるんじゃって僅かな期待を抱えながら仕事をしている。
今日は、ただ、無力だった。
「ちっ」
舌打ちをしたオレを、ダイニングテーブルの向かいに座る菅原さんが、片眉をあげて見てきた。
「辛い?」
手元の筑前煮に視線を向けて菅原さんが聞いてくる。
焦って手を出して振った。
「あ、いや、大丈夫、美味い」
食事をしながら、いつのまにか仕事に意識が引っ張られていた。
身体中が重たくて、マンションのフローリングに沈み込みそうだ。世の中の人はこんな疲労を抱えたまま、何十年も働くのか。無理ゲーだろ。
茶碗に盛られたつやつやな白ごはん口に放り込んだ。
美味い、なのに、何故か口の中がザラザラしたようで、上手く飲み込めない。
目の前が滲んで、頭はぼんやりする。
ダメだ、良くない。良くない。これは。
やりがいもあって、一人でなんとか生きていける給料も貰って。都心のそれなりなマンションを借りて、しっかり、生きてる。大丈夫なんだよ。多分。
なのに、なんで、こんなに苦しいんだろう。
菅原さんは、眉をひそめ、手を伸ばしてきた。
長い指先が前髪を掻き分け、額に手のひらが触れる。
「――熱があるんじゃない?」
「は?」
「ちょっと待って」
菅原さんは腰をあげ、勝手知った顔でテレビボードの引き出しをあけた。電子体温計を取り出し、渡してくる。
「ほら、測って」
「ないよ、熱なんて」
「あったら困るでしょ」
感染症でもない限り、オレに熱があろうとなかろうと、誰も困らないよ。そう思って体温計を突き返す。
「いいから、ほら」
菅原さんはオレの抵抗なんて気にも留めず、体温計のスイッチをカチッと押して渡してきた。
なんだよ、強引だな。そう思いながらも箸を置き、体温計を脇にはさむ。
「齋藤さんは少し、頑張りすぎなんだよ」
「そんなことない」
それは本当。オレより努力してる奴もオレよりがむしゃらに働いてる奴も、山ほどいる。
「ほんとは、夜勤もあるんだけどね、今は日中の担当業務が多くて免除されてるから」
菅原さんは、切れ長の目を丸くして、あっけにとられた顔をした。
「は?」
「だから、夜勤は免除……」
「違う違う」
菅原さんは片手をひらひらとふったあと、指先をこめかみに押し当て、天井を見上げた。
「えーとね、いや、分かるよ夢中で働く気持ち。若いゆえにがむしゃらに働く時期もあるでしょ。でもさ、齋藤さんの職場ブラックすぎない?」
何言ってんだ、この人。そう思った。
「何、あんたも、サラリーマンは守られてるとか言うクチ?」
「そんなこと、言ってないよ」
なぜか、無性にむしゃくしゃした。
「仕方ないだろ、あんたみたいに才能で食ってないんだよ。こっちは組織で生きてんだよ。仕事は選べず降ってくんだよ」
菅原さんは、悪いことを何も言ってない。何も言っていないのに、なぜか心のトゲトゲが飛び出して、自分も菅原さんも刺してしまいそうだった。
菅原さんはとても困った顔をして、口をつぐむ。小さな罪悪感が生まれて、オレも口をつぐんだ。
沈黙の中、ピピピッと脇で小さな電子音が鳴った。取り出してデジタル表示を確認すると、三十七度八分。ただの微熱だ。
「ただの微熱だよ」
菅原さんが差し出してきた手のひらに、体温計を乗せ返した。
菅原さんは表示をチェックして、顔をしかめる。
「喧嘩はね、元気じゃない時には、しないこと」
「喧嘩じゃない」
「元気じゃないときに、考えごともしないこと」
「――――」
何を言っても口答えになりそうで、そっぽ向く。
「ご飯食べたら、風邪薬を飲んで、寝よう。今日は扉を開けて寝て」
「なんで」
「体調が悪化したときに、心配だから」
実は今日、あまり食欲がないとは言いだせなかった。家に帰ったときの温かい食事に、泣きそうになったなんて、言えなかった。菅原さんは「残していいから」と言う。
「明日食べる」
冷蔵庫に残り物を片付ける菅原さんの背中に、そう言った。菅原さんは振り返り、目尻を下げて笑う。
「齋藤さんが残したぐらいで傷つかないから、大丈夫だよ。大丈夫」
お風呂もやめておきなよと言われるがままにパジャマに着替え、布団に潜り込んだ。
菅原さんがちょっとごめんねと断りを入れながら、部屋に入ってきた。オレの枕を引っ張り出し、代わりに柔らかい氷枕を差し入れてきた。
氷枕なんて、いつ買ったんだろう。少しずつ熱が上がってきてるのか、ぼんやりした頭で考える。こんなもの、この家に無かったはずなのに。
「手を握っててあげようか」
ベッドサイドに腰掛け、菅原さんがそう言う。
「何歳だと思ってんの」
そう言った。
「何歳だろ、んー二十五歳ぐらい?」
「……そう、だけど。あんたは?」
「無理して喋らなくていいよ」
菅原さんの手のひらが、額に置かれる。冷たくて気持ちいい。
「そろそろ三十歳かな」
意外と年上なんだ。そう思った。
風邪薬のおかげか、氷枕のおかげか。オレは睡魔に導かれるまま、目を閉じた。




