第5話 空白の空と永遠の抱擁
翌朝、日本中のテレビやスマートフォンは、かつてないパニックと混乱を映し出していた。
「未曾有の爆破テロ」「東京タワー、完全に崩落」
ヘリコプターからの空撮映像が、無惨にひしゃげ、黒焦げになった巨大な鉄の残骸を繰り返し映し出している。キャスターたちは上ずった声で、犯行声明の有無や、背後にある巨大なテロ組織の影について推測を巡らせていた。
同じ頃。いつもと変わらぬ粉塵にまみれた地下のトンネル工事現場では、プレハブの詰所で若い現場監督が舌打ちをしていた。
「おい、土屋の爺さん来てないのか?」
問いかけられた作業員たちは、互いに顔を見合わせて肩をすくめるだけだった。誰も彼の連絡先を知らないし、どんな顔をして笑うのかすら明確に思い出せない。無断欠勤など現場ではよくあることだ。「まあ、いい歳だったし、急に辞めたんだろ。代わりはいくらでもいる」と、監督は忌々しそうに出勤簿の『土屋昭男』という名前に、赤いボールペンで無造作な斜線を引いた。
それで終わりだった。
彼の不在に気づいた者は世界でただ一人だけであり、その不在を悲しむ者は、この広い東京に誰一人としていなかった。
警察も、マスコミも、国家の威信をかけて「見えざる巨大な敵」を捜索し続けるだろう。彼らは決して気づかない。これほどまでに壮大な破壊の理由が、政治的な思想でも、社会への復讐でもなく、名もなき透明な老人が半世紀にわたって抱き続けた「ただひとつの純愛」であったことなど。
土屋昭男という男は、生前も、そして死してなお、誰の視界にも入らない完全な「透明人間」であり続けた。だからこそ、彼の純潔な愛は、誰の理解や同情という手垢にもまみれることなく、永遠に守られたのだ。
夏の日差しが、崩れ落ちた芝公園の残骸を無慈悲に照らし出している。
圧倒的な爆発の高熱によってドロドロに溶けたインターナショナルオレンジの太い鉄骨は、あちこちで複雑に絡み合い、冷えて固まっていた。
その最も深く、誰の手も届かない暗がりで、一人の男の小さな骨は、愛する者の鋼鉄の身体と完全に溶け合い、もはや見分けることすらできない「ひとつ」になっていた。
二十歳の頃、凍える手を擦り合わせてそっと表面に触れることしかできなかった不器用な青年は、半世紀の時を経て、ついに彼女の最も深い場所で、その身体の一部となることができたのだ。誰も引き剥がすことのできない、究極の抱擁だった。
遠くから見上げれば、東京の空には、ぽっかりと不自然な四角い空白が空いている。
人々はその空白を指さして「悲劇の跡地」と呼び、失われた昭和のシンボルを嘆き悲しむだろう。遠く離れた墨田の空では、冷たい青色を纏った巨大な塔が、その空白をどこか所在なさげに見下ろしている。
だが、あのぽっかりと空いた夏の空の余白こそが、彼が人生のすべてを懸けて完成させた、この世で最も美しく、狂おしいウェディングケーキだった。
うだるような熱風が吹き抜ける中、焼け焦げた鉄の瓦礫の奥底から、微かな風の音が鳴る。
それはまるで、半世紀の恋を実らせ、ついに永遠の眠りについた二人が立てる、静かで甘美な寝息のようだった。




