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第10話 幻影のミラーレイク


 森を抜けた先に広がっていたのは、息を呑むような絶景だった。


「……きれい」

 シュナが思わず呟く。


 そこには、空の青と雲の白を完璧に反射する、広大な『鏡の湖』が広がっていた。

 風はなく、水面は硝子のように静止している。

 空と湖の境界線が曖昧になり、まるで空の中を歩いているような錯覚に陥る幻想的な空間だ。


「ここが『鏡の湖』か……。美しいけど、少し静かすぎるな」


 アキラは警戒を解かず、湖畔の植物を観察した。

 水際には、クリスタルのように透明な花弁を持つハスの花が群生し、甘い香りを漂わせている。

「んん……?これ、夢見蓮に似てるけど、なんか違うな……」

「キュウ……(なんか、あまい匂いがおいしそう)」

 ベルカが鼻をヒクつかせるが、アキラは「食べちゃダメだよ」と釘を刺した。


 アキラは魔草知識の記憶を遡りつつ、湖面を見つめると、妙な違和感を感じた。

「シュナ、水には近づかないでくれ。この透明度は異常だ。水底が見えないほど深いのに、魚一匹いないなんて――」

 アキラが振り返ると、そこにシュナはいなかった。


「……シュナ?」

 彼女はいつの間にか、湖の水際まで歩み出ていた。

 その瞳は虚ろで、水面の一点を凝視したまま、ふらふらと水の中へ足を踏み入れようとしている。


「シュナ! ダメだ!」

 アキラが叫ぶが、彼女には届いていない。


 シュナの視界には、現実とは違う光景が映っていたのだ。


(……アキラ?)

 シュナの水鏡の中に、愛しい主人の姿があった。

 だが、彼はシュナの方を見ていない。


 彼の隣には、黒髪の美しい人間の女性――『真冬』が立っていた。


 アキラは真冬の手を取り、愛おしそうに微笑んでいる。

『……ごめんね、シュナ。やっぱり僕は、本物の彼女がいい』

『君はただの代用品だ。契約は破棄するよ』


「――ッ!?」

 シュナの心臓が凍りつく。


 一番恐れていた言葉。

「……そ、そんな……」


 一番見たくなかった光景。

「……嫌です、アキラ。行かないで……私を捨てないで……」


 アキラの目が今まで見たことが無いほど、冷徹に突き刺さる視線をシュナに向ける。

『……シュナ。君は真冬に似ているから、傍に置いていたんだ』


 シュナの目から涙が溢れる。

「それでも、あなたを大事に思う気持ちは本物です!アキラ、行かないで!」


 彼女は幻影のアキラを追いかけ、さらに深く水の中へと進んでいく。

 腰まで水に浸かり、それでも止まらない。

 このままでは、湖底へと引きずり込まれる。


「シュナ!!」

 バシャバシャと水を蹴る音が近づく。

 現実のアキラも、なりふり構わず水に飛び込む。

 彼はシュナの腕を掴み、強引に引き寄せた。


「目を覚ませ! シュナ!そこに僕はいない!」

「……離して! アキラが!アキラが行ってしまうのです!」

 シュナは錯乱し、アキラを振り払おうとする。

 竜の怪力が、アキラの細い腕をきしませた。

(完全に幻覚を見てる。なんだ?何がシュナに作用してる!?)

 アキラはシュナの腕を掴んだまま、あたりを見回す。


「ッ……! ベルカ、あれだ! あの蓮の花だ!」

 アキラは岸辺のベルカに叫んだ。

「あの花が幻覚香を撒いている! 思い出した!あれは『悪夢蓮ナイトメア・ロータス』だ! 花粉袋を潰してくれ!」


「キュッ!!(合点!)」

 ベルカが岸辺を疾走する。

 大きな尻尾を振り回し、群生するクリスタルの蓮を次々となぎ倒していく。

 バキン、パリンッ! 硬質な音が響き、花が砕け散ると同時に、漂っていた甘い香りが急速に薄れていく。


「はっ……!?」

 シュナの瞳に理性の光が戻る。

 水鏡に映っていた真冬の幻影が揺らぎ、ただの波紋へと変わっていく。


「……私、何を……?」

 我に返ったシュナの目の前には、ずぶ濡れになりながら、必死に自分の腕を掴んでいるアキラがいた。


「……アキラ?」

「よかった……戻ってきてくれた」

 アキラは安堵のため息をつくと、力の抜けたシュナを支えながら岸へと上がった。


「キュウゥゥッ」

 ベルカが大急ぎで戻ってきたのを見て、アキラは微笑んだ。

「あぁ、ベルカ。本当にありがとう。キミがいなかったら完全に終わってた。キミがいてくれて良かったよ」

 アキラに優しく頭を撫でられて、ベルカは頬を赤く染めた。


『ベルカ、あなたがいなかったら、アキラを巻き添えにとんでもないことになるところでした。あなたの勇敢さにお礼を言うわ。ありがとう、ベルカ』


『僕が可愛いだけじゃないって、ちょっとは見直した?ふふん』


 今日のお手柄は間違いなく、ベルカだった。




 ◇◇◇



「……申し訳ありません。私としたことが、あんな植物の罠に……」


 岸辺で焚き火にあたりながら、シュナは小さくなって震えていた。

 幻覚だと分かっていても、あの時の恐怖――アキラに捨てられる絶望感は、まだ胸に残っていた。


「僕も早くに気付くべきだったよ。あれは『悪夢蓮』という花で、魔力が強ければ強いほど、幻覚作用が強く出る花粉を撒き散らすんだ。この花粉は色もなく、香りも弱い……気付いた時には遅い種類なんだ。実際に拷問なんかにも使われている厄介な植物だよ。似ているとはいえ、夢見蓮と見間違えるなんて、魔草学者として情けないよ」

 アキラは自分の知識の不完全さに落ち込んだ。


「……アキラ。貴方は、いつか……」

 シュナが言い淀む。

「ん?」

「……あ、いえ……なんでもないです」

 シュナは膝を抱えて俯いた。

 しかし、何でもよかった。何でもいいからアキラの言葉が欲しくて続けた。

「アキラ……、いつか……、いつか、真冬さんの話を聞かせてもらえますか」


『本物の彼女がいい』という幻聴が耳から離れない。

 自分はアキラの記憶の中にいる『真冬』という女性の姿を借りているだけの竜。

 いつか自分は不要になるのではないか。

 それを考えるだけで彼女の心は震えた。


 アキラはタオルで髪を拭きながら、そんなシュナの背中を見つめた。

 彼女が何を見たのか、アキラには分からない。

 だが、あの時彼女が「行かないで」と叫んでいたこと、そして、今の怯えた様子と、真冬の話を聞きたがった事から、アキラはなんとなく察していた。


「うん、……いつかね」


 今のアキラには精一杯の答えだった。

 それでもアキラは気付いた。

 この誇り高き竜姫が、実はとても繊細で、心の奥底に不安を抱えていることを。


 アキラは隣に座り、何も言わずに自分の乾いた上着をシュナの肩にかけた。

「……風邪をひくよ。女の子に冷えは大敵だ」

「……アキラ」

 俯くシュナに、アキラはぎこちない感じながら、そっと彼女の肩に手を回して、自分に抱き寄せた。

「シュナ、僕はどこにも行かないよ。……そもそも契約があるからね」

 アキラは少し意地悪く笑ったあと、真面目な顔に戻った。


「それに、こんな危険な旅、君とベルカがいなきゃ、僕は3日で死んじゃうよ。……頼りにしてるんだ、キミは僕のパートナーだろ?」


 その言葉は、愛の告白ではなかった。

 けれど、今のシュナが一番欲しかった「必要とされている」という確証だった。

 シュナはアキラの上着をギュッと握りしめ、その匂いを吸い込んだ。


「……はい。私が、貴方を守ります。何があっても」


 湖の水面には、焚き火に照らされた二人の姿が、今度は歪むことなく寄り添って映っていた。

 その夜、シュナはアキラの腕をいつもより強く抱いて眠った。


 その様子をベルカは少し複雑そうに見つめた。


「……キュウ」

 小さなため息を吐くと、ベルカはアキラの顔の左側で丸まって、まどろみへと落ちていった。

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