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【3章完結】平凡勇者は挫けない【7章まで毎日投稿】  作者: 梅松竹彦
第三章 世界樹編

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0073.a 動乱の予兆

 ──アリオーン聖法国──


 書類が山積みになった執務机と向かい合っていたアマーリアは、それまで目を通していた報告書から顔を上げ、眉間を揉んで深々とため息を漏らした。


「よりにもよってこのタイミングで聖なる泉が消えるなんて……」


 聖なる泉は聖神教の創世神話にまつわる聖地の一つである。


 聖典によれば、かつて魔神の暴虐により滅びに瀕した大地を見た聖なる神は、そこに住む人々を憂い大粒の涙を流したという。

 その涙が窪地に溜まって出来たのが聖なる泉だとされている。


 泉の水には破邪の力が宿っており、不死者アンデッドに対して効果を発揮する数少ない対抗手段の一つでもあった。


 不死魔王の復活が神によって予言された現在、かの地は戦略的な意味でも非常に重要な拠点となっており、現地の警備体制は万全。────そのはずだった。


 しかし報告によれば、その聖なる泉が一晩の内にすっかり干上がってしまったのだという。

 泉が干上がった瞬間を見た者は誰もおらず、神の御業としか思えない不可解な現象に現地では混乱が広がっているらしい。


「対応しなければならない問題が次から次へ……」


 聖なる泉に関する報告書を机の隅に追いやったアマーリアは、続いてフリードレア連邦政府から送られてきた書類に目を通す。


 それは魔人の右腕消失事件についての調査報告書だった。


 かの地の大聖堂には封印物の状態を常に監視するため、複数の魔導が組み込まれている。

 そのため魔神の右腕が大聖堂から消失した時点で、聖法国側も異常が発生したことはリアルタイムで把握していた。


 ところが、右腕の消失と時を同じくして、連邦首都エルフェリアで同時爆破テロが発生。

 連邦政府側はそちらの対応に追われることとなり、大聖堂に立ち入ろうとした聖法国側の調査団が現場封鎖を行っていたフリードレア軍に妨害される事態まで起きてしまう。

 大聖堂の封鎖は翌朝には解かれたが、右腕の行方については依然として不明のままだった。


 アマーリアが報告書を目で追っていくと、どうやら右腕の消失には魔族のテロリスト集団が関わっていたらしい。

 だが現場でテロリストが使用した転送装置に不具合が発生。

 それにより生した空間のねじれに巻き込まれ、大聖堂ごと右腕が消失した。というのが事の真相のようだ。


 犯行に及んだテロリスト集団については、すでに追討作戦が実行され全員が死亡済み。

 肝心の魔神の右腕についても連邦側の調査で完全消滅が確認されている。


 報告書には右腕の消滅を裏付ける根拠となる資料も添付されており、そちらについてはアマーリアの手元に届けられるまでの段階で真偽の判定も済んでいるため、疑う余地は無かった。


 実際、嘘は一つも書かれていない。


 魔神の右腕はアリアが冥の大精霊へ進化する際に魔力へと分解され、彼女に吸収される形で消滅している。

 ただしそれによりアリアが魔神の力の一端を手にしたことについては一言も言及されておらず、アリアの名前自体も報告書には書かれていない。


 都合の悪いことは黙して語らないエルフ流の外交術だった。


「かの地の人々の心を開くことは叶わなかったようですね……」


 文末に添えられた聖神騎士団パラディウムの即時撤退を促す一文に、連邦側の本音を見たアマ―リアは、悲しげに目を伏せる。


 フリードレア連邦に聖神教が立ち入れたのは、魔神の右腕の監視という名目あっての部分が大きく、元々あまり住民から歓迎されていなかったことは知っていた。

 大義名分が失われた以上、連邦政府は今後あの手この手で聖神教を追い出しにかかるだろう。


「随分とお疲れのようですね」


「ラーハル……」


 今にも泣き出しそうなアマーリアが顔を上げると、ラーハルが肩に毛布をかけてくれたところであった。

 彼の纏う鮮やかな赤が映える衣は、枢機卿のみが身に付けることを許された特別な衣装だ。


「……どうして人はこうも分かり合えないのでしょう」


「あなたのせいではありませんよ。心を開こうともしない者たちのためにあなたが傷つくことはないのです」


 今の世を嘆き玉の涙を零すアマーリアの傍にそっと寄り添い、ラーハルが優しい言葉を囁きかける。


「あなたは他者を気遣い慈しむことのできる人です。それはとても素晴らしいことだ。しかしその愛をすべての人が正しく理解するは限らないのです。今は時期が悪かった。それだけのこと」


「……ならばせめて祈ります。いつか彼らの心にも神の愛が届きますように」


「────そう。あなたはそれでいい」


 祈るくらいしか取り柄の無い木偶人形の方が扱いやすい。

 喉まで出かけた本音を飲み込み、ラーハルが小さくほくそ笑む。


 先のエスぺリサ王国の一件を受け、空席となった枢機卿の座にラーハルが着いたのが今から二週間ほど前のこと。


 聖神教における枢機卿は投票によって決められる。

 投票権を持つのは大司教の位階を持つ者のみで、同じ大司教の中から最も相応しいと思った相手に一票を投じ、最も多い票数を獲得した者が枢機卿として選ばれる。


 ここ白星大聖宮プラチナムパレスで働く大司教たちの殆どは、先代法王の時代に多額の寄付をした功績で叙階を受けた貴族階級出身者が殆どだ。


 元々が権威欲しさに神の御許へすり寄ってきた卑しい輩である。

 叩けばいくらでも埃は出るし、無ければでっち上げれば済むだけのこと。

 二七歳という若さでラーハルが枢機卿の座に大抜擢されたことも、そうした裏工作あってのことだった。


 すると祈りに集中するアマーリアの脳裏に光が満ち、厳かな声が響く。

 神の言葉を受け取り、アマーリアがハッと顔を上げると、その様子に気付いたラーハルが気遣わしげに声をかける。


「どうしましたか」


「……たった今、神託が下りました」


 アマーリアの言葉を受け、ラーハルの顔に緊張が走る。


 【神託】

 一介の修道女だったアマーリアの運命を変えたスキルであり、このスキルの所有者は生まれや身分に関わりなく法王を継ぐ資格を得る。


 神託は余程よほどのことがない限り、滅多に下りてはこない。

 時代が時代であれば神の声を聞かないまま一生を終える法王もいたほどだ。


 それが今年だけでもすでに五回。

 これではまるで神が何かに焦っているような────。


 そこまで考えかけて、ラーハルは沸き上がりかけた疑念を振り払う。

 唯一絶対の神が焦るなどあるはずがない。あってはならないのだ。


「……神はなんと?」


「ゼロス・バルトホークを抹殺せよ、と。かの者の研究は世界を破滅へ導くだろうとも」


 ゼロス・バルトホーク。

 六〇〇年前、人魔大戦において勇者マサヨシの旅を支えた六英雄の一人であり、長寿の霊薬により現代まで永らえた天才錬金術師。


 医学や魔法学など多方面で多大な功績を残している反面、多額の借金を抱えていたり、淫魔と結婚していたなどという悪い噂の絶えない人物でもある。


(これはチャンスやもしれない)


 目の前にいるアマーリアに気付かれないほど薄く、邪悪な気配を含んだ笑みを浮かべたラーハルは、すぐに笑みを消して口を開いた。


「であれば、聖盾天使エリアルに任せるのが適任であるかと」


「エリアルですか。確かに彼女であれば安心して任せられます」


 親友の名を出され、アマーリアは迷うことなく執務机の引き出しから取り出したハンドベルを鳴らした。


「お呼びでしょうか法王様」


 直後、ラーハルの背後に光が満ち、その光の中から白亜の女騎士が姿を現す。


 神の最高傑作とまで評されるアマーリアにも劣らぬ美貌の持ち主で、わずかにウェーブのかかった見事なプラチナブロンドはそれそのものが仄かな輝きを放っている。

 その身を飾り立てる純白の鎧も相まり、まさしく天使の名にふさわしい風格を全身から醸し出していた。


 エリアル・フロストライン。

 この地上に四人しかいない法王直属の特級戦力、守護四天使。その一柱である。


 守護四天使はそれぞれ聖典に登場する大天使の名を冠するスキルを持ち、その実力はたった一人で小国の総戦力にも匹敵する。


 ラーハルにどす黒い感情の籠った視線をチラリと向けたエリアルは、アマーリアにそうと悟らせぬよう、すぐさまその場に片膝を付いた。


「たった今、神からの啓示がありました。エリアル、あなたにゼロス・バルトホークの抹殺を命じます」


「はっ」


「それから、ヒロト・スズキが迷宮都市へ向かったという報告が上がっています。使者を同行させますので、ついでに彼をここまで無事に連れてきてください」


「神命、委細承知いたしました。この身に変えても必ずや果たしてみせます」


「お願いしますね」


 神の意思を受け取ったエリアルは、背筋を伸ばしたままキビキビと執務室を後にする。

 親友の背中を見送ったアマ―リアは胸の前で手を組み神に祈りを捧げた。


「どうか世に平穏のあらんことを……」




 ◇




 ──果ての古城──


「ドラジス君が逝ったか」


 円卓に着いた不死魔王ヘルグが空席となった魔王の座を眺め、一人感傷に浸る。


 生まれながら背負った呪いに苦しみ、戦いの果てに一度は命を落とすも、恐るべき技術によって蘇った憎悪の化身。

 自動報復システムが破壊されたことで、ずっと求めてやまなかった心の平穏を得たのは、果たして彼にとっての救いになり得たのか────。


「まったく、羨ましい」


 ポツリと吐き捨てられた魔王の独り言は、誰に聞かれることもなく、天井の薄闇に吸い込まれて消えた。


「しかし“彼”も随分と大きな賭けに出たものだ。一歩間違えばすべてが台無しになるところだったというのに」


 白骨の指で円卓の淵をコツコツ叩き、ヘルグは思考に耽る。

 ドラジスをかの地に向かわせた“彼”は、こうなるという確信でもあったのだろうか。


「あるいはどちらでもよかった……?」


 自分の口から出た言葉にヘルグはくつくつと笑った。


 もしそうだとするなら、とんだダブルスタンダードだ。

 自らの大望を叶えるにあたり、最も犠牲の少ないプランを用意したにも関わらず、頭の片隅ではこの世界を滅ぼしてでもと考えている。


「……それとも、ヒロト君との敵対を恐れたか」


 以前、“彼”は黒仮面の問いに対し、大翔がこの世界に召喚されたのは必然と答えた。


 確かに、大翔には戦況を一変させるほどの強力な異能は無い。

 だが彼はこれまでの旅路で予想を遥かに上回る成長を遂げ、ついには三万年に及ぶ憎しみの連鎖さえも断ち切ってみせた。


 そんな大翔の【真なる英雄特有の運命力】とでも言うべき力を“彼”が恐れたのだとすれば……。


「ククッ。彼と相まみえる瞬間ときが待ち遠しいねぇ」


 ヒロトであればあるいは今度こそ、自分の期待通りの存在へ成長してくれるやもしれない。

 期待ばかりが空っぽの胸裏(きょうり)(つの)り、骨身に纏わりつく毒虫たちがざわざわと(うごめ)いた。


「あら、おじいちゃん一人だけ?」


「おや、アシュモネ嬢」


 ヘルグが一人楽しげにしていると、円卓の間にアシュモネが現れた。


 五歳程度まで縮んでしまっていた身体も、今や十六歳程度にまで戻っている。

 黒いビキニアーマーを纏った肢体は瑞々しい色香を放っており、その魅力は性欲を失って久しいヘルグでさえ思わず唸るほどだ。


「その様子を見るに療養は順調そうだね」


「ええ、おかげさまでゆっくりできたわぁ」


 アシュモネが席に着くと、続いて黒仮面が闇の中から音もなく現れ、一言も発さぬまま黙って席に着く。


 三人が揃ったところで円卓の中央に埋め込まれた水晶玉が光を発し、空中に人型のシルエットが映し出される。

 集まった魔王たちの顔を見渡したシルエットは、普段あまり見ない顔がいることに気付くと、物珍しそうに口を開いた。


『君が来るとは珍しいね』


「キューブのロック解除が完了したので、報告ついでにと思いましてね。賢者が第二層まで解除していたので仕事自体は楽なものでしたよ」


 つい一瞬前まで空席だったはずの椅子には、一人の男が座っていた。


 黒の軍服を着こなし、長い灰色の髪を後ろで一括りにした美貌の青年。

 魔具職人、あるいは放浪の魔王。

 この男を現す名は数多あまたあるが、この場に集った魔王たちの中にさえ、彼の真の名を知る者はいない。


 シルエットが声をかけるまで、他の魔王たちは彼がいつからそこにいたのか気付けなかった。


『そうか。何の前提知識も無かっただろうに独学でそこまで……』


「実に稀有な才能です。リゼラも順調に育ってくれている。今回は大いに期待できそうだ」


 魔法都市での出来事を思い出したのか、魔具職人は虚空を仰ぎ見ると、薄く笑みを浮かべた。


『────さて、みんなもう知っていると思うけど、ドラジスが死んだ』


 自分の世界に浸ってしまった魔具職人から視線を戻し、シルエットがその場の全員に向け淡々と告げる。

 魔王たちが僅かに瞑目して黙祷もくとうを捧げると、シルエットは改まったように息継ぎして、さらに続けた。


『彼に回収を任せていた魔神の右腕だけど、どういう星の巡り合わせかアリア姫と同化してしまった。少しルートを変更しなきゃね』


「じゃああの子を素体にするのぉ?」


『いや、プランBの二五で進めようと思う。アシュモネ、まだ本調子じゃないところ悪いけど働いてもらうよ。ゼロスを迎えに行ってくれ』


「……どうしても行かなきゃダメ?」


『かつては夫婦だった仲だろう? よりを戻すいいチャンスじゃないか』


「やめて。もう未練なんてないわ」


 口では嫌そうに言うアシュモネだったが、その複雑な表情を見れば本心では未だに未練を残しているのは明白だった。


 アシュモネの脳裏を過るのは、一人の女として愛され、母親として生きた幸せな日々の記憶。

 だがその光景はすぐさま凄惨な記憶に塗り替えられ、怒りの炎に飲まれて消えた。


『どうしても嫌だと言うなら他の手を考えるけど』


「────やるわ」


 シルエットからの気遣わしげな提案を振り切り、アシュモネが顔を上げる。

 その瞳の奥に宿るのは、四〇〇年経てど未だ消えぬ憎悪の炎。


「すぐ出るわ。あまり時間もなさそうだし」


 アシュモネはすぐさま席を立つとそのまま闇の中へと消えていった。

 そんな彼女にどこか哀れみを含んだ視線を向けていた黒仮面がシルエットに向き直り口を開く。


「俺は何をすればいい」


『厳冬の大地で遺跡をいくつか開放して、あるものを作ってきてほしい』


 シルエットが黒仮面を指差すと、その指先からレーザー光線が照射され、フルフェイス型端末にデータが送られた。


 データに目を通し、黒仮面が怪訝そうな気配を滲ませシルエットに視線を投げ返す。

 転送されたデータは超小型ブラックホール爆弾の設計図だった。


「こんなもの、何に使うつもりだ」


「予定通りシナリオが進めば使うつもりはないよ。あくまで念のための備えさ」


 本当にそれだけか。

 黒仮面が圧を込めてシルエットを睨むが、どうやらそれ以上答えるつもりはないらしく、わざとらしく肩をすくめられただけだった。


 これ以上の問答は無意味と悟り、不機嫌そうに鼻を鳴らした黒仮面が席を立ちマントの裾を翻す。

 すると彼を中心に空間が渦のように捻じれてゆき、そのまま渦の中心に吸い込まれるように黒仮面はその場から姿を消した。


「では吾輩はそろそろ大々的に動くとしようかね。裏方仕事も飽きてきたところだ」


 すっかり冷え切った場の空気を意にも介さず、ヘルグが杖を突きつつ重い腰を上げる。

 口調こそ穏やかだったが、纏う気配はおとぎ話に登場する悪の大魔王そのものだ。


『そうだね、派手にやってくれ』


「ククッ、そうさせてもらおう」


 シルエットからのゴーサインを受け、ヘルグが悪辣に口元を歪める。

 毒虫たちが不快な羽音を響かせ霧散すると、そこに彼の姿はもうなかった。


「では私は迷宮都市に────いえ、やはり厳冬の大地へ向かいます」


 最後に魔具職人が何か言いかけ、唐突に行き先を変更した。


『またバッドエンドでも見てきたのかい?』


「そんなところです。まったく世話の焼ける勇者様だ」


『やるべきことはやってもらったし、今後は君の裁量で自由に動いてもらって構わないよ』


 シルエットからの指示に魔具職人が芝居がかった仕草で一礼を返す。

 次の瞬間には美貌の魔王の姿は忽然と消えていた。

 誰もいなくなった円卓の間にただ一人残ったシルエットは、自分自身に言い聞かせるように口を開く。


『────さあ、冒険の書(ゲームブック)を進めよう』




 ◇




 ──聖地マテリオペテルス──


 春風の大地の最東端に位置する風光明媚なこの町は、聖神教の開祖、聖者ルグェル誕生の地として世に広く知られる聖神教の聖地である。


 見張り番の仕事を終えた聖兵のテムスは、その日も町外れにある高台へ向かった。


 薄い黄色が特徴的なレンガ造りの町並みを抜け、道中の屋台で酒と肴を買い、高台へと続く長い階段を上っていく。

 階段を上りきった先には木製の簡素な柵で囲われた広場があり、柵の手前にはちょうど一息つけそうなベンチもある。


 テムスがベンチに腰を下ろすと、夕日に照らされ黄金色(こがねいろ)に輝く町並みと、赤く燃えるような大海原が一望できた。


 天気がいいとテムスは必ずここを訪れる。

 仕事終わりにこの光景を眺めながら一杯やるのがテムスの密かな趣味だった。


「今日も今日とて平穏無事。素晴らしいことだ」


 大きな事件や事故もなく一日を終えられたことを神に感謝しつつ、屋台で買った甘辛いタレの絡んだ肉串にかじり付き、それを冷えた果実酒で流し込む。

 そんなちょっとした贅沢が彼の生きがいだった。


 聖神騎士団パラディウムは厳格な階級制度が設けられたピラミッド構造の組織だ。

 頂点に神騎士を頂き、その下に聖騎士、準騎士、聖兵と続く。


 聖兵のテムスの給料は安かったが、普段から節制を心掛けているおかげで一日の終わりにこうして楽しみの時間を設ける程度の余裕はあった。


「ん……? なんだありゃ」


 次第に濃い紫に変わりつつある水平線をぼんやりと眺めていると、ふと大海原の向こうに黒い影のようなものが現れた。

 影は次第に形を膨らませて大きく広がり、大波のようにこちらへ迫ってくる。


「おいおいおいおい嘘だろ!?」


 大海原を滑るように押し寄せるそれらは、黒い襤褸ぼろを纏った人骨の群れだ。

 気づけば晴れ渡っていた空は黒雲に覆われ、海から吹いた生暖かい不吉な突風にテムスは目を閉じる。


 警報が鳴る間もなかった。

 テムスが次に目を開いたときには、すでに不死者の群れは上陸しており、町のあちこちで火の手が上がっていた。


「ふむ、中々いい景色じゃないか」


「っ!?」


 唐突に響いたしゃがれた声に、テムスが慌てて振り返る。


 そこに立っていたのは血染めのローブを纏った化物だった。

 白骨化した頭部を無数の毒虫が這い回り、それらが男の貌を形作っている。


「そこの君」


「ひっ!? ば、化物!」


 化物に視線を向けられ、テムスは剣を抜いて身構える。


「確かにその通りではあるが、初対面の相手に少し失礼ではないかね? まあいい、君に伝言を頼みたいのだ」


「な、なにを……? お前は誰だ!」


「吾輩かね? 君たちが不死魔王と呼ぶ者。名は名乗るまでもないだろう。君には吾輩の復活を世に知らしめて欲しいのだよ」


「不死魔王!? バカな! 一五〇年前に滅びたはずだ!」


「あの時吾輩が本当に滅びていられたら、お互いどれだけ幸せだったろうかね。さあ行きたまえ。吾輩の気が変わらぬ内に」


 不死魔王がどこか芝居がかった仕草で両腕を大きく広げてみせる。


 直後、大地が激しく鳴動し、石畳を突き破って無数の尖塔がぐんと空に向かって伸び上がった。

 ものの数秒で聖地を一望する丘の上に禍々しい魔王の城が現れ、テムスは握りしめていた剣を取り落としてしまう。


「あ……あああ!? うわああああああ!!!!」


 魔王の絶大な力を目の当たりにしたテムスは、転がるようにその場から逃げ出した。


「はっはっはっは! そうだ、逃げるがいい。吾輩は今ここに復活したぞ!」


 闇と炎に包まれた聖地マテリオペテルスに、人々の悲鳴と魔王の哄笑こうしょうが響き渡る。


 不死魔王ヘルグ復活の知らせは瞬く間に世界へと広がり、世界中の人々を震え上がらせた。

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