0083 憎しみの在処
──迷宮都市ダンジョン 中層(side大翔)──
リゼラへと繋がる光の糸を頼りに、俺たちは迷路のような洞窟を最短で攻略していった。
「この先、嫌な感じがする」
「くえ」
ピピが後ろ脚にぐっと力を溜め────放たれた矢のようにぐんと加速する。
嫌な気配のする場所を通り抜けると、一拍遅れて背後で火炎放射が吹き荒れた。
スイッチらしきものは無かったし、おそらく通りかかったら自動で発動するタイプの罠だろう。
道中には他にも大量の罠が仕掛けられていたが、ピピはそれらを自前の素早さで切り抜けていった。
天然の洞窟に見えるけど、罠があるということは人工物なのかもしれない。
あるいは、もともとそこにあった天然の洞窟に後から人間が手を加えたか。
さらに進むと、突然視界が開けて巨大な円筒状の吹き抜けに出た。
俺たちが出てきたのは壁に開いた横穴の一つで、辺りを見渡すと、壁のあちこちに同じような横穴が確認できた。
横穴同士は岩の吊り橋で繋がっていて、立体交差している吊り橋には冒険者が設置したと思しき縄梯子が掛けられている。
俺の指先から伸びる光の糸は、真上に向かって伸びている。
どうやらリゼラは上にいるらしい。
「転移ぶよ、ピピ」
「くえっ」
虚空瞬在。
ピピと一緒に吊り橋の上に転移すると、タイミングよく光の糸が指し示す横穴から誰かが出てきて────。
「あーっ!? 淫魔王!」
「あーっ!? クソガキ勇者!」
十年前、エスペリサ王国を存亡の危機に追い込む原因を作った張本人であり、かの国の首都で暗躍していた黒幕。
数ヶ月前にオーランで取り逃がした淫魔の女王とばったり鉢合わせた。
最後に見たときは五歳程度にまで縮んでいたのに、今は高校生くらいにまで大きくなっている。
どうやらこの数ヶ月で力の大部分を取り戻したらしい。
「あのときはよくもやってくれたわねぇ!? あれからしばらくまともに食事できなかったのよ!?」
「自業自得だろ! お前こそ、なんでこんなところに────っ!?」
瞬間、ペンダントの青い石が強い輝きを放ち、俺と淫魔王の精神が触れ合った。
淫魔王の記憶と感情が濁流のように俺へと流れ込んでくる────。
△
──アシュモネの記憶──
気がつくと、私は細い路地を彷徨っていた。
自我の境界が曖昧だ。
俺の意識はアシュモネの中にあり、俺は彼女の目を、彼女は俺の目を通じてお互いの過去を覗いていた。
『お母さん! 今日のばんごはん、なあに?』
『ふふっ。今日はあなたの好きな挽肉の包み焼きよ』
『やったー!』
狭い路地の向こう、光に照らされた目抜き通りを歩く仲の良さそうな親子のやり取りが目に留まる。
そこには私が持っていないすべてがあった。
父親の顔も知らずに育ち、頼みの母親も出かけると言って家を出て行って、それっきり。
家に残されていた食料も底を尽き、腹が減って家を飛び出して────偶然見かけたごく普通の親子のやり取りに、胸が締め付けられた。
ああ、そうか。
私は捨てられたんだ。
そのことを自覚すると、ぽっかりと空いた胸の穴に悲しみばかりが満ちていく。
欲しい。
そう願って手を伸ばすと、親子はこちらを振り向き、どこか虚ろな目で自分を迎え入れてくれた。
それは生まれて初めての力の発露。
無自覚の内に私は淫魔の力を使い、親子を操っていた。
────それからしばらくの間、私はその家の子として暮らした。
望めば望むままに愛情を注いでくれる人たちとの暮らしは、空っぽだった私の心を満たしてくれた。
そんな生活を続ける内、もしかしたらこの人たちは本当に自分のことを愛してくれる存在かもしれないと思うようになる。
────────
────
──
親子の家に転がり込んで十年が経った。
この頃から私は毎日のように抗いがたい『渇き』に悩まされるようになる。
母親が胎内で分け与えてくれた精気が身体の成長に伴って、とうとう枯渇したのだ。
淫魔は精気を摂取しなければ死んでしまう。
そのことを本能的に察した私は、父親のベッドに忍び込み、彼を誘惑し、関係を持った────。
『悍ましい! お前なんかウチの子じゃない!』
だが、そんな狂った関係をいつまでも秘密のままにしておけるはずもない。
父親との行為を母親に見られ、その拍子に、それまで私を娘だと思い込ませていた催眠も解けてしまった。
『汚らわしい化物め! 殺してやるッ!!!!』
自分が操られていたと分かるや父親は怒り狂い、薪割り用の斧を握りしめて襲い掛かってきた。
私はわけもわからないまま家から転がり出ると、必死に助けを求めた。
すると騒ぎを聞きつけ近所の人たちが集まってきて────まず斧を持っていた父親が殺された。
背後から火掻き棒で脳天に一撃。
倒れた父親をご近所さんが取り囲み、動かなくなるまで棒が振り下ろされ続けた。
それから母親と姉の悲鳴が家から響き……しん、と騒ぎが静まる。
自分の心臓の音だけが、いやにドクドクと鳴り響いていた。
『大丈夫かい?』
お隣のおじさんが顔についた返り血を拭い、笑顔で手を差し伸べてくる。
気づけば私はご近所さんに囲まれていた。
誰も彼も、人を殴り殺した直後とは思えぬほど平然としていて、私に優しい声をかけてくる。
もう大丈夫。
怖かったね。
うちにおいで。
あまりの気持ち悪さに、私は差し伸べられた手を払いのけ、逃げた。
すべて勘違いだった。
力で手に入れた愛情はすべて幻。
私を愛してくれる人など、この世のどこにもいない。
それなら、いっそ……。
その日を境に、私はまるで腹いせのように自ら進んで人を操り、弄ぶようになっていった。
────────
────
──
大人になるまでの日々を、私は催眠魅了の力を使い、自由奔放に過ごした。
金持ちの貴族を誑かし、貢がせ、飽きたら捨てる。この繰り返しだ。
誰も彼も、私が少し微笑めば簡単に落とせた。
そうして各地を転々としていたが、とうとう聖神教に正体がバレた。
人魔大戦から続く魔族狩りの精鋭部隊に追われることになった私は、命からがら迷宮都市へと流れ着く。
同じ淫魔の経営する高級クラブに匿われた私は、そこでゼロスと出会うことになる。
ゼロスは変な男だった。
話すことと言えば小難しい研究のことばかりで、私のことは何一つ聞こうとさえしない。
高い金を払って遊びに来ているにも関わらず、研究のアイデアが浮かべば店を飛び出していくこともよくあった。
普通ならそんな客は出禁になるところだが、オーナーが店を建てる際に大変世話になったとかで、ゼロスの奇行は笑って見過ごされていた。
普通の男なら一度でも席を共にすれば誰もが私に夢中になる。
中には私の気を惹くため破滅するまで店に通い詰めていた客もいたほどだ。
なのにゼロスだけは何度相手をしても夢中になってくれない。
魅了の力を使っても、次に店に顔を出したときにはすっかり正気に戻っていて、店を訪れる間隔もまちまち。
時には何ヵ月も店に顔を出さないこともあった。
自分の想い通りにならない初めての男。
自慢じゃないが、これでも一国を美貌だけで傾かせたこともあるのだ。
容姿には自信があったし、男を手玉に取る手練手管だって並みのものではないという自負もあった。
だからこそ悔しかった。
憎らしいほど腹が立って、なんとしてもあの男を振り向かせて破滅させてやろうとあの手この手で誘惑した。
しかし何を試そうとゼロスは振り向いてくれず、気付けば私の方がすっかり彼に夢中になっていた。
そして私たちが出会ってから三年目のある日。
店を訪れたゼロスに指名され、席に着いた直後のことだった。
『聞いてくれ! ようやく完成したぞ!』
『完成したって、何が?』
『お前の魅了の力を封じる指輪だ』
ゼロスは私の手を取ると、白衣のポケットから取り出した指輪を左の薬指に嵌めてくれた。
『ちょっと、どういうつもり!? こんなもの……』
『ワシからお前に送る愛の証だ』
『は……?』
『お前の事情はオーナーから聞いた。淫魔の中でも一際強い力に翻弄されて生きてきたと』
『何よ。憐れむつもり? だったらこんな指輪』
私はすぐに指輪を抜き取ろうとした。
しばらく顔を見せないと思えば、こんなものを作っていたのか。
くだらない。所詮コイツも他の男と同じ────。
『憐れみなどではない。それがあれば、これから言う言葉が魅了されて言わされたものではないと証明できる』
だけど彼は、自棄になりかけた私の手をそっと押しとどめ、首を横に振った。
『……待って。やめて、言わないで!』
『いいや、言う! お前に惚れた! 一目惚れだった! 心から愛している! 共に生きよう! 結婚してくれ!』
正直、勢いに押された部分は否めない。
それでも、誰よりも愛に飢えていたからこそ、その真っ直ぐな言葉が胸に響いた。
────────
────
──
ゼロスと結婚して数年後。
夜中のことだった。突然の激痛に目が覚める。
なんだこれ!? 痛い痛い痛い痛い死ぬ助けて!
たまらず枕元に置いてあったハンドベルを鳴らして隣で寝ていたゼロスを起こすと、彼はすぐさまお産の準備に取り掛かった。
『落ち着け! すぐに楽になる!』
ゼロスが私に手をかざすと、他に例えようのない激痛が嘘のように消えた。
────なるほど。母体の負担を減らす無痛分娩魔法があるのか。
なにせ世界総人口の六割が死滅した人魔大戦から二〇〇年も経っているのだ。
そのうえ聖神教は一夫一妻を推奨しているくせに、多産を美徳にしている。
あの絶滅戦争の後、こういう技術は優先的に発展していったのだろう。
なんて、どこか他人事のように異世界の無痛分娩に感心していると、元気な産声が部屋に響いた。
これは母になることなど一生無いと思っていた私が、母親になった瞬間の記憶。
『見ろアシュモネ! 生まれたぞ! 女の子だ!』
『ああ……。可愛い。ようやく会えた』
ゼロスが手ずから取り上げてくれた娘の顔を見た瞬間、温かな気持ちが溢れ出して思わず泣いてしまった。
アシュモネの目を通じて彼女の記憶を追体験している俺にも、彼女の喜びと感動が流れ込んでくる。
『ワシらの子だ。名前をつけてやらねば』
『そうね……。レティア。この子はレティアよ』
『希望の光か! うむ、素晴らしい名だ! よーしよしよし! レティアちゃーん! おー可愛いのう! んちゅちゅちゅ!』
『ふふっ、早速親バカねぇ』
生まれたばかりの娘を愛おしそうに抱く夫の様子に、私はとうとう、ずっと欲しかったものを手に入れたのだと強く実感した。
レティア。
希望の光を意味する古の言葉。
何よりも欲しかったものを手に入れて、私は幸せの絶頂にいた。
……だけど、その幸せはそう長くは続かなかった。
────────
────
──
レティアが生まれて数年が経った。
娘は大きな病気もせず、元気にすくすくと育っている。
そのことにこの上ない幸せを噛み締める一方で、世の中の状況は確実に悪い方向へ転がり始めていた。
────人魔大戦終結から二〇〇年。
大戦当初は新興だった聖法国も、今や大国に並ぶ一大勢力になりつつある。
しかし魔族を『神に仇なす絶対悪』と定める聖神教が世に広まることは、魔族への憎しみを増大させることにも繋がった。
時代が進むにつれて、魔帝国の残党狩りもその苛烈さを増し、やがてその火の粉は淫魔たちの身にも降りかかることになる。
事の発端は春風の大地の小国で起きた連続婦女行方不明事件だった。
見目麗しい乙女ばかりが相次いで行方不明となり、ついには貴族の令嬢までもが行方不明となったことで事件は大きく報道された。
そして最初の行方不明者が出てから半年後、事件は思わぬ形で解決へと向かう。
王城務めの兵士が新聞社に「一連の行方不明事件は王の仕業である」と暴露したのだ。
密告した兵士によると、他国から嫁いできた王妃は独占欲の強い女性であり、王が妾を囲うことを許さなかった。
また、王は極度の加虐趣味でもあった。
ゆえに王は秘密裏に好みの女性を攫わせ、王城の地下に作らせた秘密の園に女たちを閉じ込め、日夜拷問を行い楽しんでいたのだという。
このスキャンダルを大手新聞社が大々的に報じたことで、国民感情は爆発。
王の時代になってから増税が続いたことも相まって、一気に革命の機運が高まり、報道から僅か一週間で王国は怒りに燃える民衆たちにより倒された。
そのニュースは周辺諸国にも口伝てに広まり、隣国の王や貴族たちは民衆から疑惑の目を向けられることとなる。
そうして生まれた世の風潮は、現状の破壊を目論む活動家たちを勢いづかせた。
新聞の拡散力に目を付けた一部の活動家たちが各国の新聞社に潜り込み、自分たちの思想を記事の中に忍ばせ、毎日のように権力に批判的な記事を書いたのだ。
当時、新聞は春風の大地を中心に一大メディアとしての地位を確立していた。
戦後に聖神教が布教活動の一環として文字の読み書きを市民に無償で行ったことで、多くの国で識字率が向上していたためだ。
また、教会で文字を教えていたこともあり、当時は文字媒体全般を神聖視する風潮も存在した。
そのため多くの人々は新聞社に紛れ込んだ『何者か』が、民衆の怒りを煽って体制の破壊を目論んでいるなどとは考えもしなかった。
もちろん各国もそんな記事を書かれて黙っているはずもない。
王政に批判的な記事を書いた新聞社は次々と取り潰され、記事を書いた記者たちは不敬罪で縛り首となった。
だが新聞が発禁になると活動家たちはそれを論拠に「やはり王は自分に不都合な真実を隠したのだ」と町や村に噂を流して回った。
やがて市民の間に広まった思想は暴走を始め、町には根拠のないデマが飛び交い、自分たちの意見を否定する者を敵と見做し始める。
時が経つほど市民たちは攻撃的になっていった。
聖法国は春風の大地で巻き起こった革命の機運を良しとしなかった。
春風の大地に存在する王国の殆どは、建国の際に聖神教の力を借りている。
神が選んだ王を否定することは、即ち神の否定と同義。
聖法国は革命の機運が教会に飛び火することを恐れたのだ。
そこで聖法国は新聞の力を使い、民衆たちの怒りの矛先を逸らした。
神に選ばれた王から、戦う力を持たない路地裏の女たちへと。
男に媚びる商売女や、男を誘惑する美人は人類の破滅を狙う魔族の手先。
意図的に生み出された風潮が世に蔓延するまで、そう時間はかからなかった。
────────
────
──
『────まったくふざけた連中だ! こんなものブスの嫉妬ではないか! ええい気に食わん! 教会にクソ爆弾でも投げ込んでやろうか!』
ポストに詰め込まれていた大量のビラを暖炉に投げ入れ、怒り顔のゼロスが白衣のポケットから取り出した茶色いガラス玉を握りしめる。
『やめなさいったら。自分たちが正義と信じて疑わない人たちに何を言っても無駄よ』
娼婦の排除運動は日毎に苛烈さを増していた。
町では『女性開放隊』を自称する市民団体が常に目を光らせ、美人というだけで女たちに囲まれリンチに遭う事件も増えている。
最近ではそうした市民の監視を掻い潜るため男装して逢引する女や、同性愛者を偽り女性同士で偽装恋愛する者も出てきた程だ。
風のうわさでは、女に男性器を生やす魔法薬もできたと聞くが、本当かどうかは知りようがない。
『パパおこってる?』
『んんーっ! 怒ってないよレティアちゃーん! んちゅちゅちゅちゅ!』
『やー! パパのおくちくさーい!』
『ぐふっ!? ……言うようになったではないかコイツめ』
『私の娘ですもの。ねー?』
『ねー!』
私が顔を覗き込むと、レティアがにこりと笑い返す。
四歳になったレティアは誰の目にも愛らしく、健やかに育っていた。
私のような女からこんなにも純粋無垢なものが生まれたことは奇跡という他ない。
だからこそ、この頃の私は頭のおかしな連中に娘が狙われやしないかと不安な日々を過ごしていた。
つい先日もゼロスの研究所に火炎瓶が投げ込まれたばかりである。
幸いすぐに消火できたため大事にはならなかったが、もしもの事態を想像すると居ても立っても居られなかった。
引っ越しも視野に入れ、次の住まいの候補地を検討していた、ある日のこと。
ついに、悲劇は起きた。
────────
────
──
『レティアがいなくなっただと!?』
『いつの間にかいなくなっちゃったのよ! あの子にもしものことがあったら!』
ある日、レティアがいなくなった。
家事の最中、ほんの一瞬目を離した隙の出来事だった。
『落ち着け! 失せ人探しの魔法は使ったのか!?』
『使ったけど反応が無いのよ! もしかしたら、もう……!』
想像するだけで怖くて、足元が覚束なくなる。
まるで急に地面が無くなって、どこまでも落ちていってしまいそうだった。
────そうか。これが子どもがいなくなった母親の感情なんだ。
……帰りたい。母さんに、会いたい。
『諦めるな! プロの人攫いなら追跡遮断くらい使ってもおかしくはない! 魔法がダメなら他の方法で探すぞ!』
その後、八方手を尽くして娘を探した私たちは、ついに手掛かりを見つけ、裏通りにひっそりと佇む古びた教会へと辿り着く。
神像の裏に隠されていた地下への階段を、足音を立てないようゆっくりと、祈るような気持ちで下りていく。
すると、その先にあったのは────。
『…………レティア?』
鎖で吊るされた小さな肉塊が、ぐったりと項垂れている。
そこは教会の地下に作られた秘密の処刑場。
二十畳ほどの広さの地下室には、魔族の疑いをかけられ捕まった女たちが何人も鎖に繋がれてぐったりしていた。
よく見れば顔見知りの娼婦も何人かいる。
皆、腹の部分だけ服を切り裂かれていて、部屋の隅に置かれたバケツから赤黒い臓物のようなものが零れているのが見えた。
ふと、つい先日のニュースを思い出す。
裏路地で見つかった娼婦の死体は、子宮が抉り取られた状態だったのだという。
まさか、ここにいる彼女たちも……。
辺りには濃い血の臭いに混じって微かに薬品臭が漂っている。
粗悪な回復薬のニオイだ。
粗悪品でも止血程度には使えるが、傷は残るし、失った臓器も再生しない。
ここで何が行われたかを知るにはそれで十分だった。
慌ててゼロスが吊るされた肉塊の下に駆け寄る。
だが身体中に残された惨い暴力の痕と、足元にできた大きな血だまりを見れば、すでに手遅れなのは一目で分かった。
────あれは、何?
あんな汚くて臭い塊、知らない。知りたくもない。嫌だ。
鎖が解かれ、肉塊が床に下ろされる。
無残に髪を毟られ、腫れあがった顔は見る影もない。
ふと、見覚えのある髪飾りが目に留まる。嘘だ。
嫌。だって、あれは私が嘘だレティアの誕生日に嫌送ったものだ嘘嘘嘘嘘。
すべてを理解した瞬間、私は胃の中身をすべて床にぶちまけていた。
『化物の分際でガキまで作って、本当に汚らわしい』
武装した女たちを従えて暗がりの奥から現れたのは、男物の礼装に身を包んだ化粧の濃いおばさんだった。
左胸に光るひし形の家紋には見覚えがある。
迷宮都市へ流れ着く前、私が気まぐれに破滅させた貴族家の紋章だ。
領民には重税を課し、自分たちは贅沢三昧のよくいるバカ貴族。
秘密の愛人として懐に潜り込むのは簡単だった。
最初は甘い汁を啜ってから捨ててやろうと思っていた。
だがすぐに当主に幼女趣味があり、幼い少女を誘拐していると分かって、胸糞悪くなって悪事の証拠をばら撒いて破滅させたはず。
それが、どうして。
『……どうして』
私の心の声と、感情の抜け落ちたゼロスの声が偶然にも重なる。
『……こ、この子が、この子が何をしたというのだ。……こんなに可愛い、ワシの、娘が、なぜ……どうしてこんな……』
『こんなおぞましい生物を可愛いだなんて。やっぱり魔族は人類の敵ね。男を誑かして狂わせる』
自分の過去の行いが、巡り巡ってレティアに牙を剥いたのだ。
そのことに気付くと全身から血の気が引いて眩暈がした。
何故。どうして。
復讐するなら私だけ殺せばいいでしょう。
これは本当に現実? どうして関係のない娘があんな目に。
纏まらない思考がぐるぐると頭の中を巡る。
『お前のような下半身でモノを考える男がいるから淫魔なんて汚らわしい存在が町に入り込むのよ!』
厚化粧の女が声を張り上げると、取り巻きの女たちが口々に「そうだそうだ」と唾を飛ばして騒ぎ立てる。
誰も彼も自分の行いが正義と信じて疑わない。そんな顔をしていた。
『このガキ、こともあろうに私たちを操ろうとするなんて! ああ汚らわしい汚らわしい! 信仰心が足りないからこんなガキに操られるのよ!』
厚化粧の女の視線を辿ると、部屋の隅にボロボロの肉塊が打ち捨てられていた。
おそらく元は連中の一味だったのだろう。
『あのまま成長していたらと思うと寒気がする! 早いうちに芽を摘めて本当によかっ──『死ね』
厚化粧の女に最後まで言わせず、すっかり感情の抜け落ちた顔でゼロスが白衣の懐から拳銃を抜き放つ。
すかさず、取り巻きの女の一人がゼロスに掌を向ける。
銃声。
弾丸は狙いを外れ、壁に小さな穴が開く。
ゼロスは銃を構えたままピクリとも動かない。何らかの異能によるものだろう。
『フンッ。伝説も衰えたものね。平和ボケしたジジイが現役の魔族狩りに敵うはずないでしょうに』
『貴様ァァァ────ッ!!!!』
『ご存じかしら? 淫魔の子宮って青いのよ! 今にその女の腹を裂いて証拠を見せてあげるわ』
ゼロスを拘束している異能者を一人残し、他の女たちが得物を握りしめ、こちらへ近づいてくる。
どいつもこいつも芋みたいなブスばかり。
揃いも揃って、自分たちこそ正義の執行者なのだとでも言いたげな、いかれた光を宿した嫌な眼だ。
怒りと恐怖、悲しみと絶望。様々な感情が腹の底で濁流のように渦巻いている。
棍棒片手に近づいてきた女の一人が、私の顔に唾を吐く。
きっと、この女たちはレティアにも同じことをしたのだろう。私の宝物に唾を吐きかけ、痛めつけて、殺した。
殺す。
そう思った瞬間。限界を超えた感情の奔流は、何世代も前に消え失せたはずの呪いを呼び起こした。
底なしの憎悪と共に魔力が次から次から溢れてくる。
左手の薬指に嵌めていた魅了封じの指輪に亀裂が走り、やがて内から溢れ出る力を抑えきれなくなり────粉々に砕け散った。
『ひっ!? な、なによこれ!? 私の手! 手が! いやあああああ!?』
私に唾を吐いた女の肌がみるみる紫色に変色し、全身が水ぶくれに覆われていく。
すぐさま水ぶくれは破裂して、女が全身から血を噴いて倒れると、その血を浴びた他の女たちも同じように次々と倒れていった。
ゼロスを異能で押さえていた女は、その光景を見て尻もちをつき、失禁した。
血の臭いに混じって尿臭がつんと鼻を突く。不愉快だ。
私は失禁した女に手を向ける。
『か、痒い。痒いかゆいカユかゆかゆいあああああああああ……!』
すると女は突然痒みを訴えて喉を掻きむしり始め、そのまま血だまりの中に沈んで動かなくなった。
『ひ、ひぃ!? 化物! 化物ぉっ! やっぱりだわ! そら見たことか! これがコイツの本性なのよ!』
『黙れ』
すっかり腰を抜かした厚化粧の女の顔面を怒りに任せて蹴り飛ばす。
床に這いつくばった女の全身を肉腫が埋め尽くし、あっという間に元の顔と体形が分からなくなった。
そのまま悶え苦しみながら膨らみ続けた女は、やがて水風船のように弾ける。
が、その身を蝕む病魔が女の命を繋ぎ止め、死んで楽になることを許さない。
弾けた肉塊はまるで悶え苦しんでいるかのように蠢き、形を変え、やがて小刻みに痙攣するだけの臭くて汚い塊になる。
人としての原型すら留めていないその肉塊を、私は無感情のまま見下ろしていた。
『ア、アシュモネ……?』
ゼロスが恐れを含んだ目で私を見る。
彼の瞳に映り込んだ変わり果てた自分の姿に、私はどこか納得していた。
青い肌に捻じれた角。真っ黒な翼。
いつか気まぐれに読んだ聖神教の聖典。そこで語られる神の敵、悪魔の姿がそこにあった。
この姿は自分の本性そのものだ。
醜く、いびつな化物。
だってそうでしょう? あんなに愛してやまなかった娘を見て吐いてしまった。
汚い肉の塊だと思ってしまった。一目で娘と分かってやれなかった。
痛かっただろう。怖かっただろう。苦しかっただろう。
助けてやれなかった。……母親なのに。これでは私を捨てた母と何も変わらない。
『……どこへ行くつもりだ』
背を向けた私をゼロスが呼び止める。
『滅ぼすのよ。あの狂信者どもを。一人残らず』
振り返らず、答える。
娘の仇を始末してもなお、怒りの炎は消えることなく腹の底で燃え盛っていた。
この怒りはきっと世界のすべてを焼き尽くさない限り、消えることはないのだろう。
『バカな真似はよせ! 歴史を繰り返すつもりか!?』
『うるさいッ!!!! ……何百年かけてでも、必ず滅ぼしてやるッ』
何が聖なる神だ。
私から希望の光を奪っておいて、よくも善なるモノのように振る舞えたものだ。
殺してやる。
私からすべてを奪っておいて、お前たちだけ幸せになるなんて許さない。
レティアが受けた屈辱、痛み、悲しみ、すべてお前たちに返してやる。
『……せめて、レティアを埋葬するまでは一緒にいてくれ』
どこか縋るような夫の声に、胸が詰まった。
『…………私にそんな資格、無いわ』
『待て! 待ってくれ! アシュモネ! 行くな!』
自分があの子から目を離さなければ。
後悔してもしきれない。直視できない現実から目を背け、私は最愛の夫からも逃げた。
◇
──ダンジョン中層(side大翔)──
拒絶の意思に弾かれ、俺の意識は強制的に今へと引き戻される。
気づけば俺はピピの上から転げ落ち、胃の奥から込み上げた気持ち悪さを地面の上にぶちまけていた。
気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い! 私はどこにいる!? 私は誰だ!? 違う、ぼくは俺だ! 鈴木大翔だ!
過呼吸になりかけ、視界がぐらつく。
すると右手の人差し指に締め付けるような痛みが走り、その痛みで俺は我に返った。
……危ない。あと少し踏み込んでいたら、アシュモネの精神に取り込まれて戻れなくなるところだった。
折れた足を庇いつつどうにかピピの鞍上によじ登ると、ピピが心配そうに「きゅう」と喉を鳴らす。
「……っ。大丈夫。大丈夫だから」
ピピの首筋を撫でて宥めていると、視界の端でアシュモネがヨロヨロと立ち上がった。
全身汗だくで、髪もひどく乱れている。
まるで悪夢から目覚めた直後のようだった。
「は……っ。はぁ……っ。やっ……てくれたわねぇ!」
怒気を孕んだ瞳が俺を貫く。
「……悪かったよ」
本当に、知りたくもなかった。
敵だと思っていた相手の悲しい過去なんて。
「チッ……。だからガキは嫌いなのよ」
まさか謝られるとは思っていなかったのか、アシュモネはどこかバツが悪そうに顔を背けた。
コイツは俺に何かをさせようとしている。
裏で結託している魔王たちも、おそらくそうだ。
それが何なのかは、途中で弾き出されてしまったから分からないままだけど。
「……くっ」
薬が切れてきたのか、折れた脚の痛みもひどくなってきている。
どうにか隙を突いて逃げないと。これ以上消耗したら、リゼラと合流するまえに力尽きてしまうかもしれない。
────直後、赤黒い魔力弾がピピの足元で弾け、石橋に亀裂が走る。
正面を向くと、すでにアシュモネは姿を消していた。
「走れっ、ピピ!」
俺が手綱を振るうと、ピピが全力で走り出す。
ピピが横穴に飛び込んだ直後、俺たちの背後で石橋が音を立てて崩れ落ちた。




