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第五話

第五話


 嫌な夢を、見たのかもしれない。

 夜中に目が覚めると、汗びっしょりだった。

 でもどこか気持ちはすっきりしていて、軽くなった身体を起こす。

 寝室からリビングに通じる引き戸は開けられたままで、そこから柔らかい間接照明の灯りが差し込んでいた。

 水を飲もうと、そろりと床をあるく。菅原さんが寝てるかもしれない。

 リビングに足を踏み入れると、菅原さんが顔をあげた。ソファに腰掛けヘッドフォンを片耳にPCを打っている。

 こんな夜中まで、起きてるんだ。

 菅原さんはオレの顔を見て、安心したように微笑んだ。

「少しすっきりした? 顔色がちょっとよくなってる」

 うん。と頷いた。

「なんか、身体軽い」

 良かった。と菅原さんは微笑み、ヘッドフォンを片耳から外そうとする。

「あ、水飲むだけだから、いい。作業してて」

 片手を軽く振り、冷蔵庫を開けた。

 びっくりした。

 冷蔵庫には経口補水液やりんごやみかんが所狭しと詰め込まれている。

 いつのまにか買ってきたのだろう。

 こんなにたくさん、重たかっただろうに。

「――」

「何がいい?」

 菅原さんの柔らかな声が真後ろから降ってきた。

「りんご、剥いてあげるよ」

 菅原さんの言葉に、なぜか鼻の奥がツンとした。

 オレの母親は、必死に働いている人だった。ひと様のためにと、それこそ身を粉にして働き、オレが高熱でも帰って来れない人だった。

 小学生の頃のオレは、高熱を出しても、水道水を飲み、枕元においてあった食パンを齧り、一人布団にくるまっていた。

 それが、自分でりんごを買えて、自分でりんごを剥けるこんな大人になった今、りんごを買ってきて剥いてあげるよと言う人がいる。

 心の中の、小さな子どものオレが、頭を撫でてもらったようだった。

「――あ、いや、自分で剥ける」

 真っ赤でツヤツヤしたりんごの一つに手を伸ばしながら言う。

 そうだよ、オレは、自分で果物ぐらいむけるの。

「病人が、何言ってんの」

 菅原さんはバカにした風でもなく、苦笑したようだった。

 オレが手を伸ばしたりんごに、肩越しに菅原さんの腕が伸びる。長い指がそのりんごを巻き取るように掴んで、離れていった。

「うさぎさんりんごにしてあげようか?」

「なんでよ」

「すりおろす?」

「ううん、大丈夫」

 作曲家なんでしょ? 今さらそう思った。指を怪我したら、ピアノが弾けなくなるじゃんか。

「じゃあ小さくスライスね」

「なんでもいいです、ラクなやつで」

 菅原さんはキッチンの照明をつけて、シャリシャリ音を立てりんごをむき始めた。

 なんだか所在なく、もう一度冷蔵庫を開けて、ペットボトルに手を伸ばす。

 よく見ると、経口補水液以外に、数種類のイオン飲料が冷やされていた。

「齋藤さんが、どれが好きか分かんなくて」

 オレの考えを見透かしたかのように菅原さんが言う。

「……別に、さん付けじゃなくて、いいっスよ」

 青いパッケージのイオン飲料の蓋を開け、渇きを潤わすように飲み干す。

思っていたより、身体が渇いていた。

「家主さんなのに? じゃお言葉に甘えて」

 菅原さんがダイニングテーブルの上に乗せた皿には、うさぎ型のりんごが、並んでいた。


 考えてみれば、菅原さんは毎晩リビングのソファで寝ていて、身体が痛くならないのかな。居候がここまで長引くとは思わなかったけど、マットレスでも買おうか。

 すっかり熱も引いて、心まで晴れやかな休日の朝だった。

 菅原さんはご機嫌な様子で、自分のシャツにアイロンをかけている。

「ねぇ、菅原さん。ソファで寝て、身体痛くない?」

 大根と手羽先の煮物をもぐもぐしながら聞く。五臓六腑に染み渡る味だ。菅原さんの料理は本当においしい。

 菅原さんは手を止めて、目を見開きオレをみた。

「身体は痛くないよ。たまに情けなくなるけど」

「え、んーと、この煮物おいしいよ? ね、まだ家探し難航してるの? 難航してるなら、マットレスでも買う?」

 そう提案をした。

 菅原さんは一瞬呆気にとられたような顔をしたあと、カラリと笑った。晴れやかな笑顔だ。こんな笑顔を見たことがある。電子ピアノを置いてもいいよと言った、あの日と同じ。

「え、いいの? ハルくん家に、僕のマットレス置いても」

 なし崩しに、オレの呼び方がハルくんになっていた。

あれでしょ、ハルって菅原さんちのわんこと同じ名前なんでしょ?

 まあいいやと思った。菅原さんにハルくんと呼ばれることは、別に不快じゃない。

 そもそも菅原さんのマットレスじゃなくて、客人用に買うつもりなんだけど、否定するのも面倒なので続ける。

「オレのベッドの下に収納できるサイズなら、邪魔にならないし。菅原さんが出て行ったら、客用……にするし」

 言いながら、この家に泊まりにくる奴なんていないことに気付く。学生時代の友人はみんなてんでバラバラだ。同期も全国にバラバラ。

「やったね。齋藤家にじわじわ侵食してる気がするよ」

 菅原さんはにこにこしている。

 その笑顔を見ながら、ふと思った。

 オレより高い背に、薄くついた筋肉に、清潔感のある服装に、切れ長の瞳。

 料理が美味くて、穏やかで。

 オレは詳しくないけど、有名な曲も幾つかあるみたいだし。

 この人モテるだろうに、なんでオレんち住んだままなんだろう。

 じっと菅原さんを見つめると、菅原さんは目を瞬いた。

「どうしたの? 気が変わった?ハルくん」

「いや……」

 まあいいや。そう思った。菅原さんがいる限り、我が家は綺麗で飯は美味い。

「ごはん、ごちそうさま。風呂入って寝るね」

 そう返して、手を合わせ立ち上がった。食器をシンクに運ぶ。

 軽く水洗いして、食洗機に放り込む。

 振り返ると、菅原さんは変わらずニコニコしていた。そういえば、菅原さんの仕事の権利関係は、結局どうなったんだろう。菅原さんが話題に出さないから、あえて聞いていないけど、ふと気になった。


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