0039 海竜のねぐら
大人一人がようやく通れるくらいの狭い岩の裂け目から身をよじって抜け出ると、目の前に広大な地底湖が広がった。
天井一面にびっしりと生えたヒカリゴケの輝きが澄み渡る水面を優しく照らし、水底では青い輝きを放つ水晶が神秘的な輝きを放っている。
「綺麗……」
目をキラキラと輝かせ、アリアが感嘆の息を漏らす。
確かにこの景色を見れただけでもここまで来た価値があると思える。
「ここからはお喋り厳禁だ」
口の前で人差し指を立てたビリーさんが無音歩行で俺たちを先導する。
俺も幽歩を使い彼の背中に続く。
幽歩は文字通り幽霊の歩き方だ。だから肉体のある俺が使うと地面から僅かに身体が浮いて、滑るように移動できる。
しばらく進むとビリーさんが急に立ち止まり、ジェスチャーで止まれと指示した。
ビリーさんに手招きされ、リゼラたちと一緒に岩場の影からこっそり湖の方を覗き込む。
────いた。あれが海竜……!
なんて大きさだ。
湖から首だけ出して眠っているので全体は見えないが、頭だけでも十階建てのビルくらいはある。
彫りの深いシャープな顔立ちは水の抵抗を抑えるためだろうか。
立派な二本の角が後ろ向きに生えていて、閉じた口の端から鋭い牙の先端が覗いていた。
すごい、あれが本物の竜! かっこいい!
「きゅー」
ちょんちょん。
誰かが俺の背中をつつく。
うるさいな、もう少し見させてよ。こんな機会、滅多にないんだぞ。
「きゅきゅーっ!」
後ろを確認せずやんわりと手で払いのけると、思い切り背中をド突かれて俺だけ岩場の影から放り出されてしまう。
ちょっ!? 冗談にしてもやり過ぎじゃない!?
「きゅーぅ!」
「…………やぁ、コンニチワ」
振り返ると、大きなお目目が可愛らしい海竜の赤ちゃんとご対面。
赤ちゃんと言っても二階建ての家くらいはあるけど、湖で寝ているお母さん(?)と比べたらどう見ても赤ちゃんだ。
たぶん俺たちが隠れていた岩場の近くで寝ていたのだろう。
身体の色が保護色になっているし、このサイズだ。ビリーさんが岩と間違えても仕方ないと思う。
岩場の方に目を向けると、みんな顔を真っ青にして早く戻って来いと必死で俺を手招いていた。
「きゅーきゅっ!」
「わっ!?」
俺のどこが気に入ったのか、海竜の赤ちゃんが丸っこい鼻先を俺のお腹にぐりぐりこすりつけて甘えてくる。
もしかして遊んでほしいのかな。
すると赤ちゃん竜はスンスン鼻を鳴らし、俺の腰のあたりをしきりに気にし始めた。
もしかしてミスリルの短剣が気になるのか?
「ごめんね。これはオモチャじゃないし、君と遊んでる時間もないんだ」
「きゅー?」
虚空瞬在でみんなが息を潜めている岩場の影へ転移してすぐに身を隠す。
「きゅっ!? きゅー! きゅぅ!」
びっくりした赤ちゃん海竜が甘えた声で俺を呼ぶ。
うっ……。ちょっと罪悪感。けど君に構ってる暇はないんだ。ごめんよ。
「お、おまっ、肝が冷えたぞ!?」
「すいません。行きましょう」
「いや、謝るのは俺の方だ。海竜の赤ん坊なんざ初めて見たが、まさか岩に擬態してるとはな……。すまん」
ビリーさんの小声の謝罪を首肯で受け入れ、再び息を殺して移動を開始する。
だが……。
「きゅー、きゅ!」
「わぁっ!?」
長い首を使って岩場の上から覗き込んできた赤ちゃんに見つかってしまい、砂場の上に放り投げられてしまう。
「しーっ! ダメだったら! 君に構ってる暇はないの!」
「きゅー?」
そんな可愛い顔してもダメだぞ。
再び隙を見て離脱しコソコソ移動するも、どういうわけか赤ちゃんは何度でも俺を見つけ出して岩場の影から放り出されてしまう。
そして鼻先をぐりぐり押し付けて甘えてくるのだ。
もしかして、かくれんぼのつもりか?
「困ったな」
「きゅぅ!」
「あっ、こらやめろって。くすぐったいだろ。あはは、ダメだってば」
頭を撫でて言い含めるが、多分伝わってないんだろうな。
みんながいる岩場の方を見ると、全員この世の終わりみたいな顔をして俺の後ろを必死に指差していた。
え、何、後ろ? ……まさか。
「グルルルルルルル……!」
「ア゜ッ゜」
────終わった。
そりゃあれだけ騒げば気付かれるって。
がっつり目を覚ましたお母さん竜がグルグルと唸り声を上げ、二本の角の間に紫電がバチバチと迸る。
まことにもうしわけございませんでしたぁっ!
「きゅー!」
赤ちゃんが俺を庇うように前に出て、お母さん竜に何かを訴えかける。
「────ッ!!!!」
お母さん竜、怒りの大咆哮。
風圧で俺の顔肉がぶるるんと波打ち、熱い吐息と一緒に飛んできたよだれで全身べちょべちょになった。
あぁぁ……。くさい。
「きゅ……っ、きゅぅ!」
だけどそれでも赤ちゃんは引かなかった。涙目になりながらも必死に踏ん張り、母親の圧に負けじと自分の意思を主張する。
お前、そこまで俺のことを……!
諦めちゃダメだ。俺もちゃんとお母さんに敵意が無いことを示さないと。
俺はその場から三歩後ろへ下がり、お母さん竜に向けて深く頭を下げた。
「グルルル……」
赤ちゃんの訴えと、俺の精一杯の意思表示が通じたのか、お母さん竜は「仕方ないわね」とでも言いたげな雰囲気を滲ませ、赤ちゃんの身体を咥えて首を引いた。
「グルゥ……」
さっさと行け。
そう言っているように聞こえた。
「きゅぅ……」
「寂しいけど、ここでお別れだよ」
寂しそうにこちらを見つめる赤ちゃん竜に別れを告げる。
そんな顔で見ないでくれ。俺まで寂しくなるだろ。
「きゅぅ! きゅうーっ!」
それでも俺の方へ走り寄ろうとする赤ちゃんの背中をお母さんが咥えて止め、その隙に俺は二匹の前から姿を消した。
「お前、すごい奴だな! あの状況はプロでも諦めるぞ!」
「アタイもうダメかと思ったよ」
「兄ちゃんこそ真の勇者だべ」
「俺ァ新たな伝説の誕生を見たぜ。帰ったら詩にして永遠に語り継ぐからな!」
「ぐすんっ、ご迷惑おがげじでずびばぜんでじだ……っ」
岩場の影に戻ると、冒険者の先輩たちが口々に俺を称え、頭を撫でられたり肩を組まれたりともみくちゃにされた。
「赤ちゃん海竜はどんな手触りでした!? ニオイは!?」
「ぢょっどザラザラじでだ……。ニオイはあんまりじながっだど思う。ひぐっ、ぐすんっ」
「そうなんですのね! わたくしも触りたかったですわ!」
小声ではしゃぐ冒険者やアリアとは逆に、リゼラはものすごく冷めた目で遠巻きに俺たちを見ていた。
「……ごめん。どうしても我慢できないから言うわね。みんな臭くないの?」
と、リゼラが鼻を摘んで俺から少し距離を置く。
確かに腐った生魚みたいな臭いで全身べっとべとだけど、その反応は傷つくからやめてほしい。
「ま、冒険者やってりゃ慣れるよな」
「んだな」
「もっとエグいニオイの奴なんていっぱいいるしねぇ……」
「これくらい平気にならなきゃプロにはなれん」
と、冒険者たちは各々顔を見交わして頷き合い、割と平気そうな顔で答えた。
臭いと言わないあたりみんな大人だ。
「んもー。リゼラったら、確かにバチクソくっせぇですけど、そこに触れないのが優しさというものですわよ」
「その優しさたった今蒸発したわよ」
バチクソくっせぇって言われた……。
「とにかく早く抜けましょう。臭くてかなわないわ」
また臭いって言った!!!!
仕方ないじゃん! 生き物なんだからさぁ!
ともあれこんなところで遊んでいる場合でもないので、俺たちは遅れを取り戻すように先を急いだ。
「きゅーぅ! きゅーぅ……!」
俺を呼ぶ赤ちゃん海竜の声は、ねぐらを出るまでいつまでも、いつまでも響き続けた。
バイバイ赤ちゃん。元気で育てよ。
ぐす……っ、うぅ……っ。やっぱりくさい……。
◇
──海底洞窟 オーラン王宮直下(sideアーシュラ)──
大翔たちより一足先に海竜のねぐらを抜けたアーシュラは、息も絶え絶えに真っ暗な通路をニオイだけを頼りに進んでいく。
通路は進むほどに先細りしていき、やがて行き止まりにたどり着くと、彼女は辺りの天井を手探りで調べ始めた。
するとゴツゴツした岩壁の中につるりとした感触を見つけ、力任せに押し上げる。
穴を塞ぐようにはめ込まれたタイルが外れ、開いた穴に身を滑り込ませれば、そこは地下牢の中だった。
周囲を見渡し耳を澄ます。どうやら見張りはいないようだ。
(……チッ、予想以上に魔物と遭遇しちまった)
身体はすでにボロボロで、魔物の猛毒で目も若干霞んでいる。
危険地帯を全速力で駆け抜けてきた代償は大きかった。
迷わず虎の子の高級回復薬と万能解毒薬をポーチから取り出し、小瓶のフタを開けそれらを一気に飲み干す。
傷口が熱を帯びてみるみる塞がり、疲れがすっと楽になった。
強烈な薬効で疲れを先送りにしただけだが、元より短期決戦のつもりなので今は動ければそれでよかった。
牢屋の鉄格子を腕力で強引にこじ開け外に出たアーシュラは、階段を駆け上がり王宮内へ侵入する。
……が、どこもかしこも不気味なほど人の気配が感じられない。
(チッ、変なニオイが充満してやがる)
甘ったるくて脳の奥が痺れるような、嫌な感じのニオイ。
ケルセスの身体にも僅かに染み付いていたニオイだ。明らかに敵はこちらの動きを察知して自分を誘い込もうとしている。
(ハッ、むしろ好都合だ)
敵がわざわざ待ち構えていてくれるなら、むしろ探す手間が省ける。
敵が罠を張って待ち構えているというのなら、その罠ごと粉砕して倒してしまえばいい。
ニオイの元を辿り、アーシュラは長い尾をたなびかせ風のように廊下を駆けた。
真っ先に向かったのは玉座の間。ニオイの大本はこの中にあるらしい。
「チッ! 魔王にでもなったつもりかよッ!」
豪華な装飾の施された両開きの扉を勢いよく開け放つと、より一層濃密なニオイが鼻を麻痺させた。
「あら、意外と早かったわねぇ」
ケルセスの記憶で見た女が、四つん這いにさせた裸の国王の上に足を組んで座っていた。
その足元では半裸の王子が腕立ての姿勢を取っている。足置きのつもりだろうか。
肌が透けて見える薄布だけを身に纏い、人外の美を振りまきながら女が足を組み替える。たったそれだけの仕草で、同性のアーシュラでさえ知らずうちに生唾を飲んでいた。
「────はっ……!?」
とっさに後ろに大きく飛びのき警戒を強めたアーシュラに、女は煙管を噴かして艶めかしく嗤う。
「一人で来るなんて、見た目通りの脳筋みたいねぇ、アナタ」
「黙れクソ淫魔が!」
「あらぁ、もう正体までバレちゃってるの? つまんなーい」
「ふざけてんのかテメェ!」
「いやーん、怖ぁい。曲者じゃー、であえであえー」
ふざけた調子で女が手を叩くと、玉座の間を飾る垂れ幕の裏に隠れていた騎士たちがアーシュラを取り囲み、入り口の扉が固く閉ざされる。
彼らが放つ気配は歴戦の猛者のそれであり、アーシュラの見知った顔も何人か混ざっていた。
「この子たちはこの国の最精鋭。全員が金等級上がりの近衛騎士よ。これだけの人数相手に、たかが銀等級止まりのアナタがどれだけ持つかしらぁ」
騎士たちが武器を構え俄かに殺気立つ。
確かにこれは一筋縄では行かなそうだと喉を鳴らしたアーシュラは、迷わず奥の手を切った。
「獣化転神!!!!」
刹那、アーシュラを中心に雷鳴が轟く。
彼女を取り囲んでいた騎士たちは何が起こったかさえ分からぬまま殴り飛ばされ、そのまま気を失った。
「で? 精鋭がどうしたって?」
「あらま。聖銀の二つ名は伊達じゃなかったってわけね」
眼光鋭く毒婦を睨み据えるは、一匹の人狼。
その全身は灰色の体毛で覆われ、牙と爪はさらに鋭くなり、顔つきも人のそれから獣のそれへと変化していた。
毛先からは常にバチバチと放電しており、薄く光を放つその姿はどこか神聖な空気さえ纏っている。
「ひ、ひぃぃぃっ!?」
近衛騎士たちを一撃で薙ぎ倒した凄まじいパワーに恐れおののき、四つん這いの国王が豚のように肥えた身体を揺らして転がるように逃げていく。
獣化転神。
それは獣人族の中でも限られた戦士のみが到達しうる一つの極致。
己の中に眠る獣の因子を呼び起こし、より獣に近い姿となることですべての能力を爆発的に増大させるアウタースキルである。
現在、アーシュラのレベルは25。
これは引退した元金等級冒険者や軍属の人間さえも差し置き、この国でもダントツの数値である。
それほどの実力を持っているにも関わらず彼女が銀等級のままなのは、ギルドを通さず依頼主から直接クエストを受けるなど、昇級審査に響かない人助けがあまりにも多すぎたためだ。
「次はテメェの番だ」
雷光を纏ったアーシュラが牙を剥くと、淫魔は額に冷汗を浮かべ後ずさりする。
「や、やぁね。そんな怖い顔しないでよぉ。ほ、ほら、気になってたこととかあるでしょう? まだ解けてない謎とか! 私の目的とか!」
「知るか。テメェだけはここで殺す!」
戦獣と化したアーシュラが雷光の尾を引き、一瞬で淫魔との間合いを詰める。
絶大な膂力のすべてを乗せ、稲妻を帯びた拳が振り抜かれ────
「なーんちゃって。ざーんねんでした」
「っ!?」
直撃すれば山すら砕く威力の拳が、女の鼻先でピタリと止まる。
彼我の距離は僅か数ミリ。
だがそのたった数ミリが押し切れない。
ぐぐぐ、と拳が見えない力に押し戻され、逆にアーシュラが吹き飛ばされた。
「ふふふっ。力業であそこまで迫ってきたのはアナタが初めてだし、ご褒美に私の真の姿、見せてあげる」
女の身体がふわりと宙に浮き上がり、その姿形を変えてゆく。
男を惑わす肉付きのいい肢体はそのままに、肌はみるみる青みを増し、シミ一つ無かった玉の肌に刺青のような紋様が浮かび上がる。
頭には二本のねじれ角が生え、漆黒の翼を大きく広げた姿はまさに悪魔そのものだ。
「────我が名はアシュモネ。この世すべての淫魔を統べる破滅の女王。獣風情が、ひれ伏しなさい」
ついに真なる姿を現した邪悪なる魔王の瞳が妖しく輝く。
次の瞬間、まるで見えない力に上から押さえつけられたかのように、アーシュラの身体は床の上に這いつくばっていた。




