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【3章完結】平凡勇者は挫けない【7章まで毎日投稿】  作者: 梅松竹彦
第四章 迷宮都市編

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0075 闇からの脱出

 ──迷宮都市 多頭蛇ヒュドラの地下牢(side美乃梨)──


 この無機質な地下牢に捕らわれて、どれほどの時が経っただろう。

 ぼんやりした頭で美乃梨はふと考える。


 時の流れを感じさせてくれるのは、定期的に与えられる粗末な食事のみ。

 その食事も、何が原料かもわからない妙に脂っぽくて甘ったるい謎の固形物だけである。


 視線だけを動かし、暗くジメジメした牢の中をジロリと見渡す。


 閉じ込められた者たちはすっかり心身共に衰弱しきっていた。

 無理もないと美乃梨は思う。なにせ男も女も同じ牢に押し込められ、トイレは角に置かれた壺が二つだけ。


 壺の中には見たことも無いスライム状の生物が入っていた。

 人の排泄物を食べて生きているのか、幸いにも臭うことは無かったが、音は丸聞こえである。


 自然と女同士は身を寄せ合い、牢の右側が男、左側が女の領域になった。

 誰かが排泄する時は他のものが壺の周りに立ち、外から見えないよう壁を作って歌を歌うルールができるまでそう時間はかからなかった。


「────っ!」


 地下牢に響く足音に、美乃梨の意識は今この瞬間へと引き戻される。

 食事はつい先程済ませたばかり。次の生贄を選びに来たのだ。


 食事の時間以外にも不定期で研究員が牢を訪れることがある。

 そんな時は決まって閉じ込められた人々の中からランダムに一人が選ばれ、どこかへと連れて行かれる。


 連れ出された者は誰一人として戻ってくることはなかった。

 それが捕らわれの身からの解放ではなく、命を失ってのことだと誰もが薄々感づいていた。


「次は……そうだな、そこのお前だ」


 白衣の男が牢の外に立ち、美乃梨に掌を向ける。

 直後、白い稲妻が迸り、美乃梨の意識はそこで一度途絶えた。




 ────────

 ────

 ──




 次に気が付くと、そこは手術台の上だった。

 身体はベルトで手術台に固定されており、白いライトの光が煌々と自分を見下ろしている。

 手術用のエプロンを着けた男たちはマスクで顔を覆っており、逆光のせいで全員同じ顔に見えた。


「────これより、被検体一〇二〇号の改造実験を開始する」


 美乃梨の鳩尾みぞおちにメスが走る。

 局部麻酔のおかげで痛みはないものの、意識がハッキリしている分、恐怖でどうにかなってしまいそうだった。


「魔石を」


 切り開かれた腹部にゼリーで包まれた魔石が埋め込まれる。


 前回までの実験で被検体の死因はすでに特定されていた。

 魔石との結合部が急激にがん細胞化し、人体変異の過程で全身にがんが転移してしまうのである。


 そこで今回から新たにスライムゼリーを緩衝材として挟むアイデアが取り入れられた。

 スライムゼリーは錬金術の基本素材で、生体素材同士の結合を補助する性質を持つ。

 そこに今までの実験で得られたデータを元に作成された魔法薬を混ぜることで、細胞の病変を抑えようという目論見だった。


「あっ……! ぐっ、がっ!? あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!?」


 体内へ埋め込まれた魔石が光を放つと、腹の傷がみるみる塞がり、手足の先から人体変異が始まった。

 身を焼く激痛に美乃梨の口から苦悶の声が漏れる。


 少女の柔肌は漆黒の甲殻に覆われ、愛らしい顔もみるみる魔物のそれへと変異していく。

 やがて変異が完了すると、手術台の上には人と魔物の特徴を併せ持つ存在────世界初の魔人がそこにいた。


「病変部、確認できません。成功です!」


 すかさず魔法による検査が実施され、助手の一人が喜びも露わに結果を報告する。


「ようやくだ! 見たかゼロス! 私の理論は正しかった!」


 長年の研究がようやく実り、白衣の青年が血走った眼を大きく見開いて天を仰ぐ。


「やりましたねデリング主任!」


「ああ、今日は人類史を塗り替える転換点となるだろう! データだ! もっとデータがいる! 金もだ!」


 研究者たちが垂れ流す狂気を、美乃梨は苦痛に耐えながらもしっかりと聞いていた。

 このままここにいては、自分は彼らのモルモットにされてしまう。

 デリングの言葉の意味を理解したとき、美乃梨の内に沸き上がったのは強い恐怖だった。


「アアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!!!」


 身体を拘束していたベルトは、力を少し込めただけで簡単に千切れた。

 突然の事態に硬直する研究者たちを押しのけ、美乃梨は手術室から脱兎のごとく飛び出した。


「被検体が逃げたぞ!」


「なんてパワーだ! 竜革の拘束具を引きちぎるなんて!」


「ベクトル制御はどうした!? まさか設定し忘れたのか!?」


「いえ! 確実に起動させていました。おそらく被験体の固有能力で無効化されたものかと」


「絶対に殺すなよ! 必ず捕縛するんだ!」


 すぐさま建物内に異常事態を知らせる警報音が鳴り響く。

 美乃梨が耳を澄ませば、警報音に紛れて自分を追う男たちの足音が聞こえてきた。


『金の卵が脱走! 金の卵が脱走! 金の卵は現在第二七研究区画を逃走中! 【三本首】以上の職員は至急現場へ急行! 金の卵の捕縛に参加せよ! 繰り返す! 金の卵が脱走!』


 美乃梨は痛みをこらえながらも、出口を探し無我夢中で走った。

 強化された身体の性能は凄まじく、音さえも置き去りにして疾風のように走る、走る、ひた走る。


 迷路のような通路を右へ左へ進んでいくと、通路の角から飛び出してきた青年とあわやぶつかりそうになった。

 強化された身体能力に任せて、壁を蹴り三角飛びで青年を回避すると、後ろから「そっちじゃない!」と呼び止められる。


 「待て」でも「逃げるな」でもなく、「そっちじゃない」


 その些細な違和感が、美乃梨の足を止めた。

 振り返って見てみれば、青年には大きな狼耳と尻尾が付いていた。

 粗末な身なりはどことなく自分と似た境遇を思わせ、美乃梨の警戒心が僅かに薄れる。


「アンタの事情は知らないが、ここから逃げるんだろ? こっちだ。ついてきな」


「あ、あなたは? どうして……」


「シドだ。理由は……まあ、なんとなく、かな」


 なんとなくだが、彼のことは信用できると思えた。

 困ったような笑みの感じが、どことなく幼馴染の少年と似ていたからかもしれない。


 シドの案内で迷路のような通路を迷うことなく進み、やがて美乃梨は巨大な金属扉のある部屋へと辿り着いた。

 扉の横には開閉用のレバーがあり、すぐさまシドがレバーを力任せにそれを下ろす。

 すると扉が音を立ててゆっくりと開き始めた。


「行けよ。この先はダンジョンだ。深部に潜っちまえば身を隠せる」


「シドさんも一緒に!」


 美乃梨が手を差し出すと、シドは首を横に振った。


「ダメだ。ここに毒が埋め込まれてる。このゲートを一歩でも超えればカプセルが弾けて俺は死ぬ」


 心臓のあたりをトントンと指で軽く叩き、シドが苦笑する。

 その顔には、どうあっても抗えない理不尽への諦念がありありと浮かんでいた。


 強化された美乃梨の聴覚が追手の足音を拾う。

 迷っている時間は無かった。


「……ッ。この恩は忘れません!」


 腰を折り深くお辞儀した美乃梨は、開きかけのゲートに身体を捻じ込むようにして危険な迷宮へと滑り込む。

 背後でゲートがゆっくりと閉じていく。

 振り返ると、シドはどこかホッとしたような笑みを浮かべていた。


 地下施設を脱出した美乃梨は速度を緩めず闇の奥へと突き進んでいく。

 魔物の因子を取り込んだおかげか、無明暗黒の中でも昼間のようによく見えた。


 やがて強化された聴力が追手の足音を拾わなくなった頃、美乃梨はとうとう力尽きてその場に倒れ込んでしまう。

 すでに全身を蝕む痛みは現界を超え、人としての意識さえも失われようとしていた。


 ──……コセ 寄越セ……!


 ──身体ヲ……寄越セ!!!!


「……いや……消えたくない。誰か、助け……て…………」


 美乃梨の心が闇に覆われ、魔物としての意識が強まっていく。

 一見成功かに思われた改造手術は、人としての理性が失われてしまう欠陥が残されていたのだ。


 水の入った水槽に墨汁を垂らしたように。魔物の破壊衝動が美乃梨の意識を黒く染め上げ、心が怒りに蝕まれていく。

 そのまま一切の希望が失われようとした────そのとき。



「むっ、なんじゃコイツは」



 白衣の老人が倒れ伏した美乃梨の顔を覗き込んだ。




 ◇




 ──迷宮都市 ダンジョン中層(sideゼロス)──


 玄関マットの下に隠してあった転移門を使い、ゼロスはエリアスの襲撃から逃げおおせていた。

 転移門とは遠く離れた二つの地点を結ぶ魔導のことである。

 何かと敵の多いゼロスが“いざ”というときのために隠していた切り札の一つだ。


 現在、ゼロスはお手伝いロボのサボットを引き連れ、ダンジョン深部にある秘密の研究室へ向かっていた。

 彼の秘密の隠れ家は世界各地にいくつも存在しており、今向かっているのもその一つである。


「ふいー、危ない危ない。天使なんぞ相手にしてられるか」


「イツカ女性ニ、刺サレル日ガ、来ルト、思ッテイマシタガ、マサカ相手ガ、天使トハ。ヤリマスネ博士」


「ぐふふ! いい乳しとったわい。いつかアイツそっくりのオートマタを量産して世界中の娼館へ売りつけてやる」


「ウーン、クズ」


「どうせ五〇年も潜伏しておれば、ほとぼりも冷めるじゃろ。いつものことじゃ」

 

 暗視ゴーグルのズレを直し、ゼロスは闇の中をせかせかと進んでいく。

 地上の研究所と隠れ家を直接繋いでいなかったのは、万が一にも追手を隠れ家に招き入れないためだ。


 しばらく行くと二歩先を進むサボットが何者かの足音を感知し動きを止めた。


「博士。何カ来マス。凄イ速度デス」


「魔物か?」


「イイエ。人ノ足音デス。デスガ呼吸音ハ竜種ニ近イ……? 何デショウ、コレハ」


「知るか」


「────アッ、倒レタ」


 サボットの報告を最後に、場に静寂が落ちる。

 研究室に向かうには、この通路を通らねばならず、迂回路うかいろは無い。


 腹をくくったゼロスが慎重に歩みを進めると、通路の真ん中に人型の影が倒れているのを発見する。

 警戒しつつも近づいてみると、それはどうやら魔物のようだった。

 全身は漆黒の甲殻に覆われており、顔付きは竜そのものだが、ゼロスの知識にあるどんな竜とも特徴が一致しない。


「────むっ、なんじゃコイツは」


「たす……け、て…………」


「こやつ、喋ったぞ!? ……まさか!」


 瞬間、ゼロスの脳裏を一つの確信めいた予感がよぎる。

 デリング・ヘルザード。

 かつて同じ師の下で学んだ兄弟子であり、ゼロスが終生のライバルと認めた唯一の男。


 老錬金術師の脳裏に、若かりし日々の記憶が蘇る────。




 △




 ──ゼロスの回想──


 それは今までに類を見ないほど暑い夏のことだった。


 当時、ゼロスはとある王国の研究所に席を置いていた。

 それまで天才的な頭脳で次々と革新的な発明を生み出し、王国の発展に多大な貢献をしていた彼だったが、最近はどうにも研究に行き詰まり、夏の暑さも相まってどうにも冴えない日々が続いている。


 このままでは主席研究員としての地位も危うい。

 焦りと暑さにやられたゼロスが珍玉ぶらぶら、全裸で部屋の中を歩き回り、天からアイデアが降ってくるのを待っていたその時。

 懐かしい顔が研究所を訪ねてきた。


『ゼロス! これを見てくれ! 魔石にはそれを生成した魔物に関するすべての情報が眠っていると考えている』


『うぉわっ!? む、デリングではないか。相変わらずせっかちじゃのぅ。元気にしておったか』


『そんなことはどうでもいい。まずはこれを見ろ! というかパンツくらい穿け。見苦しい』


 なんの連絡も無く唐突に訪れるや、散らかったテーブルの上に資料を広げ、デリングは開口一番にそう切り出した。

 兄弟子の唐突さはいつものことである。

 慣れた調子でゼロスは資料に目を通し、その革新的な発想に思わず唸った。


『うぅむ……。優れた魔法使いは魔力光の揺らぎから相手の手の内を読み解くと聞くが、そこから着想を得るとはな。魔石の生成過程で魔物の生体情報が魔力に記録されるとしたら、あるいは』


『やはり貴様は理解が早い。どうだ、私と共に研究してみないか?』


『いいだろう。その話乗った!』


 当代随一の天才二人が手を組んだことで研究は大きく進み、数年後にはデリングの仮説が正しかったことが証明される。


 しかし時を同じくして人魔大戦が勃発。

 ゼロスの仕えていた国も魔帝国の核攻撃により滅ぼされ、そのどさくさでデリングとも音信不通になってしまった────。


 ────────

 ────

 ──


 やがて数奇な運命に導かれ勇者マサヨシの旅に同道することになったゼロスは、旅の中である少女と出会う。


 少女は行方不明になった弟を探していた。

 聞けば少女の住む町では他にも子どもたちが何人も行方不明になっているのだという。


 少女の願いを聞き入れ弟の行方を追った勇者一行は、その果てに恐るべき真実へとたどり着く。

 デリング・ヘルザード。

 闇に堕ちた稀代の天才錬金術師こそが一連の児童失踪事件の黒幕だったのだ。


『……力だ。力が必要なのだゼロスよ! 人はあまりにも脆い! このままでは人間は滅ぼされてしまう! 今こそ人類は自らの叡智で進化するときなのだ!』


『考え直せデリング! 人に魔物の力を与えて無理やりに進化させようなどと! そんなことをして何になる!?』


『黙れ! ……弱いから何もかも失うのだ。皆が強くあれば誰も何も失うことはあるまい! 愛する者も、国も! 何もかも!』


 数年ぶりに再会を果たしたデリングはまるで別人のように変わり果てていた。


 極度のストレスのせいか、髪はまるで燃え尽きた灰のように白く染まり、やつれて落ち窪んだ目元も相まってまるで幽鬼のような風貌だった。

 力への妄執に囚われた瞳だけがギラギラと輝き、異様な迫力を醸し出している。


『戯言を! 貴様の行いこそ、まさしく弱者への虐待ではないか!』


 元々変人ではあったが、それでもかつては人として超えてはならない一線は弁えていたはずだった。

 しかし戦争が、愛する者を喪った痛みがデリングを変えてしまった。

 戦火で親を失った子どもや浮浪者を拾い集め、非道な人体実験を繰り返すほどに。


『お前もこちらへ来い! お前となら真の平和を実現できる! 私の手を取れ! ゼロス!』


『子どもを犠牲にしてまで掴んだ平和に何の意味がある!? 同門の恥め! 貴様の妄執、この手で断ち切ってくれる!!!!』


 一切の倫理観を投げ捨てた邪道の科学を振りかざすデリングは、恐るべき強敵としてゼロスの前に立ちはだかった。


 だがそれでも、ゼロスには頼れる仲間たちがいた。

 激しい戦いの末、ゼロスはどうにかデリングを追い詰めることに成功する。


『ここまでだデリング! ……お前はやり過ぎた』


『終われぬ。こんなところで終わってたまるか!』


『ぬぅっ!? 目くらましか!』


 デリングが最後に放った閃光爆弾の光が消えたとき、そこに彼の姿はなかった。



 ────────

 ────

 ──



 終戦後、ゼロスは闇へと消えたデリングの足取りを追った。

 しかし世界総人口の六割が死滅した絶滅戦争の爪痕はあまりに深く、どれだけ探せどデリングの痕跡を見つけることは叶わなかった────……。




 ▽




 ──迷宮都市 ダンジョン中層(sideゼロス)──

 

 今、ゼロスの目の前には、かつてデリングが抱いた狂気の産物としか思えないナニカが倒れている。

 やはりあの男は戦火を逃れて生き延び、邪悪な知識を積み重ねていたのだ。


「サボット、こやつも連れて行く。卵を持つように優しく運べ」


「カシコマリマシタ」


 サボットに謎の竜怪人を運ぶよう命じ、ゼロスは白衣のポケットから取り出した痛み止めのアンプル剤を怪人に投与してやる。

 すぐに薬が効いて容体が安定したのを確認すると、ゼロスは研究室へ向かう足取りを早めた。




 ◇




 ──迷宮都市 地下研究施設──


 美乃梨の脱出から数日後。

 地下闘技場で大負けした男──マーナの父は治験バイトを受けるため地下研究施設を訪れていた。


「あ、あの。薬の副作用をテストするだけと聞いていたのですが」


「ええ。今回試す新薬は体内に直接埋め込む必要があるので、胸部を少し開きます。麻酔をするので痛みはありませんよ」


 手術台の上に寝かされた男が不安げな顔で尋ねると、執刀医がマスクの下に胡散臭い笑みを貼り付け頷いた。


「ほ、本当にこれで娘の治療費を肩代わりしてくださるんですよね!?」


「もちろんですとも。では、始めます」


 局部麻酔の施された男の胸部にメスが走る。

 痛みはない。が、やはり体内を弄り回される不快感と嫌悪感はどうしようもなかった。

 手術が進む中、男は気を紛らわすためこれまでの経緯を振り返る。



 ────きっかけは地下闘技場で声をかけられたことだった。

 貯金をすべて失い途方に暮れていたところへ、仕立てのいいスーツを纏った紳士が近づいてきたのだ。


 聞けば紳士は医学博士であり、あのリカルド・ヴァイパー医師とも旧知の仲なのだという。

 紳士はリカルド医師からマーナの話を聞いており、もしやと思って男に声をかけたのだと、わけを話してくれた。


『そこでご相談なのですが、治験にご協力頂けませんか』


『治験……?』


 耳慣れない単語に男が疑問符はてなを浮かべると、紳士は丁寧な態度を崩さず説明してくれた。

 いわく、ほぼ完成済みの新薬に重大な副作用などが存在しないかなどを確認するため、人間を使って最終テストをする必要があるのだという。


『無論、絶対に安全とは言えません。その代わり受けてくださるのであれば娘さんの治療費はこちらで全額肩代わりしましょう』


『ほ、本当ですか!?』


『リカルドは私の友人でもあります。私からお願いすれば融通も効かせてくれるでしょう』


 紳士が男に手を差し伸べる。

 絶望の淵に立たされていた男にとって、それはまさに救いの手だった。


『受けます。やらせてください!』


 そこから話はトントン拍子に、疑念を挟む暇さえ無いほどの速度で進んでいった。


 紳士の後に続いて地下闘技場の裏口から研究施設へ入った男は、そこで契約書を書かされた。

 細かい字で隙間なく書かれた契約書は非常に読みづらく、少し怖く思ったが、目の前でニコニコと微笑む紳士が悪人とは到底思えず、内容を確認しないままサインしてしまったが────。




「終わりましたよ」


「あっ、え? もうですか?」


 執刀医に声をかけられ、男がハッと我に返る。

 物思いに耽っている間に手術は終わっていた。

 薬の影響だろうか。すこし身体がフワフワして落ち着かないが、特に痛みは感じない。


「しばらく経過を見ますので、この後は係の者の指示に従ってください」


「わ、わかりました」


 それからすぐに空の車椅子を押してナースが現れ、男は別室へと移された。

 壺型のスライムトイレとベッドがあるだけの殺風景な部屋だ。


「今から二十四時間、経過を観察します。この部屋の中では自由にして構いませんが、何か体調に異変があれば知らせてください」


 ナースはそう言い残すと、男を残してそそくさと部屋から出ていった。

 ぽつんと部屋に残された男は、ベッドに腰掛け、ぼんやりと天井を眺める。


 自由にして構わないと言われても、だ。

 こんな何もない部屋で何をしろと言うのか。

 やることが無くなると、急に不安が胸に押し寄せてくる。


 こんなに簡単なことで本当にいいのだろうか。

 やはり騙されているのではないか。

 余計な考えばかりが頭に浮かぶ。


「これはマーナのため。これであの子は助かるんだ。そうだ、そうだとも。それでいいじゃないか」


 不安を誤魔化すように男は同じセリフを繰り返しながら、両手を組んで神に祈った。




 ◇




 ──地下研究施設 監視ルーム──


 横一列に並んだ監視モニターの放つ光が暗闇を四角く切り取っている。

 各モニターの前には一人ずつ白衣の研究者たちが着席し、時折手元の用紙に経過記録を記入していく。

 モニターには殺風景な部屋の様子と、被検体のバイタルがリアルタイムで表示されている。


「経過はどうだ」


 モニターを監視していた研究者の一人に背後から声がかかった。

 研究者が振り返れば、そこにいたのは蛇顔の青年博士。聖人リカルド・ヴァイパー。


 しかしそれは整形手術で手に入れた表の顔。

 その真の名は────デリング・ヘルザード。

 現在、彼は多頭蛇ヒュドラ研究開発部門の長としてこの場に立っている。


「こ、これはデリング主任! いつこちらへ?」


 声をかけられた研究者が驚くとデリングは「今さっきだ」と答え、研究者から受け取った記録用紙に目を落とす。


「ふむ。この世界の人間にも問題なく魔石は定着したか」


「はい。それとやはり平時は人間形態でいた方が精神的に安定するようです」


 研究者が再びモニターに視線を戻す。

 そこには改造手術を受けたばかりのマーナの父の姿があった。


「変身後の意識喪失問題はどうだ」


「まだ何も。現状、一度でも変身すれば元には戻れません。人間爆弾としての運用くらいしか使い道はありませんね」


「……ふむ。実用にはまだ遠いか」


「ですがそれも時間の問題でしょう。なにせここはダンジョンの中ですからね」


 研究者のおべっかにデリングは「ああ」と気の抜けた返事を返す。

 最初の成功例が脱走して以降、魔人製造の研究は加速度的に進んでいた。


 ダンジョン内部は場所によって時間の流れが異なっている。

 迷宮都市ダンジョンの壁の裏側を掘り抜いて作られたこの研究施設も、その特異な時間流の影響を受けていた。

 ここでは地上の十倍の速度で時間が進んでいく。


 しかしだからこそデリングには時間が無かった。

 長寿の霊薬で寿命を伸ばすにも限界はある。整形手術で外見は取り繕えても、内臓の衰えは誤魔化せない。

 デリングに残された時間は、もう幾許いくばくも無かった。


「研究を急がせろ。とにかく試行回数を増やしてデータを集めるのだ」


「では調達部隊に魔石の納入量を増やすよう伝えておきます」


 魔石さえあれば異世界人モルモットはいくらでも呼び出せる。

 そしてここは無限の資源を内包するダンジョンだ。

 地の利を味方につけ、邪悪な研究はさらに加速していく────。

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