プロローグ
昭和三十三年、冬。高度経済成長という熱病に浮かれる東京の街で、五歳の土屋昭男が息を潜める四畳半の木造アパートだけは、いつも冷たい泥とカビの匂いがしていた。
女手一つで彼を育てる母親は、生きるために朝から晩まで身を粉にして働いていた。夜遅くに疲れ果てて帰る彼女の心には、昭男へ向ける愛情の余白など微塵も残されていなかった。隙間風の鳴る薄暗い部屋で、昭男は誰とも言葉を交わすことなく、ただ柱の傷や畳のささくれを指でなぞって一日を過ごす「透明な子供」だった。窓の外は新しい時代へ向かう喧騒に満ちていたが、誰もこの薄汚れた硝子の向こうに息を潜める小さな少年に気づく者はいない。
ある夕暮れ。凍えるような寒さの中、昭男はふと窓硝子に顔を近づけた。
結露を小さな手のひらで拭い去ると、スモッグに霞む灰色の空を切り裂くように、巨大な鉄の骨組みがそびえ立っていた。
完成を間近に控えた日本電波塔だった。
むき出しのインターナショナルオレンジの鉄骨が、沈みゆく夕陽を浴びて血のように赤く燃え上がっている。街のすべての光と熱を吸い上げたかのようなその巨大な姿は、貧しく冷え切った昭男の世界において、あまりにも暴力的で、狂おしいほどに美しかった。
「……あ」
言葉をうまく発せない少年の口から、無意識のうちに熱い吐息が漏れた。
母親にすらまともに抱きしめられた記憶のない昭男の空っぽの眼球を、その塔の赤色だけが絶対的な熱量をもって焼き尽くした。彼女はただそこに屹立しているだけで、泥にまみれた昭男の存在を力強く肯定し、すべてを包み込むような光で抱きしめてくれているように思えたのだ。
それは、土屋昭男という男の魂が、ひとつの無機物に永遠に縛り付けられた瞬間だった。




