0066 記憶と魂の狭間で
──いつかどこかの記憶──
(────ここは……?)
どこかの廃村だろうか。
辺りに人の気配は無く、元は道が通っていたであろう場所は緑の草に覆われ見る影もない。
だけどその割に、点々と建ち並ぶ木造の民家はどれも保存状態が良く、雨風の浸食を受けていないようだった。
……これは記憶だ。
俺は今、ハルトの目を借りて彼の過去を覗き見ている。
ここはエルフの始祖、ニシノミヤの民たちの村。
数万年の時を経ても建物が当時のまま残っているのは、彼らを愛した精霊たちがこの地を守り続けてきたからだ。
『そんな……。ここもダメなのか!』
しかしその守りも今や失われようとしている。
原初の魔王が森に撒いた呪毒のせいで、森そのものが死にかけているからだ。
荒れ果てた集落を見渡し、奥歯を強く噛みしめハルトが項垂れる。
多くの精霊たちに愛されエルフの始祖たちが暮らしたというこの土地なら、きっと毒の影響も届かないはず。
そんな最後の希望に縋り、唯一生き残ったカシギ王家としての責務を果たすべく、毒に蝕まれた多くの民を引き連れてどうにかここまでやってきた。
振り返れば、最後の希望を断たれ絶望に沈んだ顔がいくつも見える。
誰も彼も、もう限界だった。
多くの者たちから不老不死の力はすでに失われ、毒に蝕まれた身体は苦痛を伴う死へと向かいつつある。
『兄さん』
俺の隣に立つ白髪の少女が、神妙な面持ちで口を開く。
エイミー。血を分けた双子の妹。
『ここはまだ精霊たちの力が生きている。私が願えば……』
『ダメだ!』
『兄さん!』
『これはお爺様たちの罪だろう!? どうしてエイミーが人柱にならなきゃいけないんだ!』
ハルトと同じく、多くの精霊に愛されているエイミーが願えば、森から毒を消し去ることもできるだろう。
だけどそんな大魔法を代償無しに使えるはずはない。
一度願えば最後。その身は大樹へと変わり、彼女の魂は未来永劫この地に根を下ろすことになる。
『呪毒の影響を受けなかったのは大精霊に愛された私と兄さんだけ。誰かがやらなきゃ、このままではみんな死んでしまうわ』
『でも! だからって……っ』
『私に兄さんたちみたいな戦う力は無い。……だからお願い。子供たちを護って』
縋るような視線を向けてくるエイミーの腕の中には、まだ生まれて間もない赤ん坊がいた。
親友カシウスと、エイミーの子だ。
彼女は母親として、自分の息子と、彼から連なっていく未来の子供たちのため、世界樹に成ろうとしている。
長命種のエルフは滅多に子供を作らない。
不老不死だった上古のエルフはなおさらで、子供がいる夫婦の方が珍しいくらいだった。
その分、家族の愛情や兄弟姉妹の絆は人間の感覚よりもずっと深く、重い。
『……僕に未来永劫戦い続けろというのか』
胸の内で渦巻く感情を押し殺し、ようやくひねり出した言葉がそれだった。
『いいえ違うわ。今は憎み合っていても、今この時が遠い過去になれば、お互いを許して分かり合える日はきっとくる』
エイミーが腕に抱いていた息子と一緒に、翡翠の指輪をハルトに渡す。
一目見ただけで強力な加護とまじないが込められた品だと分かった。
『兄さんには憎みの連鎖を断ち切って欲しいの。敵も味方もなく、すべての子供たちが安心して暮らせるように』
『こんなもの、いつの間に』
『本当は兄さんが王位を継いだときに渡そうと思っていたのだけどね』
そう苦笑を零し、エイミーは真っ直ぐにハルトの目を見つめて、最後の言葉を紡ぐ。
『私たちは老いて死ぬことは無いけど、不滅の存在ではない。いつか兄さんもその命を終えるときが必ず来る。だからいつか、そのときが来たら、この指輪を次の誰かへ託して。想いが託され続ける限り、人の意思は消えないから』
『…………っ』
歯を食いしばって俯くハルトに、エイミーは無理っぽく笑ってみせた。
それから別れを惜しむように、幼い息子と兄をそっと抱きしめた。
────本当は何もかも投げ捨てて、妹を連れて逃げ出してしまいたかった。
けど、妹がそれを望まないことは、兄だからこそ他の誰よりも理解していて。
もし今ここで逃げてしまえば、エルフは自分たち兄妹を残して誰もいなくなってしまう。
だからこそ生き残った民を引き連れてここまでやってきた。
最後まで、エイミーの自慢の兄でいたかったから。
やがてエイミーの温もりが離れ、その足音が遠ざかっていく。
何もしてやれない自分が情けなくて、去り行く妹の姿を直視できなかった。
腕の中で穏やかに眠る甥っ子の丸っこい頬を、悲しみの雨が濡らす。
ふと、村の奥から光が溢れ、顔を上げる。
光は柱のように天にむかって伸び上がり、空の果てで枝葉を広げ、一本の巨木へと姿を変えた。
────────
────
──
数年後。
緑の大地を訪れた人族の冒険者によって、原初の魔王が討たれたという知らせが届けられた。
カシウスを筆頭に各種族の英雄たちが集い、鉄砂の大地を戦場とした戦いは三日三晩続いたという。
帰ってきたのは、折れたカシウスの愛剣だけだった。
彼は原初の魔王に致命の一撃を与えたが、代わりに自らも致命傷を負い、魔王と共に果てたらしい。
あのとき、カシウスの手足を撃ち抜いてでも止めていれば。
無意味なたらればばかりが脳裏に浮かんでは消えていく。
────長い、永い日々だった。
復讐に散ったカシウスを思い、彼の太刀筋を思い返しては剣の腕を磨いた。
三〇〇年を費やし、数字の上では彼と同じ領域に至ったが、それでもまるで追い付けた気がしなかった。
こちらから攻めずとも、敵は何度でも襲ってきた。
早ければ一〇〇年と経たず、どんなに長くとも平和な時代が三〇〇年以上続いたことは無かった。
気付けば平和な時代でさえ、次の戦に備えることばかり考えるようになっていた。
そんな日々を過ごす内、気づけば一万年。
この頃にはもう戦いに必要な知識や技術はおおよそ極め尽くしてしまい、戦争で子供たちが死ぬことも滅多に無くなっていた。
エイミーとの約束に従い、こちらから攻めることは一度もしなかったが、敵が一歩でも境界を越えれば容赦はしなかった。
徹底したゲリラ戦術は味方の損害を減らしたが、森は敵の血で染まり、新たな憎しみを生みもした。
このままではまずい。
そう気づくのに、さらに一万年かかった。
外の世界に答えを求め、平和な時代は森を出て、見分を広めるため世界中を見て回った。
知らない土地の文化に触れていくつか趣味はできたが、だけど世界のどこにも平和の答えなんてありはしなかった。
貧困。
差別。
領土に民族に宗教。
いつの時代も人々は争う理由を探しては誰かを憎み、他人を否定し、その土地、その時代で敵の名前が変わるだけ。
戦争の合間を縫って五〇〇〇年ほど世界を見て回ったが、そのうち争いばかりの人界に嫌気がさして、旅をするのもやめてしまった。
長い、永い人生だった。
おおよそ人の頭で思いつく限りの研鑽はやり尽くし、答えの無い分野でもアイデアを出し尽くして、生きることを倦み始めた頃。
────奴が、魔王ドラジスが現れた。
◇
──思い出の展望台──
まるで映画の場面転換のように、急に景色が切り替わる。
……ここは、熱海の展望台?
「ここはヒロトの思い出の場所なんだね」
気がつくと隣にハルトがいた。
ここは俺が父さんと過ごした中で、一番記憶に残っている場所だ。
俺がハルトの記憶を彼の視点から覗き見たように、ハルトも俺の視点から俺の記憶を見たのだろう。
言葉に出さずとも、お互いのことがまるで自分のことのように分かる。
だけど不思議と怖いとか、嫌だとか、そういう気持ちはちっとも無くて、それが心地いいとさえ感じていた。
「……ヒロトは、ナギサから命を貰ったんだね」
ハルトの言葉に俺は頷いた。
────渚。
病弱な俺とは正反対の、活発な双子の姉。
渚は俗にいう天才だった。
幼いながらに様々なスポーツで才能を発揮し、巷では天才少女ともてはやされ、テレビが取材に来たこともある。
病気で思うように動けなかった俺は、自分と瓜二つな渚の活躍を見るのが好きだった。
だけど俺が十歳のとき、渚は事故で死んでしまった。
そして渚の心臓は同じ日に発作を起こした俺へと移植され、気づいた時にはすべてが終わっていた。
移植手術から一週間。
ようやく朧げに目を覚ました時に見た両親の顔は、今でも忘れられない。
安堵と、深い悲しみが入り混じったような、あの顔。
集中治療室で眠り続けていた俺は、渚の葬式に出られなかった。
「そうか。そのとき君の中にナギサの魂が混ざったのか」
穏やかな水平線をぼんやりと眺めていたハルトが、なんとなしに呟く。
渚の心臓を移植してから、俺の身体はそれまでの不調が嘘のように回復していった。
医者の先生も驚異的な回復だと驚いていたのを今でも覚えている。
だけど身体が良くなっていく反面、俺の心は見えない鎖に縛られていった。
あの頃の俺は、渚の死を受け止めきれず、自分だけ生き延びてしまったことに罪悪感を感じていた。
そんなとき、ふと思い立ったように父さんが連れてきてくれたのが熱海だった。
二人で温泉に入り、港をぶらぶらと散策し、海の幸を食べて、ロープウェイに乗って……。
記憶が呼び起こされたからか、俺たちの前にかつての“ぼく”と父さんが姿を現す。
ベンチに腰掛け、それぞれジュースと缶コーヒーを片手に語り合った、あの日の記憶────。
『大翔、今日は楽しかったか?』
『……まぁまぁ』
『そうか』
俺の素っ気ない態度に父さんは苦笑して、缶コーヒーを一口すすり、言葉を探るように空を眺める。
『生きることは、とても大変なことだ。辛くて、苦しくて、思うようにいかないことばかりだ』
『……なんにもできないぼくなんかより、渚が生き残ればよかったんだ』
『そんな悲しいこと言わないでくれ』
このときの父さんの悲しそうな顔は今でも忘れられない。
痛みを堪えるようなその顔に、俺は言ってはいけないことを言ったのだと自覚した。
『……ごめんなさい』
すぐに後悔して、とっさに口をついた謝罪の言葉を、父さんは首肯で受け入れてくれた。
ぽん、ぽん、と。
落ち込んで下を向いてしまった俺の頭に、父さんの手が触れる。
ゴツゴツして、大きな手。
『確かに世の中には悲しいことや苦しいことがたくさんある。渚が事故で死んでしまったこともそうだ』
『……』
『だけど人生はそればかりじゃない。生きていれば、いつか良かったと思えるときは必ず来る』
『……来ないよ。そんなの』
『来るさ。確かに渚の人生は終わってしまった。だけど、だからといって、それで渚の存在が消えてしまったわけじゃないんだ』
『……?』
言葉の意味が分からず、“ぼく”が視線で続きを促すと、“ぼく"の胸を父さんが人差し指でトントンと軽く叩く。
『ここにいる。大翔が生きている限り、渚は消えない。渚はこうしている今もお前を生かしてくれている』
『ぼくの、中に……』
『だから大翔は渚の分も生きろ。渚の心臓が鼓動を止めるそのときまで、大翔は精一杯生きて、渚の分も幸せになれ』
────このときはまだ、この先どう生きていけばいいかなんて、何も分からなくて。
だから父さんの励ましに曖昧に頷くことしかできなかった。
「父さんは自分の人生を生きろと言ってくれたのに、俺は……」
「君は死者になろうとした」
ハルトの言葉に頷き返す。
この頃からだ。ぼくが自分のことを「俺」と呼んで、自分の身を顧みず、ヒーローの真似事をするようになったのは。
身体が弱くて何もできなかった俺は、瓜二つの顔を持つ天才の姉に自分の影を重ねて救いを見出していた。
渚は思うままに活躍できるもう一人の自分。
俺は無自覚のまま、いつもテレビで見ていた変身ヒーローと姉を混同していた。
だから渚の分も生きて幸せになれという父さんの言葉を、俺は自分の中で歪めてしまった。
渚の分も生きるなら、自分も渚のようなヒーローならなければ意味がないと、勝手に思い込んだ。
ハルトの目を通じて自分を見つめ直して、今ようやく、そのことに気づけた。
「きっとヒロトの父君は、君を励まそうとあの言葉を贈ったはずだ」
「……笑っちゃうよね。才能もないくせに、ヒーローになりたがるなんて」
「笑うもんか。君は君なりに、親しい人の死を乗り越えようとしたんだから」
ハルトが優しい笑みを向けてくる。
とても頷く気にはなれなかった。
俺は全然、今でさえ乗り越えられてなんていないのだから。
いつまでも身の丈に合わない理想ばかり追いかけて、そのせいで美乃梨を泣かせたことだってある。
美乃梨だって渚とは幼馴染で、ほとんど姉妹みたいに育ってきたんだ。
今になって思えば、本当に悪いことをしてしまった。
「だけどミノリさんは、そんな君を支え続けてくれた」
「……本当に、どんなに感謝しても足りないよ」
馬鹿な俺を見限らず、いつも隣で支えてくれたのは、他でもない美乃梨だ。
自分の過去を見つめ直したからこそ確信できた。
俺は美乃梨が好きだ。この気持ちに嘘も偽りもない。
「だからこそ、リゼラさんの気持ちに向き合えないことが苦しい」
それもまた、偽らざる俺の本心だった。
リゼラが俺に向ける眼差しが変わったことには薄々気づいていた。
会話をしていないときも視線を感じるようになったし、普段の態度も以前よりだいぶ丸くなったように思う。
それに、大浴場で聞いてしまった、三人のやり取り────。
「やっぱりアレって、そういうことだよね……」
気付いてたさ。リゼラの気持ちは。
だけど俺は故郷に未練を残してる。それを解消しない限り、リゼラの方だけを向くことはできない。
だからリゼラがあくまで仲間としてのスタンスを貫くなら、俺も気付いていないフリをするしかない。
少なくとも、そうしている間は誰も傷つかずに済むから。
「君は彼女に強く惹かれている。本当は故郷に帰る方法なんてどこにも無いと、誰かの口から言われるのを心の片隅で願ってしまうほどに」
心の奥底に隠していた気持ちを掘り返されてしまった。
とはいえ本当のことなので認めるしかない。ここで嘘は吐けないし、否定したって見苦しいだけだ。
「リゼラは俺に無茶を貫かせてくれた。俺を英雄にしてくれたのはリゼラなんだ」
ハルトの目を借りて自分の旅路を振り返ってみると、この世界に来てから俺は随分と無茶なことをしてきたと思う。
日々の生活に追われる内、無意識のまま心の奥底に封じ込めていた願望が、自由を得て、力を得て、そして理由を得て────顔を出した。
人に誇れる自分になりたい。
渚のようなヒーローになりたいという、無茶な願いが。
師匠という『なりたい自分の究極系』と出会えたことも大きいだろう。
師匠は役立たずと言われた俺を見捨てず、どうにか自力で立てるようになるまで育ててくれた。
どんな理不尽も跳ね返すあの人の強さは、俺に強烈な憧れを抱かせた。
それでも、芽が出たばかりの苗木が、巨木の真似をしたってどうにもならない。
身の丈に合わない無茶のせいで、俺は何度も死にかけた。
だけどその度に命を繋いで、俺が潰れないように支えてくれたのがリゼラだった。
「彼女に何度も救われたことが重荷になっているんだね」
「……言えるわけないよ」
今まで何度も命を救われといて、今だってリゼラの力をアテにしてるくせに。
それなのに、故郷に好きな子がいるからごめんなさいなんて、どの口が。
「とにかく、焦ってはいけないよ。何事にもタイミングというものがあるからね」
早く楽になりたいという気持ちに、釘を刺された。
厳しいな、ハルトは。
「惚れさせた君が悪いんだ。それくらいの重荷は背負いなよ」
「他人事だと思って!」
「はっはっは。大いに悩めばいいさ。最終的にどうするか決めるのは君自身なんだから」
まるで孫を可愛がる老人のように、ハルトが穏やかに笑う。
目に見えない繋がりを通じて、彼の温かな心が流れ込んでくる。
彼はこの地上にただ一人残った不老不死のエルフだ。
誰か一人を愛しても、必ず先に旅立たれてしまう。
だからハルトは一人を愛するのではなく、エルフという種族全体を家族として捉え、子や孫のように愛した。
不老不死のエルフは他者をどのように愛するか、理性で選ぶことができる。
心と心が通じてこんなにも心地いいのは、きっと相手がハルトだからこそだ。
「…………ハルトはすごいよ」
懐かしのベンチに二人で腰かけ、俺は空を見上げて思ったことを口にする。
本当は魔族のことが憎くて仕方なかったのに、その気持ちを押し殺してずっと耐えて、家族を護り続けた。
それは誰にでもできることじゃない。
魔族の血に刻まれた憎しみが消えない限り、どれだけ歩み寄ろうとしても彼らはそれを受け入れないだろう。
それを分かっていたからこそ、ハルトは待つことにした。
魔族たちの憎しみと、自分の中に渦巻く憎悪が薄れて消えるそのときまで。
「……ぜんぜんさ。三万年も生きておいて、妹の最後の願いさえ叶えてやれない。愚かな未熟者だよ」
「エイミーは子孫の罪まで背負えなんて頼んでない!」
「……ああそうさ。そうだろうとも! でも、それなら他に誰があんなことの責任を取れるというんだ!? それを実行した彼らはすでにこの世にいないのに……ッ」
目に見えない繋がりを通じて、ハルトがかつて見た光景がフラッシュバックする。
────終戦から三ヵ月。
魔王討伐の旅を終え、やっとの思いで帰国してみれば、そこにあったのは焼けて灰になった森と、家族や友人を喪い悲嘆に暮れる人々だった。
何故もっと早く帰ってきてくれなかったのか。
そもそも森を出るべきではなかった。
あなたさえいてくれればこんなことには。
そんな恨みの言葉を一身に浴びながら水晶殿へとたどり着き、そこでまた絶望する。
目に飛び込んできたのは、乾いて黒く固まった血と、腐った肉塊の群れ。
精霊兵器の使用を決定した議長たちは、全員が大いなる力の代償を支払わされた。
生きたまま内臓をむしり取られ、骨を抜かれ、その魂は未来永劫出ることの叶わない闇の底に囚われた。
議長たちの断末魔は森中に響き渡ったそうだ。
近づけば自分たちもああなるに違いない。
精霊の怒りを恐れた人々は、ハルトが帰還するまで誰も水晶殿に近づこうとさえしなかった。
放置されたままの亡骸は酷い臭いを放っており、蛆が沸いていた────。
あまりに強烈な記憶を思い出し、気分が悪くなった俺は、遠く海を眺めて細く息を吐いた。
「……俺には分からないよ。何が正しくて、何が間違ってたのかなんて」
「人の歴史に正しさなんて無いんだよ。だから人の数だけ正義がある」
「それでも! ハルトのやろうとしてることが正しいとは思えないよ!」
「聖神教は今や世界で最大の宗教となった。そんな世界に魔族の成り立ちについての真実を残しては、いずれ必ず争いの火種になってしまう」
エルフから不老不死の力が失われて三万年。
魔族の血に刻まれた呪いは、時を経るごとに薄れつつあった。
事実、淫魔たちがそうだ。
遥か大昔、とある大帝国に捕らえられた彼女たちの祖先は、性奴隷として多くの種族と交わることを強要された。
その結果、帝国が滅ぶ頃にはすっかり血も薄まり、呪いも解けていたのだ。
過程はどうあれ、彼女たちは祖先の怨念に悩まされることもなく、今も世界のどこかで細々と生きている。
だが淫魔たちはあくまで例外中の例外。
それ以外の魔族たちは、最後まで呪われたままだった。
恨みと呪いが薄まり消えそうになる度、世界のどこかで新たな魔王が生まれ、何度でも憎しみの火種をばら撒いたからだ。
そうして最後の魔王としてドラジスが生まれ、魔族は滅びた。
人と魔族が争った最後の戦いから六〇〇年。
今や人類の敵はアンデッドと魔物、そして同じ人類だけだ。
生きた魔族はもう、この地上のどこにもいない。
和解すべき相手を滅ぼしてしまったエルフは、いずれその血に刻まれた呪いによって滅びゆく運命にある。
だからハルトは、せめてエルフたちが穏やかな滅びを迎えられるようにと、魔族の成り立ちに関する歴史のすべてを封印した。
今を生きるエルフたちが過去の大戦の責任を問われ、新たな争いに巻き込まれないようにするために。
「だからって、ハルトが全部一人で背負うこと、ないだろ……っ」
「この事実が新たな火種になることだけはあってはならないんだよ。僕はもう誰一人として、子どもたちを戦争で死なせたくない」
ハルトの身体はもう再生能力が機能していない。
ドラジスとの戦闘で発生した大量の放射線を浴びたせいだ。
聖神教は魔族を絶対悪と定めている。
それはこの世界に生きる人々の共通認識であり、常識だ。
そんな魔族の成り立ちにエルフが関わっていると多くの人が知れば、その中からエルフを悪と糾弾する者が必ず現れる。
もしもその意見が時代に後押しされて力を得たなら、その牙は今を生きるエルフたちに向かうだろう。
彼は今、自らの命と共に真実を闇へ葬り去ろうとしている。
記憶の精霊たちはハルトとの契約に従い、彼が許可するまで誰にも真実の歴史を明かすことはない。
「……ごめん。君を僕らの戦争に巻き込んでしまった」
ハルトが本当に申し訳なく思っているのが伝わってくる。
……そうか。だから森の奥から帰ってきた後、ハルトは俺に嘘をついたんだ。
何もなかったはずなんてないのに。
本当は誰かに打ち明けて楽になってしまいたかっただろうに。
それでも俺を過去の戦争に巻き込むまいと、嘘をついた。
そのせいで精霊たちの多くが離れてしまい、ハルトは一時的に全力が出せなくなっていた。
全力のハルトなら、あんな円盤くらい矢で簡単に撃ち落とせたはずなのに。
「……もっと早く打ち明けて欲しかった」
「せっかくできた友達を、こんなことに巻き込みたくなかったんだ」
……分かってる。分かってるさ。
それでも友達だと言うのなら、抱え込まずに打ち明けて欲しかった。
「だけど同時に、君ならもしかしてとも思っていた。そしてそれは今、確信に変わった」
ハルトの意思が、願いが、目に見えない繋がりを通じて俺へと流れ込む。
「自動報復システムの本体を破壊してくれ。これはヒロトにしか頼めないことだ」
被害者でも加害者でもなく、だけど同時に両者の事情を知り、ハルトのエゴを否定した部外者の俺だからこそ。
……ずるいよ。俺が断れないって知ってて頼むなんて。
「────ッ。システムは必ず破壊してくる。だからそれまで死ぬな!」
◇
──輸送艇 コクピット──
気が付くと俺の意識は自分の身体に戻っていた。
「どうしたヒロト、急にボーっとして」
「今のは……。ペンダントの石が光って、そしたら急に……」
「お前ホントに大丈夫か? 石なんて光ってねぇぞ」
なんだって? じゃあ、あれは俺だけが感じたことなのか?
まるで俺とハルトの魂が溶けて混ざったような感覚だった。
だから彼が辿ってきた歴史も、心の奥底に秘めていた後悔も、すべて自分のことのように感じられた。
それは同時に、彼も俺と同じ体験をしたということでもある。
それでもハルトはこんな俺を受け入れ、友情を感じてくれていた。
視界が滲む。
ぬぐってもぬぐっても、とめどなく溢れてくる。感情の制御ができない。
今の一瞬で数万年分の対話よりも深く、お互いを理解し合えた。
だからこそ。
ハルトがエイミーの子孫たちを愛する一方で、心の奥底ではその重責から解放されたがっていたことも、今なら分かる。
「お、おい、どうしたんだよ!? 急に泣き出して。ポンポン痛ぇのか!? 大丈夫か!?」
「なんでも、ないっ。目にゴミが入った、だけ……っ」
俺を心配してアーシュラがあたふたと背中をさすってくる。
心配させまいと気丈に振る舞おうとしたけど、ダメだった。
俺はドラジスとハルト、敵対する両者の視点から彼らが辿ってきた歴史を知った。
だからドラジスがエルフを憎む理由も、ハルトがエルフを守り続けてきた理由も分かる。
ハルトの目から見たドラジスは、早く楽になりたがっているように感じられた。
だとすれば、希望はまだある。
その希望を掴める可能性があるのは俺だけだ。
「────自動報復システムを破壊するんだ……っ。こんな悲しいことはここで終わらせる!」
いつまでも泣いている時間はない。
ハルトは俺に未来への希望を託した。だったら俺は友達として、その願いに応えたい。
このままバッドエンドなんて冗談じゃない! 諦めてたまるか!
「急に泣き出したと思えば今度はなんだよ!? お前さっきから変だぞ!」
「ごめん、心配かけた。でも本当に大丈夫だから」
「ホントだな!? 無理だけはすんなよ!?」
心配そうに顔を覗き込んでくるアーシュラに、俺は決意を込めてはっきりと頷き返した。
「……今は詳しく聞かないでおいてあげる。ただし、ヒロトの中で整理がついたら、一から十までぜんぶ説明してもらうわよ」
「分かった。……ありがとう」
「いいわよ。信じるって決めたもの」
進行方向に視線を固定したまま、まるで自分に言い聞かせるみたくリゼラが言った。
そう言ってもらえたことが嬉しい反面、申し訳なくもあって。
────今は無理でも、いつか必ず。
覚悟を決め、青い石のペンダントを握りしめると、身体の奥に残っていた僅かな震えが止まった。




