第三話
第三話
ゆらゆらと電車に揺られ、ぼんやりした頭で窓の外を眺める。
車窓に眩しく差し込んでくるのは朝日。目を焼きそうなほどの、晴天が広がっている。
午前は、事件の聴取と面談。
居場所がない家から逃げ出して、仲間ができたと思った夜の街で、それ知らずに犯罪に勧誘された少年たち。
そんな少年たちの話を聞く。家族の話を聞く。彼らが生きてきた経過に触れて、何が必要かを模索していく。そんな仕事をオレはしている。
何人もの少年に出会って思う。
大人にも子どもにも、孤独って毒なんだよ。家が学校か社会か。たった一つでも安心できる居場所があれば、彼らはどこかで立ち止まれたんだろうと思う。でも、彼らが安心できる場所はそう簡単に存在しない。
『ただのバイトだって、聞いた』
家の中にも外にも、頼れる大人がいなくて、生きづらさを抱えても、その苦しさへの対処を学べないまま、彼らは毎日を生きる。
そして、そんな孤独の中、耳障りのいい言葉だけ吐く、大人が近付いてくる。
少年たちの話を聞くたび、痛ましさに胸がやける。
もういらないだろ、こんな世界。オレが世界征服する魔王なら、汚い大人を全員海に沈めたい。この業界のハードな仕事量とそこに横たわるハードな現実に、潰れそうになるやつはたくさんいる。オレも潰れそう。望んで入った世界だけど、疲れてきた。
鞄に入ってる巾着袋を思い浮かべた。
仕事が立て込んでるときは、昼飯に出る時間もない。
そんな話をしたら、菅原さんが弁当を持たせてくれた。
菅原さんは変わらず、物件を探していると言いながら、出ていく素振りも見せず、まさに我が家の家事代行のような仕事をしている。
おかげで、いつも床は綺麗で、洗面台や風呂場もピカピカで、カーテンすら洗い立ての香りを漂わせながらはためいていた。
突然、「齋藤さんは卵焼き、甘い派?だし派?」なんて聞いてきて、「だし派」って返事をしたのが昨晩。
朝、胡乱な顔で家を出るオレの手に、弁当が入った黒い巾着袋を押し付けながら、菅原さんは言った。
「食は基本。食べる限り、人は生きていけるんだよ」
朝の取り調べに立ち会って、昼休み、頭を抱えながら自席で弁当の蓋をあけた。
だし巻き卵と、なんかの煮物と、焼き鮭の切れ身に白ごはんが入っている。
白ごはんには、オレが好きだと言ったカツオ節が乗っていた。
だし巻き卵の柔らかな舌触りと、棘のない旨みを感じながら、ぼんやりと思い起こす。
「この家には、人が生きるに足るものが足りない」
菅原さんはオレの家に居座り始めてすぐ、冷蔵庫や戸棚を開け、神妙な顔をしてそう言っていた。今や我が家の一人暮らし用の冷蔵庫には、菅原さんが買ってくる野菜や肉が所狭しと入っている。
そう言えば菅原さんは、家を追い出され、仕事の名義も取られたと言っていた。
菅原さんが裏切られたことが事実なら、今、菅原さん自身はどんな気持ちで毎日過ごしているんだろう。
築いてきたものが手からこぼれおちて、何が彼に残ったんだろう。
作曲家と言っていた。
作曲家がどんな仕事をするのか、オレはよく知らない。個人で曲を作って売り込むのかな。会社みたいなものに所属して、依頼が来れば曲を作るのかな。どんな感じなんだろう。曲を作る環境が奪われて、焦ったりしないのかな。音を生み出せない生活は、寂しくないのだろうか。
そこまで考えて、休み時間が終わることに気がつく。弁当の残りを掻き込んで、席を立った。
「菅原さんが引っ越すときちゃんと持ってくなら、電子ピアノでも置きますか?」
珍しくオレが二十三時に帰宅したことを喜んで、煮物を温め直していた菅原さんが、勢いよく振り返った。
「え?」
「菅原さん、日中、暇じゃないっすか?」
菅原さんはおたまを手にしたまま、瞬きを繰り返している。
変なこと、言ったかな。
作曲家ならピアノかと思ったけど、今時の作曲家は、あれ?ピアノじゃない? PCとかで作曲する感じ?? 全然分からない。
「マンションだから電子なら、ありかなって」
リビングの家具の配置なら、変えれるから。そう続けたオレに、花が咲くような笑顔で菅原さんは笑った。
「どうしよう、居候から同居人に昇格した気がするよ」
ご飯が効いたかな? そう言ってニコニコしている。
そんな提案をして一週間後、ローランドってメーカーの黒い電子ピアノと音楽制作もできるスペックだというPCが届いた。
リビングに置いていたローチェストをオレの寝室に運び込んで、空いたスペースにピアノを置く。
ピアノが一台あるだけで、リビングの雰囲気が変わった。なんだか、おしゃれだ。
「なんか弾いて」
そう頼んだら、にこりと笑った菅原さんが、両手を軽く握り開きを繰り返した。ふしくれの目立つ細い指を鍵盤にそっと乗せる。
菅原さんは、ポピュラーな映画音楽を奏で始めた。オレに聞かせるためにヘッドフォンはつかえないから、小さな音で。
演奏が始まって、息を呑んだ。
とても、綺麗な旋律だった。上手ってだけじゃなくて、胸にくるものがあった。オレは菅原さんを、そして電子ピアノを舐めていたんだろう。曲の良さももちろんあるけど、菅原さんが心に訴えるピアノを弾ける人なんだってことに、圧倒された。
呆然と眺める視線の先、菅原さんは心地よさそうな表情で、映画音楽を奏でていく。
幼い頃から、何度も観た名作。迷った森の通り道で出会った、お隣さん。空を飛んで見つけた、新しい街。空に浮かぶ、伝説の島。
どれも、有名な作曲家が作った映画音楽だ。
胸が詰まり、涙が出そうになった。いつのまにか、菅原さんの背中に向かって拍手をしていた。心の中の、幼い頃のオレまでが、一緒に拍手をしているように思えた。
「ちょっと、感動……」
曲の合間にポツリと溢したオレに、菅原さんは照れくさそうに会釈する。
「ねぇ、作曲家って大変?」
リビングのソファの上に立膝に顎をついて菅原さんを眺めた。
軽やかにピアノを弾く手は止めずに、菅原さんは答える。
「大変。でも齋藤くんも大変でしょ。みんな大変な毎日を、生きてる」
「菅原さんは何が大変?」
「そうだねー。うーん、正解がないこと?」
「わかる」
そう答えた。そう、わかりやすい正解なんて早々ない。最適解をひたすら模索するしかない。辿り着いた答えが、合っていたかなんて、誰にも分からない。
「……ねぇ菅原さん。他に、欲しいものある?」
綺麗にアイロンがかけられたシャツの背中に言う。菅原さんはスウェット系よりシャツ系が好きらしい。
菅原さんは、ピアノを弾く手を止めて、振り返った。
「なんだろ、誕生日みたい」
「そういうわけじゃないけど」
菅原さんは目尻を下げた。
「そうだなあ、齋藤くんの休み、かな。いつか一緒にコンサート行こうよ。小さいのでいいから」
「コンサートかあ」
昔、母に連れられた、小さなコンサートを思い出した。楽しかったな。
「いいよ」
菅原さんも家に引きこもってばかりじゃ、楽しくないだろう。
「あ、それか、僕がまた弾けるようになったら、関係者席に齋藤さんを招待してあげるよ」
菅原さんの言葉には、口角をあげて返した。
約束は、あまり当てにしない。
キッチンのカウンターに、ピアノと一緒に増えたちいさな花瓶の小さな花が、そっと揺れた。




