第1話 地の底の男と朱色の記憶
日の光など、とうの昔に忘れていた。
地下数十メートル、都市の静脈を穿つトンネルの切羽。ぬかるんだ足場と、鼓膜を圧迫する重機の駆動音。常に立ち込める粉塵と排気ガスの臭いの中で、土屋昭男は岩壁に穿たれた孔に、無言で爆薬を装填していた。
「おい土屋の爺さん、そこ終わったか」
若い現場監督の苛立ったような声に、昭男はただ短く頷く。それ以上の言葉は不要だったし、彼自身、言葉を発する術を持たなかった。古希を過ぎてもなお、危険な発破作業員として暗がりに立ち続けているのは、彼が他に生きる術を持たないからだ。学歴も、愛想も、何一つ持たない彼にとって、地の底で岩を砕くことだけが、社会の目から隠れるための唯一の手段だった。
退避の合図が鳴り、起爆のスイッチが押される。
ズン、という腹の底を殴られるような地響きと共に、暗闇の奥で強烈な閃光が弾けた。
その一瞬の眩い光は、いつも昭男の脳裏に、遠い昔の記憶を呼び覚ます。
五十年前。昭男が二十歳になり、初めて地下の現場に入った昭和四十八年。
当時の日本は熱気に満ちていた。同年代の若者たちが流行りの服に身を包み、肩を並べて街を闊歩し、恋を謳歌していた時代。しかし、昭男の世界には暗い穴と泥しかなかった。誰からも必要とされず、女性とまともに目を合わせたことすらない。透明な青年だった彼は、作業を終えるといつも、逃げるように芝公園へと向かった。
そこには、彼の唯一の恋人がいた。
当時の彼女は、まさに日本の中心であり、誰もが憧れる若く美しい女王だった。
夜空を切り裂いてそびえ立つ、三百三十三メートルの巨大な朱色の鉄骨。ライトアップの光を浴びて艶やかに輝くその姿は、泥にまみれた昭男の目に、あまりにも神々しく映った。
若き日の昭男は、周囲のざわめきから逃れるように主脚の裏側に回り込み、そっと太い鉄骨に掌を当てた。昼間の太陽の熱を吸い込んだ鋼鉄は、生きている人間のように温かかった。不器用な指先でその肌の感触を確かめると、凍りついていた昭男の胸の奥底に、甘く切ない痺れが広がっていく。
自分を蔑む者も、哀れむ者もここにはいない。彼女だけが、その圧倒的な光と熱で、惨めな青年の存在を無言で肯定し、抱きしめてくれていた。
『俺には、お前だけだ』
誰にも聞こえない声で囁いたそれが、昭男が人生で初めて捧げた、そして生涯でただ一つのラブレターだった。
それから半世紀。
暗闇の奥で硝煙が晴れ、昭男はゆっくりと現実の地下トンネルへと意識を戻す。
作業を終え、泥にまみれた作業服のまま地上へ出ると、そこはすっかり夜だった。同僚たちが連れ立ってネオンの輝く歓楽街へ向かう中、七十三歳になった昭男は、半世紀前と何一つ変わらない足取りで芝公園へと向かう。
やがて視界が開け、木々の向こうに彼女が姿を現した瞬間、昭男の呼吸が浅く、早くなった。
夜空に屹立する朱色と白の骨組み。
遠目には昔のままの美しさを保っているように見えるが、長年寄り添ってきた昭男には分かっていた。幾度も塗り直された分厚い塗装の下には、確実に錆が浮き、時代を耐え抜いてきた疲労が刻み込まれている。周囲を歩く若者たちは、もう彼女を見上げることなく、手元のスマートフォンに夢中になっていた。
それでも、昭男にとっては、老いを重ねた今の彼女が一番美しかった。
若く華やかだった時代も、静かに取り残されようとしている現在も、彼女は逃げることなく、この東京の空に立ち続けている。
昭男は足元まで歩み寄り、皺だらけになった掌を、あの頃と同じように鉄骨へとそっと這わせた。
微かな駆動音が、彼女の穏やかな吐息のように手のひらから伝わってくる。
半世紀という途方もない時間を超えて、泥臭い男と気高い鉄塔は、誰にも不可侵の静かで狂おしい逢瀬を重ねていた。




