第十話 紫煙の誘い
ギルドでの対策会議から数日。
白亜の街を包む夜は、不気味なほどに静まり返っていた。昼間の活気は嘘のように消え、雲間に隠れがちな月光が、冷たく濡れた石畳を白々と照らし出している。
それは、これまで繰り返されてきた神隠し事件の「魔の刻」そのものであった。
ある子は寝室の窓から掻き消え、ある子はお使いの帰り道に霧に溶けるように消えた。シルフィが執務室で地図を広げ、点在する行方不明現場を魔力のラインで繋ぎ合わせたとき、一つの座標が鮮明に浮かび上がっていた。
「……中央公園の、噴水井戸。ここが全ての『結節点』だわ」
街の富の象徴として親しまれている清らかな水源。だが今夜、そこは底なしの深淵へと続く、呪われた入り口になろうとしていた。
公園のベンチに、ぽつんと座る小さな影があった。杏四郎だ。
シルフィから手渡された探知阻害の魔法マントを深く羽織り、夜風に髷を揺らすその姿は、遠目には迷子の少年――あるいは、華奢な少女にすら見えた。
「……来ましたな」
杏四郎が低く呟いた。
その刹那、公園の景色が飴細工のように歪み始めた。どこからともなく、ねっとりとした紫の霧が地面を這うように立ち込め、瞬く間に全てを覆い尽くしていく。
「杏四郎が見えない!? 私のエルフの目でも、霧の向こうが……」
「くそっ、ただの霧じゃねぇ。魔力の濃度が致死量だ、鼻が曲がりやがる!」
茂みに潜むシルフィとバルドが焦燥に駆られる中、霧の中心に座る杏四郎だけは、恐ろしいほどに凪いでいた。彼は刀に手をかけることすらなく、ただ獲物が網にかかるのを待つ蜘蛛のように静止していた。
カツン……カツン……。
静寂を、冷徹な足音が切り裂いた。
霧の向こうから現れたのは、五人の人影。全員が夜の色を写した黒いローブを纏い、顔には感情を排した不気味な仮面を張り付かせている。彼らの纏う「気」は、腐敗した死体のように冷たく、どす黒い。
「……質の良い供物だ。こんな時刻に独り歩きとは、よほど親の躾がなっていないらしいな」
男の一人が、二つの声が重なったような、不協和音の混じるしゃがれ声で嘲笑った。彼らの指先には、トロールを狂わせたものと同じ、禍々しい闇の魔力が渦巻いている。
杏四郎はゆっくりと立ち上がり、仮面の男たちを一人ずつ、値踏みするように見据えた。
「供物……。其方らが、この街の童たちを拐かした不届き者にございますな」
あまりに落ち着き払った少年の声音に、男たちは一瞬だけ動きを止めた。
「ほう。身の程を弁えぬ勇敢さか、あるいはただのバカか。……だが、吠えても無駄だ。大人しく我らに──」
「断る」
杏四郎はマントを翻し、懐からあの般若の面を取り出した。
「さて、しるふい殿との約束ゆえ、死なせぬよう加減せねばなりませぬが……」
カチリ、と硬質な音が霧の中に響く。刀の鯉口が切られた。
「手足の骨一本や二本、不始末の報いに置いていっていただくのは構いませぬな?」
次の瞬間、紫の霧の中で、銀色の殺気が爆発的に膨れ上がった。
──────
「逃がさねぇぞ、小僧……!」
まず、黒ローブの集団の中でも一際大柄な男が、杏四郎を力任せに圧殺せんばかりに両腕を広げて躍りかかった。巨漢の影が小柄な少年を完全に飲み込もうとした、その瞬間。杏四郎の体は重力を無視したかのように、ふわりと横へ流れる。
──ゴッ!
「あがっ……」
すれ違いざまに放たれた、目にも止まらぬ峰打ちの一撃。巨漢は白目を剥き、肺から空気を絞り出す暇もなく、あっけなく石畳へと沈んだ。
「武器を持ってやがる! 構わん、囲んで捕らえろ! だが供物だ、傷物にはするなよ!」
仲間が瞬殺されたことで男たちが色めき立ち、一斉に杏四郎へと殺到した。だが、それはあまりに無謀な特攻に過ぎなかった。
(塚元古流居合術 ── 行雲流水)
杏四郎の姿が、霧の中で文字通り空を行く雲、流れる水の如く揺らめいた。抜き放たれた刀は刃を返したまま、静かな円を描くように男たちの鳩尾、頸部、こめかみを正確無比に打ち据えていく。
バサッ、ドサッ!
一瞬のうちに、数人の男たちが物言わぬ肉塊となって転がった。
しかし、真の異常事態はここからだった。公園の陰から、一人、また一人と洗脳された街の住人たちが、虚ろな目を剥いて現れたのだ。彼らは杏四郎を「供物」と認識しているのか、決して殺そうとはせず、不気味な沈黙を保ったまま、素手で掴みかかろうと群がってくる。
「キリがないわ! 全員を峰打ちして回るわけにはいかない!」
霧を切り裂いてシルフィとバルドが参戦した。シルフィのレイピアが住人たちの衣服を裂いて牽制し、バルドが大剣の腹でまとめて弾き飛ばすが、洗脳された者たちは痛みを感じないかのように、泥人形のごとく何度でも立ち上がってくる。
「二人とも、一旦耳を塞げッ!」
バルドの野太い警告が響き、杏四郎とシルフィは咄嗟に両耳を覆った。
「ウォォォォォオオオン!!」
ワーウルフ族の特有スキル「戦王の咆哮」。大気を物理的に震わせる超広域の音波が公園を粉砕せんばかりに轟き、襲いかかっていた住人たちは脳を直接揺らされ、糸が切れた人形のように一斉に崩れ落ちた。
「ふぅ……。これで少しは一息つけるか……」
バルドが重い息を吐き、大剣を肩に担ぎ直した、その時。
周囲の紫の霧が意志を持つかのように逆巻き、噴水井戸の中から「それ」が姿を現した。
──────
倒れ伏した人間たちの孔という孔から、ドロりとした汚泥のような黒い霧が這い出した。それは意志を持つ影の群れとなって空中でうねり、一本の巨大な黒帯と化して中央の噴水井戸へと吸い込まれていく。
「な、何が起きているの……!? 街の人たちが……!」
シルフィの叫びをかき消すように、清らかだった湧水がどす黒い腐汁へと染まり、噴き上がる黒い水柱と共に「それ」が這い出してきた。
無数の節を持ち、その一本一本が巨大な鎌と化した脚。全身を覆うのは鋼鉄をも凌ぐ硬度を予感させる、黒光りする甲殻。頭部には岩をも砕く巨大な顎が備わり、怪しく点滅する無数の複眼が三人を見下ろしている。
「な、なんだあのバケモノは……!? 龍か? いや、足が多すぎる! あんなモンスター、図鑑のどこにも載ってねぇぞ!」
バルドが喉を鳴らして戦慄し、シルフィの持つレイピアが、その存在が放つ圧倒的な威圧感に共鳴して震えた。だが、杏四郎だけは、その異形を射抜くような冷徹な眼差しで見つめていた。
「あれは大百足。某の国では、山を幾重にも巻き、龍すら食らうと語り継がれる呪われし怪異。……まさか、異郷の地でこれほどの大物に見えるとは」
「大百足……? あれが、子供たちを奪った元凶なのね!」
シルフィの糾弾に応えるように、大百足が天を劈く金属音の咆哮を上げた。もはや、峰打ちや手加減などという言葉が入り込む余地はない。ここにあるのは、純然たる殺戮の意思だ。
大百足の長大な巨体は、一瞬にして三人を何重にも取り囲む死の防壁となった。節々の隙間から漏れ出す腐臭と、肌を焼くような濃密な魔素が、公園の空気を鉛のように重く変えていく。
「……っ、空気が重い! 間違いないわ、こいつはただの魔物じゃない、魔族……それも、他とは格が違う。四天将の一角に連なる化け物よ!」
シルフィはあまりの重圧に膝を屈しそうになりながら、必死に意識を繋ぎ止めた。シルバー・エルフの鋭敏な感覚が、目の前の怪異を「不可避の死」だと絶叫している。
「四天将だと!? 冗談じゃねぇ、こんな化け物がもう街の中に入り込んでやがったのか!」
バルドが咆哮し、大剣を握り直す。しかし、四方八方から押し寄せるどす黒い殺意の波に、誇り高きワーウルフの体躯も、本能的な恐怖で震えていた。
「来ますぞ!」
杏四郎が鋭く叫んだ、その刹那。
「キィィィィィィィィィィン!!」
耳を刺す高周波と共に、大百足の無数の脚が一斉に槍の雨となって降り注いだ。
──《千の槍》。
前後左右、そして頭上。退路を完全に断たれた、絶望の檻。
三人は一瞬にして防戦一方へと追い込まれた。シルフィは風の加護を纏い、紙一重で刺突を回避し、バルドは大剣を盾に火花を散らしながら重い打撃を跳ね返す。杏四郎はといえば、最小限の予備動作で槍林弾雨の間隙を縫い、流れるような太刀筋で脚を切り飛ばしていく。
しかし、絶望は底を見せない。切り飛ばされた脚は、断面から黒い霧を噴き出しながら、即座に肉を盛り上げ再生を始めていた。
「嘘……再生してる!? 斬っても、斬っても意味がないっていうの!?」
さらに、大百足の複眼が血の色に染まった。無数の瞳が怪しく点滅し、虚空に幾重にも重なる複雑な魔法陣が展開される。
「氷結の檻にて、命を凍てつかせよ──」
声なき詠唱。直接脳を揺さぶる不浄な言霊と共に、大気中の水分が瞬時に氷槍へと変じ、物理的な脚の猛攻に重なって三人を襲う。
「魔法まで使いやがるのかよ! クソッ……!」
全方位からの超高速の連撃。躱しきることはもはや不可能だった。
バルドの剛腕から鮮血が噴き出し、シルフィの美しい法衣も無惨に切り裂かれていく。大百足は一気にトドメを刺すことをせず、まるで弱りゆく獲物の断末魔を慈しむかのように、じわじわと三人の体力と、そして「希望」を削り取っていった。
「くっ、私の魔法が……術式を編む暇さえ、与えてくれない……!」
圧倒的な手数と、再生を繰り返す不死身の巨躯。暗黒の霧に包まれた公園の中で、三人の視界からゆっくりと光が失われていった。
──────
「くそっ! 何か手はねぇのか! このままじゃ、なぶり殺しにされるぞ!」
全身から鮮血を流し、満身創痍のバルドが怒号に近い叫びを上げる。
だが、その狂乱の渦中で、杏四郎だけは異質だった。
彼は傷一つ負うことなく、降り注ぐ氷槍を刀の腹でいなし、迫り来る脚を最小限の動きで斬り捨てながら、恐ろしいほどに凪いでいた。般若の面の下、その瞳は絶望に染まることなく、ただ静かに、冷徹に、大百足が繰り返す拍動の「芯」を凝視し続けていた。
(……見えた。この怪異、命の源流はそこか)
死の嵐が吹き荒れる中で、杏四郎はただ一人、勝利への最短距離を逆算していた。
「バルド殿! なんとか奴に、刹那の隙を作れませぬか! 某に一つ、勝算がございまする!」
土煙と氷の破片が舞う中、杏四郎の凛とした声が響き渡った。バルドは震える脚で大剣を支え、荒い呼吸を繰り返しながら顔を上げる。
「何……!? 小僧、その言葉に命を預けていいんだな!」
「確信はありませぬが……我が国の伝承が正しければ、賭けてみる価値はありますれば!」
「……わかった! 理由は聞かねぇ。アンタがそう言うなら、この命、一瞬だけ盾にしてやるよ!」
シルフィもまた、折れそうな心を奮い立たせ、震える手でレイピアを構え直した。「何か策があるのね……バルド! 私も魔力の底を叩くわ!」
「一瞬だ……一瞬だが、それでいいかッ!」
「十分でござる!」
バルドが吠えた。それは先ほどまでの悲鳴ではない。魂を削り出すような、ワーウルフの誇りを賭けた重低音。
「武技──《鉄塊要塞》!!」
バルドの全身から放たれた金色のオーラが、物理的な実体を持つ鋼鉄の障壁へと変貌した。大百足が放つ「千の槍」がその壁に激突し、凄まじい火花と絶叫のような金属音を撒き散らす。だが、バルドは一歩も退かない。肉が裂け、骨が軋む悲鳴を上げながら、彼は死の嵐をその身一つで受け止めた。
「今だ、行けぇッ!!」
「かたじけない!」
杏四郎が地を蹴った。彼は走りながらマジックバッグから一本の槍を抜き放つと、信じられない行動に出た。自らの指に口をつけ、槍の刃先に「唾液」を塗りたくったのだ。
(大百足は鉄をも通さぬ甲殻を纏うが、人間の唾こそが、その理を解く唯一の毒となる……!)
急襲を察知した大百足が、赤く光る眉間に極大の魔力を収束させる。だが、杏四郎は地面を滑るように身を屈め、零下百度の冷気線を紙一重で回避。爆ぜる氷の礫を浴びながら、彼は天高く跳躍した。
(塚元古流槍術 ── 貫!)
刹那、閃光。
大百足の眉間、魔法陣が収束する最も脆い一点に、唾を塗られた槍が深々と突き立てられた。
「ギィィィィィヤァァァァァァァァッッ!!!」
不死身を誇った化け物が、この世のものとは思えぬ断末魔を上げた。槍が刺さった箇所から黒い霧が噴き出し、あれほど強固だった甲殻がみるみるうちに腐食し、崩れていく。
「逃がさないわ……! これが、私の最大火力よ!」
シルフィが全魔力を絞り出し、天にレイピアを掲げた。
「蒼天の雷鳴、竜の顎にて砕け散れ ──《ケラウヌス・ライトニング》!!」
夜空が割れた。巨大な雷竜の姿を象った雷撃が、杏四郎の突き立てた槍を避雷針として直撃する。
ズドドドドォォォォォンッ!!!
目も眩むような白光と、鼻を突く焦げ臭い腐臭。雷撃に焼かれ、大百足の巨大な躯体が絶望にのたうち回る。その爆炎の中から、一筋の影が飛び出した。
「これにて……終いにございます。」
般若の面を被った杏四郎が、滞空する一瞬の静寂の中で刀を抜き放った。雷光を反射し、銀色の軌跡が鋭い弧を描く。
「一刀両断。」
斜め袈裟に振り下ろされた一撃は、大百足の本体――魔力の核を、抵抗なく真っ二つに断ち切った。
巨体は二つの肉塊と化し、地響きを立てて公園の石畳に沈んだ。千の足は痙攣を止め、やがて黒い霧となって夜の闇に消えていく。
静寂が戻った。
立っているのは、肩で息をするバルドと、魔力を使い果たして座り込むシルフィ。
そして、血刀を静かに振り、一寸の乱れもなく鞘に納める十五歳の武士だけだった。




