第九話 開かれた禁忌
あの激闘から数刻後。
ギルドマスターのバルドが意識を取り戻し、応急処置を終えて再び受付へと姿を現した。
その頭部には痛々しいほど幾重にも包帯が巻かれているが、どういうわけか本人の顔は妙に晴れやかで、隠しきれない満足感に満ちていた。
「いやあ、完敗だ、完敗! 噂の《街道の死神》、ありゃあ只者じゃねえな! 若いがあれほど見事な太刀筋、久々に命のやり取りを堪能させてもらったぜ!」
バルドは喉を鳴らして豪快に笑う。
「嬉しそうにしないでください、マスター! 他の冒険者に示しがつきません。第一、彼はまだ懸賞金が懸かった身なんですよ!」
受付のクロエが、呆れ果てた顔でバルドの包帯越しに拳をコツンと落とした。
「い、痛っててて! ……いいかクロエ、そもそも斬られたのはアイツに手を出した無頼漢どもだ。あの依頼は俺の権限で取り下げだ。私闘の仇討ちなんざ、この国じゃ禁じられてるからな」
「私情でギルドの規約を曲げないでください!」
再びクロエの拳が落ちる。
「いっ、いってぇ! 本気で痛えぞ、おい!」
バルドが顔を顰めて呻くのを見て、シルフィは怪訝そうに眉をひそめた。
「ちょっと、バルド。まだ完治してないの? 専属の治癒師が付いたんでしょう?」
ワーウルフ族の強靭な再生力とギルド抱えの治癒師の腕があれば、峰打ちによる打撲程度、数秒もあれば跡形もなく消えるはずだ。
バルドは包帯の上から傷口をさすり、当惑したように首を傾げた。
「それがよ……どういうわけか、この傷、治りが妙に遅いんだ。治癒師も首を傾げてやがった」
クロエが冗談を打ち切り、真剣な眼差しで補足した。
「マスターの傷跡には、治癒魔法の浸透を阻害するような、異質な『力』が残留していました。それが杏四郎様の剣に宿る特性なのか、あるいは彼自身の内包する力なのか……」
「ふむ……」
シルフィは腕を組み、傍らに立つ杏四郎を見やった。
精霊たちが狂喜するほどの名刀、そして異世界から「女神アルディア」によって招かれた彼自身の存在。この世界の魔法体系を拒絶するような理外の力が宿っていても、不思議ではない。
(彼の剣は、ただ切るだけじゃない。因果や再生の理そのものを断ち切っているというの……?)
「……やはり、一度あなたの武器と、その力を専門の鑑定士に診てもらう必要がありそうね」
シルフィは短く結論を出したが、すぐに表情を引き締めた。
「でも、今はそれ以上に急ぐべきことがあるわ。魔族の動向と、情報の開示よ。鑑定の儀は、この騒動が落ち着いてからにしましょう」
杏四郎は、二人の交わす専門的な推測までは理解しきれなかったが、シルフィの判断を信じ、静かに一礼を返した。
「左様でござるか。拙者には皆目見当もつきませぬが……しるふい殿がそう仰るなら、異存はございませぬ」
かくして、異世界の刀に秘められた謎は一時保留となり、ギルド長との正式な取引が成立した。バルドは満面の笑みで大きく頷く。
「よし! 約束だ、魔族に関する機密は全て洗いざらい見せてやる! クロエ、二人を奥の『静寂の間』へ案内しろ。……ここから先は、本物の戦いだぜ」
──────
そこはギルドマスターの執務室のさらに奥、幾重もの結界に守られた「静寂の間」だった。壁一面に刻まれた魔導刻印が淡く発光し、外部からのあらゆる干渉を遮断する完全な密室を作り出している。
「単刀直入に言う。魔族の侵食は、この王国の主要都市……それも中枢に近い場所まで既に及んでいる」
バルドは表情から生気を消し、地の底に響くような低い声で切り出した。
「お前たちが遭遇したトロールのように、負の魔力によって暴走する事例が、今この瞬間も各地で頻発している。……それも、魔物だけじゃねえ。人間もだ」
隣に立つクロエが、沈痛な面持ちで資料を広げる。
「トロールのようにモンスターが暴走したのは、今回が初めてのケースでした。人間だけでなく、強大な魔物までが魔族の『尖兵』に成り果てるとすれば、もはや一都市の防衛能力を越えています。そして、問題はそれだけではありません」
「まだあるの?」シルフィが身を乗り出す。
「一つは、この街で相次いでいる『子供の神隠し』です。魔族との直接的な関わりは断定できていませんが、時期が重なりすぎている。そしてもう一つ……」
バルドが苦々しく腕を組み、言葉を継いだ。
「『意識なき内通者』の存在だ。黒い力に完全に飲まれるのではなく、精神の表層だけを魔族に挿げ替えられた連中がいる。厄介なことに奴らは操られている自覚が微塵もなく、普段は善良な一般人として生活している。……誰が『爆弾』なのか、本人ですら知らねぇんだ」
「……なんてこと。それじゃ、鑑定魔法を片っ端からかけるしかないじゃない」
「理屈じゃそうだが、それをやれば街はパニックだ。おまけに、こちらの手の内が魔族側に筒抜けになる。まさに、手詰まりの状態なのさ」
シルフィは沈黙した。敵が誰か分からず、隣り合う隣人すら疑わねばならない。それは、剣の腕だけで解決できる事態を遥かに超えていた。
その重苦しい沈黙を、静かな、しかし確かな声が破った。
「……あの、よろしいでしょうか」
「なんだ、杏四郎」
「もしや、あそこにいる『気』の濁った者たちが、その敵の手の者なのでござるか? 街に入ってから、既に幾人も見かけましたが」
杏四郎が何気なく指差した先──窓の下、活気に溢れる広場には、規律正しく巡回する衛兵や、朗らかに露店を覗く一般人の姿があった。
「え……? 杏四郎、あなた何か分かるの? 私には、何の違和感も見えないけれど……」
シルフィは戦慄した。彼女ほどの高位魔術師が見破れない擬態を、この少年は「当然」のこととして看破している。
思えば、出会った当初からそうだった。彼女が誇る完璧な隠密魔法を、彼は「そこにいるのが見えていた」と言わんばかりに看破したのだ。
「うむ。拙者の故郷では『殺気』や『邪気』を嗅ぎ分けるのは、武芸者の嗜みでござるから。……お任せいただけるのであれば、誰が敵の傀儡か、その場で仕分けしてみせましょう」
杏四郎はそう言うなり、無造作に刀の柄に手をかけた。
「ちょっと待ちなさい! 斬るつもりじゃないでしょうね!」
シルフィは血相を変えて、抜き放たれようとした「死神」の腕を掴んだ。
「無実に見える一般人を広場で斬ってみなさい、一瞬で私たちが指名手配犯よ! 魔族に警戒されるどころか、国中の騎士団を敵に回すわ。絶対に、絶対ダメだからね!」
「むむ、左様でござるか……。それは失策、失敬いたした」
杏四郎はしゅんと肩を落としたが、バルドは不敵な笑みを深くした。
「……いや、杏四郎。お前のその『眼』があるなら、話は別だ。正体が分かれば、あとはどうとでも料理できる。奴らを泳がせ、一網打尽に誘き出す算段も立てられるからな」
バルドの瞳に、反撃の狼煙を上げる鋭い光が宿った。
──────
クロエがハッとした表情を浮かべ、眼鏡の奥で知略の光を走らせた。
「もし……子供たちの神隠しも魔族の仕業だとするなら、それを利用して奴らの尻尾を掴めるかもしれません」
「でも、子供を囮にするなんて倫理的に許されないわ。……一体、どんな子が狙われているの?」
シルフィの問いに、バルドは苦々しく顎を撫でながら答えた。
「十歳から十六歳あたりまでの、成人前の子供たちが主だ。どちらかと言えば、女児よりも男児が狙われているようでな。ここ一月で既に十人以上……。神隠しにあった子供らがどこへ消えたのか、足取りは一切掴めていねぇ」
その言葉を聞いた瞬間、シルフィの視線が、隣に立つ少年の横顔へと吸い寄せられた。
「十六歳、まで……。……ねえ、杏四郎を『囮』にできないかしら?」
一瞬、部屋の空気が物理的に凍りついたかのような静寂が降りた。
バルドは、漆黒の外套に身を包んだ杏四郎の、やや小柄ながらも引き締まった体躯を改めて見つめ、裏返った声で尋ねた。
「お、おい……。嘘だろ、お前……十六にもなってねぇのか……?」
杏四郎は背筋をぴんと伸ばし、至って真面目な顔で応じた。
「はい。拙者、数えで十五にございます」
「………………」
沈黙が痛い。クロエは驚愕のあまり、膝から崩れ落ちるように床へへたり込んだ。
「……ギルドマスターが……。……この街最強のワーウルフが、十五歳の子供に、峰打ち一撃で沈められただなんて……。……全冒険者の夢が壊れるわ、口が裂けても公表できない……!」
バルドは顔面蒼白になり、自らの頭に巻かれた包帯を、震える手でそっと押さえた。
「お前……十五で、あの修羅の如き気配かよ……。……バケモノ、なんて言葉じゃ生温けぇな……」
筋骨隆々の巨漢が、自分より頭一つ分以上小さな少年を前に、まるで恐ろしい神霊でも見るかのように戦慄している。
杏四郎の規格外の強さが、まさかの「未成年」という枠組みの中に収まっていたという事実は、魔族の脅威以上に、ギルドの重鎮たちのプライドと常識を木っ端微塵に粉砕したのであった。




