『マトリックス』をスポ根だと言い張る気持ち。
この考え方、うまく伝わるかどうか……。
近々、最新作も公開される噂のある映画『マトリックス』。
ボクは、少なくとも第1作目はほぼ『スポ根』だと思っています。
『スポ根』マンガによくある、主人公が必殺技を編み出すために試行錯誤するエピソード。
そーゆー視点がないと、“なぜネオが救世主として覚醒したのか”が見えにくい、と。
あの物語の主軸は、“5感のすべてが電気信号による偽りのものである状況の中で、それが偽りであると思考ではなく実感で理解する”ことです。
SFとしての人類と機械との関係や、オラクルによる意味ありげな予言も、主軸を飾る彩りに過ぎない。
『スポ根』マンガでいうところの、主人公が病気の男の子とホームランの約束をするみたいなものです。
『“スポ”根』としては、ホントに肝心なのはホームランを打つかどうかで、子どもとの約束は、それを”盛り上げる為の演出”です。
関西弁でいうところの『値打ちを付ける』っていうヤツかな?
その割り切りがあると、“予言通りにネオが救世主として覚醒した”のではなく、“オラクルの予言によってトリニティのキスが誘導された”という構図が見えてきます。
そして“仮想感覚の中での“死”というニュートラルな状態の中で、異性として関心のある(つまり敏感に意識する)相手からの、(実際の五感をほぼ遮断された)実体への刺激を受けた”状況が見えてきます。
それが、脳への酸素供給停止による損傷の生じない蘇生時間内に起きたことが。
すると、“主人公が、それによって5感によって感じている世界と“別の所にある自分”を意識し、“すべてを電気信号として認識できる状態(覚醒した時のネオの視界)”になった”流れが見えてくると思うんですね。
スポ根論はともかく、ネオが救世主になった理屈は、第2作が公開された当時の『赤い薬と青い薬のどちらを飲むか』(だったかな?なんかそんなイメージのタイトルの海外の研究本)に同じ論を(もう少し難しくちゃんとした理屈で)唱えてる方もいたし、間違いはないと思っています。
で、何が言いたいかというと、“主軸”と“彩り”を意識することって、大事じゃないかな?と。
今、自分が書いているのが、
“主軸”なのか“彩り”なのか、それですらない“枝葉”なのか
そーゆー意識。
そーゆー意識によって、変わってくること、いろいろあると思うんですね。
前振りが長くてごめんなさい。
それだけの話なんです。




