第4話 昇華と純白の閃光
二〇二六年、八月。
うだるような熱帯夜の空に、彼女はいつもと変わらぬ紅い衣を纏って立っていた。
背中にのしかかる数十キロの火薬の重みは、昭男にとって、彼女と結ばれるための確かな引力だった。盆休みの夜の芝公園は、死者の魂を見送る送り火の季節だというのに、生者たちの空騒ぎに満ちていた。昭男は観光客の群れを抜け、立ち入り禁止のフェンスを容易く乗り越える。透明な老人の最後の道行きを阻む者は、誰もいなかった。
這うようにしてたどり着いた塔の根元。巨大な主脚の内側に身を潜めると、そこはもう下界の喧騒が届かない、二人きりの聖域だった。
昭男は重いリュックを下ろし、熟練の指先で暗闇の中、愛撫するように爆薬を鉄骨の急所へと据え付けていく。
冷たい筒を這わせながら、昭男の脳裏には五十年前の記憶が鮮明に蘇っていた。
二十歳の頃、見様見真似で初めてこの足元に潜り込み、震える手で鉄骨に触れた夜。あの時も、彼女は今日と同じように温かかった。高度経済成長の熱狂の中、誰の目にも留まらない地下のモグラだった彼を、彼女だけが見下ろすことなく受け入れてくれた。
『いつか、お前に一番似合う光をやるからな』
若き日の無力な自分が心の中で誓ったあの日の約束を、半世紀の時を経て、ついに果たす時が来たのだ。起爆装置の配線を終えたとき、彼の手は微かに震えていた。恐怖からではない。長い片思いがようやく実を結ぶ、歓喜の震えだった。
昭男は、インターナショナルオレンジに塗られた太い鉄骨に、ゆっくりと自分の額を押し当てた。
日中の猛烈な太陽と、ライトアップの熱をたっぷりと吸い込んだ鉄は、まるで血の通った生き物のように脈打っているように思えた。昭男はずっと、この温もりが欲しかったのだ。母親にすら抱きしめられたことのない彼の孤独な魂を、彼女は今、圧倒的な質量と熱をもって受け入れてくれている。
眼下で蠢く無数の光は、彼をずっと嘲笑い、そして今はもう彼女を見上げようともしない、無関心な街の輝きだ。しかし、昭男の耳にはもう下界の音は届いていない。聞こえるのは、間近にある巨大な照明器具が発する「ジーーー」という低い駆動音だけ。それがまるで、彼女自身の静かな呼吸——甘美な吐息のように聞こえ、昭男の心を溶かしていった。
長年、暗い地の底で泥と汗に塗れてきた彼の手が、起爆装置のスイッチを固く握りしめる。冷たいプラスチックの感触に手汗が滲んだ。もう、理不尽な世界に奪われるものは何もない。
彼は鉄骨に頬をすり寄せたまま、愛しい存在に語りかけるように、ひときわ優しく囁いた。
「一緒に行こう。自分たちが必要とされている場所に」
そして、躊躇いなく親指に力を込めた。
その瞬間、世界から一切の音が消えた。
轟音よりも先、昭男の網膜を灼き尽くしたのは圧倒的な純白の閃光だった。日の差さない地の底で彼が仕掛け続けてきた破壊の力が、今、夜空を焦がす巨大な太陽へと変わる。
人間の作ったどんな宝石よりも気高く、美しい炎の束。五十年の歳月をかけて練り上げた、彼からの最後の贈り物だった。
直後、下から突き上げるような咆哮が彼を貫いた。
しかし、不思議と恐怖はなかった。インターナショナルオレンジの太い鉄骨がひどく甘美な悲鳴を上げてひしゃげ、彼の身体に向かって崩れ落ちてくる感覚は、まるで愛しい恋人が、最後に力強く抱きしめ返してくれたかのようだった。
フワリと、重力が消える。
吹き荒れる熱風とオレンジ色の爆煙の中、昭男は母なる塔の腕に抱かれたまま、深い夜の底へと落ちていった。もう、誰の冷たい視線も届かない。彼らはついにこの無情な街を捨てて、二人だけの永遠を手に入れたのだ。
――数分後、東京の街に不気味なほどの静寂が訪れた。
焼け焦げた鉄の匂いと、赤い火の粉が舞う夏の夜空。
そこにはもう、見慣れたはずの巨大なシルエットはない。
遠く離れた墨田の空では、冷たい青色を纏った新しい塔が、突然の喪失に呆然と立ち尽くす東京の街を、ただ無機質に見下ろしていた。




