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第4話 ソニック・マンティス

 森の主、ガーディアンと別れてから二日が過ぎていた。

 狂乱から解放された巨大獣は、礼代わりにと、この賢者の遺跡までの道のりと、そこを繋ぐ村々の情報を教えてくれた。


 浮島の群れが起こす酷い乱気流で、空からの道が使えない以上、使徒もアキラたちも、ただひたすらに歩くしかなかった。


 今回の仕事を引き受けた理由は、予算のことだけではなかった。

 普段の仕事では、いつ、どこで、誰と、何を、いつまで、と許可を得なくてはヴェイルに来ることもままならない。

 それが、今回は「どこにいるか分からない者を追う仕事」つまり、どこに行くのも自由。

 彼にとって、この過酷なハイキングは少しだけ楽しい旅でもあった。


「……アキラ。足元、気をつけてください。根が張っています」

「うん、ありがとう。……おっと、これは珍しいな」


 アキラが足を止めたのは、根の隙間に群生している、赤い実をつけた地味な雑草の前だった。

 彼は子供のように目を輝かせ、しゃがみ込む。


「また雑草ですか? 先を急ぎましょう」


 シュナは呆れたように溜息をつくが、アキラは構わず指先でその赤い実を摘まみ上げた。


「シュナ、これはただの雑草じゃないよ。『火吹草』だ。人界の植物図鑑には載っていないけど、母さんがよく教えてくれたんだ」


「お母様が?」

 アキラの手のひらで転がる小さな実をシュナも覗き込む。


「ああ。とても不思議な草でね、葉には火属性の魔力が籠り、このちいさなホオズキみたい種子袋には、高純度の揮発油が溜め込まれているんだ」

 アキラはポケットから小瓶を二つ取り出して、種子袋と葉を採取する。


「種を遠くに飛ばすために、成熟するとパンッと弾ける仕組みになってる」

 アキラは懐かしそうに、赤い実を指で転がした。


「母さんの森では、これを『森の着火剤』として使っていたんだよ。……ほら、ちょっと油の匂いがするだろ?」

 アキラは実を納めた小瓶をシュナに渡した。


「……確かに。鼻を突く、燃料のような匂いね」

 シュナが眉をひそめて鼻を覆う。


「危険ですから、あまり触らないでください。アキラの手は、試験管を持つための大事な手なんですから」


「うん。……でも、ここにあるってことは、この一帯の土壌は硫黄分が多いのかな」

 アキラは軽く手を払うと、その場を立ち去った。


 ただの植生調査の一環と、そのレクチャー。

 その時はまだ、その知識が数時間後に自らの命を救うことになるとは、アキラ自身も思っていなかった。



 ◇◇◇



 ――さらに数時間歩いた先。


「この辺りは魔素が濃いですね、次元転移の揺らぎが起きるかもしれないから、足元に注意してください」

 シュナが周囲を警戒しながら、アキラに話しかけた。


「本当?疲れで感覚が鈍ってるみたいだ。……そろそろ休憩にしようか」


 アキラが立ち止まり、背負っていたリュックを下ろした、その時だった。


 ヒュンッ。


 音が消えた。

 いや、世界が裏返ったような浮遊感をアキラは感じた。


「――ッ!? アキラ!」


 シュナの鋭い声が遠く聞こえた。

 足元の地面が唐突に黒い穴へと変わっていた。

 樹海特有の魔素溜まりが引き起こす、『空間歪曲の亀裂』だ。


「しまった――」


 咄嗟にアキラは手を伸ばす。

 しかし、その指先はシュナの手を掠めることもなく、彼は重力に従って森の地殻変動が生んだ断層の底へと吸い込まれた。

 アキラの目に最後に見えたのは、穴の縁に取り残された自分のトランクとリュックだけだった。


「私としたことがッ――」


 シュナは焦る気持ちを堪えながら、亀裂の淵に慎重に手をやって、目を瞑った。


(アキラと私の間に結ばれた契約の糸を辿れば、どの地点まで飛ばされたか分かるはず……)

 シュナの意識が消えたアキラを追う。


「――見えたッ!今行きます!アキラ、どうか無事でッ!!」

 シュナはアキラの荷物を掴むと走り出した。


 ◇◇◇


 目が覚めると、そこは灰色の岩肌が露出した谷底だった。


「……生きてる」


 木々の隙間に広がる空を見ながら、アキラは呟いた。

 湿った空気が肌にまとわりつく。

 彼はゆっくりと体を起こし、眼鏡の位置を直しながら呟いた。


「……せめて、魔素計を起動させてれば気付けたのに。やっちゃったなァ」


 そして、何かを思い出したように、慌てて周囲を見回した彼は、小さく息を吐いた。

 あるはずの重みがない。

 トランクもリュックもない。

 あるのは、懐に入れていた普段使うこともない、魔法の杖が一本だけ。


「……最悪だ、丸腰じゃないか」

 アキラは自嘲気味に呟き、周囲を見渡した。


 静かだ。

 あまりにも静かすぎる。鳥の声も、虫の音もしない。

 それはつまり、このエリアに「他の生物を寄せ付けない捕食者」がいることを意味していた。


 カサッ。


 背後の岩陰から、乾いた音がした。

 アキラが振り返ると、そこには三つの影があった。


 身の丈2メートルほどの巨大なカマキリ。


 その体色は岩肌と同じ灰色をしており、前脚の鎌は超振動によって空気を震わせている。


『聴音カマキリ(ソニック・マンティス)』


 視覚を持たず、音だけで獲物を狩る、魔法耐性の外殻を持った厄介な害虫だ。


「……ハハ、詰んだかな」


 アキラは杖を抜き、切っ先をカマキリに向けながら、慎重に立ち上がり、敵との間合いを取り始めた。そして、震える手で初級攻撃魔術の構成式を脳内で描く。


「炎よ!(イグニス)」


 杖の先に灯ったのは、本来の小火球を連続して放つイグニスとは程遠い、ライターの種火のような頼りない小さな炎だった。


 カマキリたちは、その微弱な魔力に反応すらせず、ただアキラの心臓の鼓動を聞き分け、ジリジリと間合いを詰めてくる。


 アキラは気付いていなかった。

 彼の足元。岩の割れ目に、赤い実がひとつ、転がっていることに。


 一方、その頃……


「三十キロ先、谷底にアキラの反応……、マズいッ!魔獣数体の反応もあるッ!」


 シュナは唇を噛んだ。


「私が行くまでムリをしないで、アキラッ!」

 アキラの無事を願いつつ、人間離れした脚力でシュナは森を駆け抜けた。



(やっぱり、ダメか)

 アキラは心の中で、自分自身の血を呪った。


 ただの人間の父。 そして、森人エルフの母。

 異なる種族の間に生まれた『混血ハーフ』である彼は、エルフとしての長命を受け継ぎながら、肝心の「魔力回路」が一部欠損して生まれてきた。

 人間にしては魔力を感じ取れるが、エルフのように魔力を練ることができない。


 中途半端な出来損ない。

 だから彼は魔導士にはなれず、学者になった。


『……アキラ。嘆くことはないわ』


 ふと、脳裏に母の声が蘇った。

 もうずいぶん昔に聞いた森の奥での記憶。

 自分が魔法を使えず、周りの子たちにいじめられて、泣いていた幼い日のこと。


『魔法なんて世界にある力のほんの一部。お前には、もっと別の「声」が聞こえているでしょう?』

『魔力がなければ、あるものを使いなさい。森はいつだって、お前の味方をしてくれる』

『それが、私たちの本当の魔法よ』


「……そうだね、母さん」


 アキラの瞳から恐怖の色が消えた。

 学者の目から、森の狩人の目へ。


 彼はゆっくりと視線を落とし、岩の隙間に群生している赤い実をつけた雑草を見つめた。

 数時間前、シュナに「危険だ」と注意された、あの草だ。


「……どうせならシュナに効果を見せたかったけどね」

 アキラは杖を懐にしまい、雑草を鷲掴みにして引きちぎった。


 カマキリとの距離感を保ちながら、両の手のひらで草を猛烈な勢いで揉み込む。

 草の繊維と種子が潰れ、さっき嗅いだあの「鼻を突く揮発性の油」が染み出す。


「……火吹草の種子袋には、高純度の揮発油が含まれていて、しかも、葉には火属性の魔力を見た目では信じられないほどに蓄えているんだ。……知らない人多いけどね」


 アキラは誰に聞かせるでもなく、講義をするように呟いた。

 迫りくる死の刃を前にしても、その手つきは実験室のように正確だった。


「酸素と混ざれば、その爆発力は黒色火薬の12倍……」

 アキラは油と草の汁が混じった、その発火源を筒状に丸めた右手に詰め込んだ。


 キチチチチッ!


 先頭のカマキリが、痺れを切らして跳躍した。

 その鎌が振り下ろされるまで、コンマ数秒。

 その筒口を、飛びかかってきたカマキリの口元へと突き出す。

 カマキリの大顎が、アキラの腕を噛みちぎろうと開かれる。


 その暗い口内へ向けて。

 アキラは左手の指を、右手の筒の前に添えた。


「……僕のシケた種火でも、『着火剤』にはなるだろう?」

 アキラは微弱な魔力を左手の指先に集中させた。

 特別なことはない、いや、出来ない。

 だから、さっきと同じことをやるだけ。


「……イグニス」


 パチンッ。


 指を鳴らす乾いた音が、静寂な谷底に響いた。

 指先から弾けた小さな火花が、筒の中に充満した揮発ガスに触れる。


 一瞬、音が消えた。


 ドゴォォォォォォォン――!!


 刹那、アキラの右手から紅蓮の爆風が一直線に噴出した。


 それは純粋な魔法の炎ではない。

 魔力の補助を受けた油が燃え、酸素を喰らい、物理的に膨張した、ドス黒い現実の炎だ。


 指向性を持った爆炎は火炎放射器のごとくカマキリの口内へ噴き込み、その体内を内側から焼き尽くした。


 断末魔すら上げる暇もなく、カマキリは黒焦げの肉塊となって吹き飛んだ。

 残りの二匹は仲間の爆死と漂う強烈な油の臭いに恐れをなしたのか、慌てて岩陰へと逃げ去っていった。


「……ふぅ」


 アキラはその場にへたり込んだ。

 右手は皮膚がめくれ、黒く炭化している、火傷の痛みがジリジリと脳を焼く。


「……やっぱり、無茶な使い方だ。手を砲身にするアイデアは絶対にナシだ」


 アキラは痛む手を庇いながら、空を見上げた。

 谷底の狭い空は、相変わらず極彩色に淀んでいる。 けれど、風の音が戻っていた。


「アキラッ!!」


 その声は谷の頂きから響いた。逆光の中にアキラは人影を見た。


 シュナだ。


 彼女は血相を変えて飛び降り、真紅の髪をなびかせながら駆け寄ると、アキラの胸ぐらを掴む勢いで抱きつこうとした寸前で止まった。


 彼の前に転がる、黒焦げのカマキリの死骸。


 そして、酷く焼けただれたアキラの右手を見て、彼女の瞳が揺れた。


「どうして……ッ! どうして待っていてくれなかったのですか!」


 彼女はアキラの胸に顔を埋め、子供のように叫んだ。

 その瞳には涙が溜まり、竜の縦孔が不安げに揺れている。


「私がいない間に、貴方が死んでしまったら……私は……世界を焼いてしまうところでした」


「ごめんよ、シュナ。時間がなくて思いつきで、手で発火させちゃったよ」


 アキラはシュナの背中をポンポンと軽く叩く。


「……火吹き草、ほんの少しにしたのに、とんでもなく危険だったね。シュナの言うとおり、あまり触るものじゃなかったね」


 アキラが苦笑すると、シュナは何も言わず、その場に跪いた。

 そして、アキラの火傷した手を、そっと自分の両手で包み込んだ。

 竜の体温は高いはずなのに、その手はひんやりと冷たく、心地よかった。


「……無事で、よかった」


 震える声で呟くシュナに、アキラは「心配させてごめんね」と短く答えた。

 酷いケガではあるが、魔草治療で十分手当できる。

 アキラはシュナから受け取った荷物から目当ての草花を探し始めた。


 二人の間に再び静寂が戻る。


 アキラはふと、思う。

 この長い旅路も、この痛みも、いつかは思い出になるのだろうか。

 母が教えてくれた森の記憶のように。


 そして、自分よりも遥かに長く生きるであろう、この竜姫にとっても、いつか自分が「懐かしい記憶」になる日が来るのだろうか。


 そんな事を考えながら、アキラは右手に巻いた包帯の裾をシュナに結んでもらった。


「……よし。行こうか、シュナ。まだ、始まったばかりだ」

「……無理はしないでね、アキラ」


 アキラはシュナの手を借りて立ち上がった。


 その背中には、魔法使いのような万能さはない。

 けれど、その掌には、確かな知恵と焦げ付いた草の匂いが残っていた。

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