記憶を失った青年
「……え。」
ここ……どこ、だ?
目の前には、金色の髪を風になびかせた美しい少女がいた。
年齢は15.6歳ほどだろうか。
透き通るような青い瞳が、安心したように俺を見つめている。
「よかった……お目覚めになられたのですね。」
優しく心地よい声だった。
俺はゆっくりと体を起こし周りを見渡す。
見渡す限り広がる日本では見たこともないほど大きな木々。
草木の香り。
森の奥から、不思議な鳥とも獣ともつかない鳴き声が聞こえる。
風が木々を揺らし、葉擦れの音が静かに響いていた。
どれも現実とは思えない。
「ここは……。」
思わず漏れた言葉に、少女は少し首を傾げた。
「お加減はいかがですか?」
「えっと……。」
頭が追いつかない。
夢だと思っていた。
神様と話したことも。
異世界へ招待すると言われたことも。
でも、頬を撫でる風も、土の匂いも、肌に触れる草の感触も、あまりにも現実だった。
その時だった。
「殿下、お下がりください。」
低く落ち着いた声が響く。
いつの間にか、少女の前へ二人の男性が立っていた。
一人は黒い燕尾服を身にまとった初老の男性。
白髪交じりの髪を整え、穏やかな表情を浮かべている。
もう一人は銀色の鎧を身に着けた大柄な男だった。
腰には一本の大剣。
鋭い眼差しは、一瞬たりとも俺から逸れない。
「怪しい者ではないようですが、念のため確認させていただきます。」
燕尾服の男性が一歩前へ出る。
「あなたは、ここで何をしていたのですか。」
突然の質問だった。
「……分かりません。」
正直にそう答える。
「女性の声が聞こえて目を覚ましたら、ここにいました。」
男性は静かに頷いた。
「では、お名前を伺ってもよろしいでしょうか。」
「カミシロ、ユウキです。」
「カミシロ、ユウキ?」
男性は一度だけその名前を口にした。
「では、お尋ねします。」
「あなたは何者ですか。」
俺は少しだけ俯いた。
「……分かりません。」
「気が付いたらここにいて、この世界での記憶が無いので…」
男性は静かに目を閉じた。
数秒の沈黙が流れる。
やがて目を開き、少女へ向き直る。
「この方は、嘘はついておりません。」
鎧の男が眉をひそめる。
「つまり?」
「断定はできません。」
「ですが、おそらく何らかの理由で、記憶を失われているのでしょう。」
「ふむ……。」
鎧の男は腕を組み、なおも俺を警戒していた。
その時だった。
少女が一歩前へ出る。
「この方を連れて行きましょう。」
鎧の男は驚いたように少女を見る。
「しかし…素性の知れぬ者です。」
「だからこそです。」
少女は優しく微笑みながら俺を見つめた。
「困っている方を見捨てることはできません。」
「それに、アルベルトも嘘はないと言っています。」
アルベルトと呼ばれた男性は静かに頷く。
「わかりました。そこまでおっしゃるのであれば。」
鎧の男は小さく息を吐いた。
「……承知しました。」
「ありがとうございます。」
少女は嬉しそうに笑うと、俺へ手を差し伸べた。
「立てますか?」
「あ……はい。」
その手を借りて立ち上がる。
「ありがとうございます。」
「お気になさらないでください。」
その笑顔は、どこか人を安心させる不思議な力を持っていた。
森を少し歩くと、一台の立派な馬車が停まっていた。
その周囲には十名ほどの騎士たちが周囲を警戒している。
そして馬車の傍らには、一人の女性騎士が静かに立っていた。
翠色の長い髪。
人間とは違う、長く尖った耳。
凛とした立ち姿からは、ただ者ではない雰囲気が伝わってくる。
彼女は俺を一瞥すると、小さく会釈をしただけで何も言わなかった。
「こちらへどうぞ。」
促されるまま、俺は馬車へと乗り込んだ。
座席は思っていた以上に柔らかく、揺れもほとんど感じない。
向かいには少女とアルベルトが腰を下ろし、鎧の男は馬へと向かった。
馬車はゆっくりと動き始める。
しばらく沈黙が流れた。
「あの……。」
俺は少女へ頭を下げる。
「助けていただいて、本当にありがとうございました。」
少女は優しく微笑んだ。
「当然のことをしたまでです。」
「でも、普通なら見知らぬ人を助けたりしませんよ。」
その言葉に、少女は少しだけ照れたように笑う。
「困っている方を見捨てるような王族にはなりたくありませんから。」
王族。
その言葉に思わず聞き返す。
「王族……ですか?」
「あっ……申し遅れました。」
少女は姿勢を正した。
「私は、ルミナ王国第二王女、ルミナフィリアと申します。」
「お、王女様だったんですか!?」
思わず声が大きくなる。
フィリアは少し恥ずかしそうに微笑んだ。
「そんなに驚かなくても大丈夫ですよ。そして、執事のアルベルト。先ほどの鎧の男は騎士団長のダンです。」
「は、はぁ…。」
王女と話すなんて、日本でもあり得ない。
ましてや、こんな風に助けてもらうなんて想像すらしたことがなかった。
「カミシロユウキさんでしたよね?」
「はい。」
「記憶を失われているのでしたら、無理に思い出そうとしなくても大丈夫です。」
「あ、ありがとうございます。」
俺は素直に頭を下げた。
「ですが、一つだけ確認させてください。」
「はい。」
「本当に、この世界のことを覚えていないのですね?」
「はい。」
「何も分かりません。」
フィリアはアルベルトと目を合わせ、小さく頷いた。
「それでは、簡単にご説明します。」
「ここは人間の国、ルミナ王国です。」
「私たちは現在、エルフ王国へ向かっています。」
「エルフ王国?」
「はい。」
「この世界には、人間、エルフ、獣人、ドワーフ、そして魔族の5つの種族に加え、聖獣や魔物が存在しています。」
「魔族以外の種族にはそれぞれ国があり、交流を続けています。」
俺は驚きながら耳を傾けた。
エルフ。
獣人。
ドワーフ。
魔族。
まるで昨夜見ていた異世界アニメ、そのままの世界だ。
「ちなみに、先ほど馬車の外にいた女性騎士はエルフです。」
「あの耳の長い人ですか?」
「はい。」
「今回の目的地がエルフ王国ですので、案内役として同行してくださっています。」
なるほど。
だから一人だけ見た目が違ったのか。
「それと……。」
フィリアが話を続けようとした、その時だった。
「敵襲!!」
馬車の外から鋭い声が響く。
「魔物だ!!」
馬車が大きく揺れ、急停止する。
「殿下、お怪我はありませんか!」
騎士団長、ダンの声が聞こえた。
アルベルトは落ち着いた様子で窓の外を確認する。
フィリアも表情を引き締めた。
俺は恐る恐る窓から外を覗く。
そこには、牙を剥き出しにした巨大な狼のような魔物が5匹。
低く唸り声を上げながら、騎士たちを威嚇していた。
ダンはゆっくりと剣を抜く。
同時に、先ほど見かけたエルフの女性騎士も前へ歩み出た。
二人は互いに目を合わせると、小さく頷く。
その瞬間だった。
空気が張り詰める。
(あれが……魔物。)
夢じゃない。
ここは、本当に異世界なんだ。




