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第十一話 幼き日の灯火、藤太の教え

 大百足の焼けた死臭が、雨上がりの土の匂いと混じり合って鼻を突く。

 その凄惨な光景の只中で、杏四郎はふと、遠い日の記憶の淵に身を沈めていた。


 それは彼がまだ、刀の重さも知らぬ四歳の頃。

 故郷の、湿った畳の清々しい匂いと、行灯の柔らかな光が障子に揺れる、静かな夜の記憶。


「……母上様。どうしても、お目々が閉まらないのでございます」


 小さな布団の中から、幼い杏四郎がぽつりと呟いた。枕元に座る母は、慈しみ深い微笑みを湛え、彼の柔らかな髪を梳くように優しく撫でた。


「では、杏四郎。母さまがとっておきの英雄のお話をしてあげましょうね。これは、昔々、この国を脅かす恐ろしい魔物を退治した、誇り高き武士の物語ですよ」


 杏四郎はパッと瞳を輝かせ、布団を跳ね除けて起き上がった。


「英雄! それは、刀がとっても、とっても強いお方でございますか?」

「ええ。そのお方の名は、俵藤太(たわらのとうた)。ある時、藤太は龍神に頼まれました。『三上山を七巻き半もする巨大な大百足を退治してほしい』とね」


 母の穏やかな声音に合わせて、行灯の光に照らされた壁の影が、まるでうねる巨大な怪異のように揺らめいた。幼い杏四郎は怖がるどころか、物語の先を求めて身を乗り出した。


「その大百足はね、鉄のように硬い鱗を持っていて、どんな鋭い刀も、強い矢も跳ね返してしまったのです。藤太が放った一の矢、二の矢も、カチンと弾き飛ばされてしまいました」

「そんな……! それでは、どうすればよいのでございますか?」


 杏四郎は自分の小さな拳をぎゅっと握りしめた。母は声を少し潜め、いたずらっぽく、それでいて大切なことを教えるように微笑んだ。


「そこで藤太は思い出したのです。大百足は人間の唾液を何よりも嫌う、という古い教えを。彼は最後の一本となった三本目の矢の先に、ぺろりと唾をつけたのです。そして、狙うは百足の眉間──!」

「……唾を、でございますか?」

「そう。勇気だけでは勝てぬ相手には、『知恵』という毒を塗るのです。藤太が放ったその矢は、見事に魔物の甲殻を貫き、大百足を討ち果たしました」

「すごいです! 某(それがし)も、いつかそんな知恵のある、強いお侍になりたいでございます!」

「ふふ、杏四郎ならきっと、心優しく、知恵ある立派な武士になれますよ。さあ、今夜はもうおやすみなさい。夢の中で、藤太と一緒に魔物退治をしましょうね」


 母の優しい子守唄が、行灯の火を包み込むように部屋に満ちる。

 幼い杏四郎は誇らしげな気持ちで、柔らかな眠りへと落ちていった。その小さな胸の奥には、「いつか自分も」という静かな、しかし決して消えぬ誓いの火が灯っていた。


 あの夜から十年余り。

 異世界の月明かりの下、母との約束を果たした少年武士は、静かに刀を納めた。


──────


「なるほど、そんな昔話があるのね……。あなたが槍に唾をつけた時は、恐怖でついに正気でも失ったのかと思ったけれど。まさか、そんな知識が実戦で役に立つなんて」


 シルフィは膝をついたまま、震える手で乱れた髪を払い、安堵の息を吐いた。戦場に漂っていたどろどろとした絶望感が、杏四郎の語る温かな思い出話によって、わずかに解きほぐされていく。


「がはは! いやぁ、小僧の母ちゃんに助けられたな! まさか異世界の童話が俺たちの命を救うとは。世の中、何が武器になるか分からねぇもんだ」


 バルドも全身の傷を強引に拭いながら、豪快に笑った。満身創痍の三人の間に、勝利の後の穏やかな、しかし確かな連帯感が流れる。


「某(それがし)も、まさか本当に大百足を退治できるとは。母上には感謝してもしきれませぬ。……さて、この亡骸をどうしたもので──」


 杏四郎が律儀に一礼し、真っ二つに分かたれた大百足の死体へと視線を戻した、その時だった。


 ──ビクッ!!


「っ!?」


 絶命したはずの巨体が、電気を流されたかのように激しく跳ねた。

 両断されたはずの断面から、どす黒い魔力の糸が粘液のように噴き出し、無理やり肉体を縫い合わせていく。いや、それは「再生」などという生易しいものではない。何者かが死体を糸の切れた人形のように、外側から強引に操り始めたような、悍ましい躍動だった。


「嘘……生きてる!? そんな、核(コア)を完全に断ち切ったはずよ!」


 シルフィが悲鳴に近い声を上げた途端、大百足の死体は意思を持つ大蛇のようにのたうち回り、ずるずると音を立てて中央の噴水井戸へと引き込まれ始めた。


「逃がさぬッ!」


 杏四郎の反応は最速だった。彼は逃げる肉塊を繋ぎ止めようと地を蹴り、手近な節の部分に刀を深く突き立て、楔(くさび)となって強引に動きを制しようとする。


「小僧、危ねぇ! そいつから手を離せ!」


 バルドの直感が警笛を鳴らす。だが、大百足の巨躯が井戸へと滑り落ちる速度は、少年の制動を遥かに凌駕していた。


「ぬうっ……この引き、死体とは思えぬ……っ!」

「杏四郎!!」


 シルフィが必死に手を伸ばした、その刹那。

 噴水井戸の水面が、漆黒の巨大な「口」を開けたかのように渦巻き、抗い難い引力の奔流となって膨れ上がった。


 ──ドォォォォォンッ!!


 爆発的な吸引力が噴水から発生し、大百足の巨体と共に、刀を突き立てたままの杏四郎を奈落の底へと引きずり込む。


「しまっ……! しるふい殿──!!」


 最後に見たのは、必死に自分の名を呼ぶエルフの少女の、絶望に染まった瞳だった。

 水しぶきが激しく舞い上がり、次の瞬間──噴水は何事もなかったかのように清らかな水を湛え、不気味なほどの静寂を取り戻していた。


 そこに、少年の姿はもうなかった。



「おい、小僧……! ちくしょう、どうなってやがんだ! 完全に息の根を止めたはずだろ、あのバケモノは!」


 バルドが井戸の縁に駆け寄り、狂ったように水面を叩くが、そこには底の見えない暗闇が広がっているだけだった。ワーウルフの鋭い嗅覚をもってしても、杏四郎の気配は、まるでこの世界から消え去ったかのように完全に断絶していた。


「……杏四郎……嘘よ、そんなの……」


 つい数秒前まで、母の思い出話を穏やかに語っていた少年。その温もりがまだ残る場所に、今は夜風が虚しく吹き抜けるだけだった。シルフィは震える指を握り締め、彼が吸い込まれた奈落を見つめることしかできなかった。


──────


 王国の至宝、白亜の王城。その最深部。

 公には「不治の病に伏せる王妃の療養所」とされている地下宮殿は、いまや甘ったるい香料と、鉄錆のような血の臭いが混じり合う異形の祭壇と化していた。


 そこには、病弱という噂とは程遠い、毒々しいほどに美しい女の姿があった。


 燃えるような赤髪は、まるで鮮血を浴びたように艶めかしく、年齢を全く感じさせない妖艶な肌は、蝋細工のように白い。彼女こそ、数年前、死の淵にあった王妃の心の隙間に付け入り、その皮を被って国の中枢に居座り続けてきた魔族──四天将が一人、ヒルデライト。


「ええい、口惜しや……。あのような『上等な』供物、つい手元に置きたくなって油断してしまったわ」


 彼女が床を這うように移動すると、豪奢なドレスの裾からズルズルと異様な音が響いた。

 ドレスの下にあったのは、人の足ではない。先ほど杏四郎が両断した、あの大百足のさらなる異形の一部。彼女にとってあの大百足は単なる使い魔ではなく、自らの魔力と肉体を分かち合った「半身」だったのである。



 かつてこの白亜の街を設計し、愛した王妃は、確かに人間であった。

 だが、病魔に蝕まれ、死を覚悟したある日。彼女の前に「女神の使徒」を名乗る者が現れた。

 黒い装束に身を包み、顔の見えぬその者が差し出したのは、命を繋ぐという魔法の薬。弱り切っていた王妃は、その甘い誘惑を信じてしまった。


 薬を飲み干した彼女は、みるみる活力を取り戻した。

 ただ、「日光に当たることは許されぬ」という助言に従い、彼女は国の水源地である地下深くに、自らのための白亜の牢獄を築いた。


 それが己を魔族へと変容させ、魂まで食い荒らす「呪い」だとも知らずに。


「不気味な瞳をした少年よ。……私の半身をこれほどまでに傷つけた報い、じっくりと、蕩けるような絶望の中で味わわせてあげるわ」


 薄暗い宮殿の奥。意識を失っている十五歳の武士を見下ろし、深紅の王妃は真っ赤な舌で唇を湿らせた。



「まさか、これほどの戦士たちがこの国にいようとはね。私の愛しい半身を、あんなズタズタにしてくれるなんて……あのアホのような狼男に、エルフの小娘、そして……」


 王妃の白く長い指先が、祭壇に横たえられた杏四郎の頬を、蛇が這うように愛撫した。


 意識を失い、無防備に横たわる十五歳の少年。王妃の赤い瞳は、獲物を前にした獣のごとく、ゾクゾクとするような歓喜に細められる。


「……この子だわ。この不思議な力。触れるだけで肌が粟立つほどの、清冽で残酷な魂。これは女神の恩寵、あるいはそれ以上の何か……。どこぞの伝承に記された勇者の類に違いないわ」


 彼女は舌なめずりをし、杏四郎の無防備な首筋に顔を寄せた。これまで若さと魔力を保つために啜ってきた、平凡な少年たちの血とは、放つ芳香の深みが根本から違う。


「このダメージを癒すには、有象無象のガキの血では足りない。けれど、この子の血と魂さえ飲み干せば、私は四天将の枠すら超え、魔王にすら匹敵する力を得るでしょう。……ふふ、ふふふふ! そうなれば、もうこの国を維持する『王妃ごっこ』も終わりね。回復したら、とっととこの退屈な国を灰にして、他の四天将どもを一人ずつ屠りに行ってあげようかしら」


 不気味な笑い声が地下宮殿に響き、王妃は杏四郎の胸元に鋭い爪を立てた。


 冒険者ギルドも、高潔な騎士団も、誰もが「王妃は病で伏せている」という盲信の檻に閉じ込められていた。王家という不可侵の聖域に潜む怪物が、まさかこの国の未来を担う子供たちを食らい、今また最強の切り札をも飲み込もうとしているとは、夢にも思わずに。


「さあ、目覚めなさい。あなたが絶望に染まった時、その魂は最高級の美味に変わるのだから……」


 深紅の髪を揺らし、獲物を前に悦喜に満ちたため息を漏らす魔族。

 王妃の妖艶な右手が、少年の喉元を愛おしむように締め上げようとした、その刹那──。


 ──斬ッ!!


 地下宮殿の静寂を、一筋の銀の閃光が切り裂いた。


「……ギィッ!?」


 王妃の口から、人間とは思えぬ獣の咆哮が漏れる。

 彼女の白く美しい右手が、手首から先を音もなく宙に舞わせ、鮮血の飛沫を撒き散らして床に転がった。


 杏四郎は、いつの間にか祭壇の上で身を翻していた。重力を感じさせない動作で体勢を立て直し、王妃から数歩の距離を取って、低く鋭い居合の構えを完成させている。


「……いやはや。この不思議な『腕輪』のおかげで、助かり申した。しるふい殿には、感謝の言葉もございませぬな」


 杏四郎の手首で、鈍い光を放つ二つの銀細工。

 大百足との決戦前、心配性のシルフィが「念のためよ、お守りだと思って」と半ば強引に彼に装着させた魔道具。


 致命的な一撃を一度だけ肩代わりする「身代わりの腕輪」。

 そして、常に装着者の肉体を魔力膜で保護する「守護の腕輪」。


 井戸の底へ引きずり込まれる際、荒れ狂う濁流と硬い岩に叩きつけられた衝撃を、これらの魔道具がすべて吸い取っていたのだ。その加護があったからこそ、杏四郎は内臓を潰されることもなく、冷たい水底で意識を取り戻すことができたのである。


「貴様……起きておったのか! 面白い、面白いわね、その『眼』……!」


 王妃は切り飛ばされた手首を気にする様子もなく、狂気に濡れた瞳をさらに爛々と輝かせた。彼女が傷口を指先でひと撫ですると、肉が沸騰するように泡立ち、一瞬にして白く柔らかな新しい手が再生される。


「ああ、なんとも素晴らしい生命の輝き。死の淵にあってなお、これほど澄んだ殺気を放てるとは! その不屈の魂、噛みしめるのが今から楽しみでならないわ」


「某(それがし)、其方(そなた)の滋養になる気はさらさらございませぬ」


 杏四郎の瞳から一切の温度が消える。般若の面こそ手元にないが、今の彼の顔は、どのような仮面よりも冷徹な「剣鬼」のそれであった。


「異国の黒髪の少年……ああ、なんて美味しそうなのかしら。その魂ごと、私の中に溶かし込んであげましょう。……さあ、私に食べられなさい!」


 王妃が咆哮すると、豪奢なドレスを無惨に突き破り、背後から数条の巨大な百足の脚が展開された。鎌のようにしなるそれらは、獲物を逃さぬ檻となって部屋を満たしていく。


「いざ。」


 杏四郎の鯉口が静かに、しかし決然と切られる。

 王城の最深部、誰も知らない闇の底。


 十五歳の剣客と、国を喰らう魔妃の一騎打ちが、いま静寂を切り裂いて火蓋を切った。

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