0040 聖銀VS淫魔王
淫魔。
それは今より四〇〇年前、各地に疫病をばら撒き、時の権力者たちを催眠魅了の力で支配して世界を混乱の底に叩き落とした生きた災厄。
万能治療薬が発明され疫病が収束するまでの間、淫魔による精神支配を受けた権力者たちは『淫魔狩り』と称して無実の市民を捕え、次々と隔離施設へ送った。
施設では浄化の名の下に大虐殺が実行され、その犠牲者は実際に疫病で亡くなった者や、その後世界各地で勃発した暴力革命による死者も含めると、当時の世界総人口の半数にも上ったとも言われている。
淫魔にまつわる虐殺の歴史は人類領域のあらゆる国家でタブーとなり、その名は現在では意味を変え、男女問わず最大の侮辱の言葉として使われるほどだ。
そんな災厄の女王が漆黒の翼を広げ、アーシュラの前にふわりと降り立つ。
「ふふっ、脅かし過ぎたかしら。震えちゃってかーわいい。ま、本物の淫魔なんてあなたたちにとっては四〇〇年ぶりですものねぇ」
「っ! 寄るなっ!」
見えない力に押さえつけられていたアーシュラは、震えの止まらない身体に喝を入れどうにか拘束を振りほどき、大きく後ろへ跳び退る。
────無意識の内に淫魔に屈しかけていた。
催眠か、はたまた別種の異能か。
警戒を強めたアーシュラの額に冷や汗が滲む。
同性ですらこの有様だ。もし自分が男だったなら、成す術もなく今ので終わっていたかもしれない。
「まるで怯えた子犬みたいね。触れただけじゃ病気になんてなりませんよーだ」
────ま、やろうと思えば触れなくても感染せるんだけどね。
聞き捨てならない淫魔王の呟きを拾い、アーシュラが口元を抑えて後ずさる。
淫魔と交わると病気になる。不潔にしていると淫魔になる。
それはこの世界に生きる人間であれば誰もが一度は耳にするであろう脅し文句だ。
だが時代を経るごとにその言葉の本来の意味は忘れ去られ、彼女たちが振るった恐るべき力の詳細を知る者は数えるほどしかいない。
「淫魔とセックスしたら病気になるなんて真っ赤な嘘。私たちはあらゆる病原体を自在に操れるもの。むしろ町の性病治療に貢献してた……なーんて言っても、どうせ信じないんでしょうけどね。知ってる? 万能治療薬の触媒に使われてる【神の血石】って、淫魔の血から作られたのよ。とんだお笑いよねぇ?」
つらつらと。
まるで出来の悪い生徒に聞かせるような口調で、アシュモネが下品なハンドサインを交えて講釈を垂れる。
もし今の発言がすべて真実なら、世界がひっくり返るほどのとんでもない情報である。
だが今重要なのはそこじゃない。
アーシュラは頭を振って横道に逸れかけた思考を強引に戻すと、吼えるように口を開いた。
「嵐の笛はどこだ!?」
「あら、それも知ってるのねぇ。随分と優秀な探偵さんがいるようですこと。それならここよ、ココ♡ 欲しかったら奪ってごらんなさぁい」
まるで手品のように胸の谷間から嵐の笛を抜き取ったアシュモネは、笛をぷらぷらと振ってアーシュラをからかう。
笛はこうしている今も禍々しく明滅を繰り返しており、今にも封印が解けてしまいそうだった。
それを見るなり、アーシュラはすかさず腰のベルトポーチに手を伸ばした。
刹那、ベルトポーチから引き抜かれた鉄針が紫電を帯び、淫魔王目掛けて鋭く投げ放たれる。
が、アシュモネを狙ったはずの鉄針はまるで見当違いな方向へ飛んでゆき、かすりもしなかった。
「物覚えの悪いワンちゃんねぇ。私に攻撃しても意味が無いって、さっきので学ばなかったのかしらぁ?」
アシュモネが両腕を広げると、その手の中に禍々しい闇色の魔力球が形成される。
魔力球は一つ、二つ、四つと倍々に増えて、やがて玉座の間を埋め尽した。
「さぁ、お遊戯の時間よ。愉快に踊って楽しませて頂戴な!」
淫魔王が両手を押し出すように前へ向けると、腕の動きと連動して魔力球がアーシュラ目掛けて矢のように殺到した。
一つ一つが必殺の威力を秘めたそれを、アーシュラは顔色一つ変えず見切り、弾く。
弾いて、見切って躱して、また弾き、魔力球同士をぶつけ合わせて消滅させる。
超人的な身体能力と磨き抜かれた達人級の体術。
どちらが欠けても成し得ない、思わず見惚れるほどの完璧な防御。
「っ!?」
不意を突くように真横から飛んできた毒矢がアーシュラの頬をギリギリ掠めていく。
獣化転神で反応速度が上がっていなければ直撃していた。
弾幕でこちらの動きを制限してからの、狙いすました不意打ち。
計算し尽くされた狡猾な罠だった。
「アハハ! 今のも避けるのね。ならこれはどう!?」
アシュモネが両手の人差し指をくるりと回せば、弾幕の動きがアーシュラを狙う直線軌道からランダムな回転軌道へと変わった。
これは流石に避けられまい。淫魔王の口角がニヤリと吊り上がる。
「────ッ!」
「うそっ!?」
だがオーランの聖銀は伊達ではなかった。
右へ左へ、ランダム軌道で迫りくる魔力球を不規則なステップで躱し続け、死角から迫っていた本命の攻撃を一瞥もくれずムーンサルトで躱し、蹴り返す。
蹴り返された魔力球が別の魔力球とぶつかり、大爆発!
爆炎のカーテンが両者の視界を塞いだ。
「これくらい余裕で避けられなきゃ、ソロで禁足地なんて潜れねぇんだよ!」
アーシュラの前髪にバチリと紫電が迸る。
すると先程投げて床に転がっていた鉄針がふわりと宙に浮き上がり────直後、電磁力に引かれて急加速した鉄針が淫魔王の背中に深々と突き刺さった。
「くたばれクソ淫魔ッ!」
「ぎゃあああああああああああああああああああああああッ!!!!」
そこへすかさずアーシュラが最大出力で電撃を放てば、鉄針に引き寄せられた高圧電流がアシュモネへと流れ込む!
制御を失った魔力球が飛沫のように弾けて消え、感電したアシュモネが膝を突く。
「ぐっ!? どうして……っ!?」
「さっきオレが投げた鉄針。間違いなくテメェを狙ったのに、てんで見当違いな場所へ飛んでいきやがった。テメェの守りがバリアの類なら、あんな軌道にはならねぇ」
仮に無敵のバリアがあるのなら、投げた鉄針はバリアに弾かれて床に落ちるはずだ。
しかし実際にはそうはならなかった。
「おそらくテメェの守りは他人の無意識に働きかけて攻撃を外させる催眠術みてぇなもんだ。だからテメェを挟み込むように位置取りを調整して、飛んでった鉄針をオレに向かって磁力で引き寄せたのさ」
電磁力で引かれ合う物体AとBの間に障害物があれば、飛んできた鉄針は障害物に突き刺さる。
これなら無意識に働きかけられようと関係ない。
後に放った電撃についても同様だ。
あえて狙いをつけずに放てば、電撃はアシュモネに突き刺さった鉄針に向かって勝手に引き寄せられる。避雷針の原理だ。
「力業でうんぬんとかいうくだりも、オレに無敵のバリアがあると思い込ませるためのブラフだろ」
「……あなた、意外と切れ者ね。見くびってたわ」
「最後に一つ聞いてやる。十五年前、クラーケンにギオドラ海賊団を襲わせたのはテメェか」
「……そう。もしかしてとは思ってたけど、やっぱりアナタ……」
アーシュラの問いにアシュモネは何か言いたそうに僅かに口を開きかけ、
「────いいえ。やっぱりやめた」
しかし何を思い直したのか、喉まで出かけた言葉を腹の底へと押し戻し、いかにも魔王らしい悪辣な笑みを浮かべた。
「なーんにも知らないって哀れよねぇ。正義の海賊団? 奴隷の解放者? ばーっかみたい。この世の闇の深さも知らないくせに、笑っちゃうわ」
「なんだと!?」
「ええそうよ。ギオドラの船団をクラーケンに襲わせたのは私。ケルセスに嵐の笛を渡して唆したのもそう。よかったわねぇ、生き残れて。この十年の英雄ごっこは楽しかったかしらぁ?」
「────ッ!!!!」
悪意に満ちた魔王の嘲笑はアーシュラの逆鱗に触れた。
激烈な怒りにアーシュラの体毛はバリバリと帯電して逆立ち、白く輝きを増していく。
周囲に立ち込め始めたオゾン臭にアシュモネの顔から余裕の色が消えた。
「殺すッ! お前だけは絶対にッ!!!!」
音さえも置き去りにして。
雷そのものと化したアーシュラは、自らを一本の矢とし、魔王の心臓目掛けて一直線に突き込んだ。
「が……っ!?」
だが、聖銀の一撃は魔王の心臓にあと一歩届かない。
鋭い痛みにアーシュラが視線を落とせば、いつからそこにあったのか、半透明の触手たちが彼女の全身を刺し貫いていた。
「あ、ははは……はははっ。お馬鹿さぁん! まんまとひっかかった! ぜーんぶアナタをこの状況に追い込むための罠だったって考えなかったの?」
流血は無かった。
爪を立てて触手を引き裂こうとアーシュラが藻掻くが、まるで幽霊のように指がすり抜けてしまい触れることさえできない。
だというのに半透明の触手はアーシュラの身体深くに食い込み、まるで無数の槍で刺し貫かれたような痛みを与えてくる。
「ふふふ……っ、正直、もののついで程度に考えてたけど、こうも上手くいくとは思ってなかったわぁ」
電撃に内臓を焼かれた痛みを堪えつつ、アシュモネは口元を三日月型に歪めた。
「な……にを……」
「い た だ き ま ぁ す♡」
「ぐっ!? がぁあああああああああああああああああああああああ!?」
今まで積み上げてきたアーシュラの力が、触手を通じてアシュモネに吸い取られていく。
苦痛さえ伴うほどの未知の快楽にアーシュラが身をよじると、アシュモネはまるで極上の美食を味わうかのようにうっとりと頬を上気させた。
「あぁ……♡ こんなに濃いの初めて! まだまだ全然吸いきれない!」
獣化が解けて元の姿へと戻っていくアーシュラと反比例するように、アシュモネの背中に突き刺さっていた鉄針が再生する肉の勢いに押されて、一本、また一本と抜け落ちていく。
いかなる理屈か、力を吸われるほどにアーシュラは若返り、鍛え上げた屈強な身体も少しずつ縮んで小さくなっていく。
「気持ちいいでしょう? 自分の全部を吸い取られるのって。このまま空っぽになるまでぜーんぶ吸い取ってあげる!」
元々ほぼ拮抗していた力の天秤は、今や完全にアシュモネの側へと傾いた。
最後の抵抗とばかり、アーシュラは出せる限りの全力で電撃を放つが、まるで効いている様子がない。
「諦めの悪い子ねぇ。ほぉら、もっと気持ちよくなっちゃえ♡ あなたの冒険はここで終わるのよ!」
「がああああああああああああああああああああああああああああ!?」
幽霊触手がさらに体内へ深く侵入し、心臓よりもさらに奥、魂の外殻に触れる。
脊髄を駆け上った快楽が脳の奥で弾け、目の奥で火花が散った。
もはやここまでか。
脳を焼く快楽の激流にアーシュラが意識を手放しかけた────そのとき。
ゴゴゴゴゴ…………ッ!
「わ た く し で す わ ぁ!!!! 国際問題がナンボのもんじゃいおんどりゃァーッ!」
巨大なドリルが大理石の床を『ズガガガガッ!』と突き破り、そのまま天井に向かい炎の尾を引きながら一直線に飛び抜けていく。
あまりに唐突な第三者の乱入に、呆気に取られたアシュモネがポカンと間抜けな顔を晒す。
あれは何だ。何故ドリルが。ていうかわたくしって誰よ!?
混乱する淫魔王。その一瞬の隙を突いて。
「させるかぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ!!!!」
「っ!?」
────斬ッ!!!!────
どこからともなく、まるで幽霊のように唐突に現れた少年の刃が閃き、淫魔王の触手を一刀の下に断ち切った!




